浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「無」は神より偉大である

ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』(9)

今回は、第3章 無の小史(p.72~)である。(久しぶりに本書を読むことにします*1)。

ホルトは、「何もない(無)とはどういうことだろう?」と問い、「存在しないもの」と答えている。

  • 貧乏人はそれ(無)を持っている。(貧乏人は何も持っていない)
  • 金持ちはそれを必要としている。(金持ちは何も必要としない)
  • 長い間それを食べれば人は死ぬ。(長い間何も食べなければ人は死ぬ)
  • 場合によっては、真実からそれより遠いことは何もない。(このうえなく真実からかけ離れている)
  • それは一面、白であり黒でもある。(一面、白であり黒であるものなどない)
  • それは神にとって不可能だ。(神にとって不可能なことは何もない)
  • それは無能な人にとってはお安い御用だ。(無能な人は何もできない)
  • どれほど矛盾した二つのことを持ち出しても、それは二つを一つにまとめることができそうだ。(矛盾した二つのことを持ち出したら、何もそれらを一つにまとめられない)

以上のことから、「神秘的なもの、それは無だ」と結論できるかもしれない。とはいえその結論は、神秘的なものは何もない、つまりあらゆるものが――たぶん、無も含めて――明らかだという意味に過ぎないのかもしれない。

「それ」に「無」というルビが振ってある。「振り仮名」ならぬ「振り漢字」である。

「神秘的なもの、それは無だ → 神秘的なものは何もない → あらゆるものが明らかだ」という論理展開が面白い。

 

サルトル存在と無

サルトルは重々しい大著『存在と無』で、「無は存在につきまとう」と述べた。サルトルにとって、世界は、無という広大な海に漂う、存在を詰めた小さな密封容器のようなものだった。

パリのカフェは、座席、鏡、煙ったような雰囲気、人びとの活気ある声、ワイングラスを合わせる音、カチャカチャ音を立てる皿など、気持ちの良い日には「存在に満ちている」。

[そのような]パリのカフェでさえ、無からの確かな隠れ家を提供できなかった。…無は、打ち砕かれた希望や挫かれた期待を通じて世界に侵入するのだから、責められるべきは私たちの意識そのものに違いない。

青年(学生)時代に「たまり場」で語り合っていた頃は、「存在」に満ちていたことであろう。しかし、希望が打ち砕かれ、期待が挫かれるにつれ、「無」が侵入してくる。人は無から逃れるために日常生活(表象)に埋没していく。

 

「何もない(nothing)」と「ないこと(nothingness)」

カルナップは、実存主義者は「何もない(nothing)」の文法に惑わされたのだと述べている。つまり「何もない(nothing)」は名詞の「無」のように振る舞うので、実存主義者たちは、それが、もの、つまり何かを意味しているに違いないと思い込んだというわけだ。これは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』で、白の王が犯すへまと同じだ。白の王は、もし「誰もいない(nobody)」が道で死者を追い越したのならば、「誰もいない(nobody)」が先につくはずだと推測するのである。「何もない」をものの名称として扱えば、矛盾した戯言がいくらでも生みだせる。

何もない(無、nothing)」と「ないこと(無の状態、nothingness)」の単純な区別をつけることによって、まともな感覚はすぐに取り戻せる。論理学者が思い出させてくれるように、「何もない(nothing)」は、[ものの]名称ではない。それは単に「何でもない(not anything)」を縮めたものだ。例えば、「nothing is greater than God」は、「無」は神より偉大であるというように、神を超える存在について話しているのではなく、神より偉大なものはないと言っているに過ぎない。一方、「ないこと(nothingness)」はれっきとした[ものの]名称だ。それは、何も存在しない状態という、ひとつの存在論的な選択肢、ひとつの可能な現実、ひとつの五感でとらえることのできる状態を意味する。

「無事」(ないこと、nothingness)がひとつの「存在論的な選択肢」であるなら、「有事」(あること)がもうひとつの「存在論的な選択肢」なのか。それとも「存事」(あること)がもうひとつの「存在論的な選択肢」なのか。

上記説明によれば、「nothingness is greater than God」は、神より偉大なものはないと言っているのではなく、「無」は神より偉大であるというように、神を超える存在について話していることになろう。そして、人が「nothing」と「nothingness」を区別しないで使っているとしたら、「nothing is greater than God」は、両義的である。

このように見てくると、存在(あること)と無(ないこと)が「両義的である」あるいは「見方の相違である」ようにも思えてくる。

https://owlcation.com/humanities/Why-Something-Vs-Nothing

 

哲学者の誤謬

哲学者の誤謬とは、想像できなかったことを、現実はそうでなければならないという理解とはき違える傾向のことだ。この誤謬を犯しやすい思想家は、「それ以外には考えられない。だから、それはそうに違いない」と自分に言い聞かせる。だが、私たちの想像力の及ばないところにも、単にあり得るのではなく、実際にあるものが色々とある。例えば、色の無いものを視覚化することはできないが、原子に色はない(灰色でさえない)。並外れた才能を持つ少数の数学者を除いて、ほとんどの人は歪んだ空間を想像できない。それでも、アインシュタイン相対性理論によれば、私たちはユークリッド幾何学に反する、歪んだ四次元時空多様体の中で生きている。それは、イマヌエル・カントがどうしても想像できないと思い、哲学的観点から排除したものだ。

自分が想像できないことを「あり得ない」と切り捨てることはよくある。視野狭窄、決めつけ、いろいろ言い方はあるが、自分の愚かさを表すものである。

私は、物理学や数学を勉強していないので、「歪んだ四次元時空多様体」と言われても、想像できない。昔、相対性理論の初心者向け入門書を読んだことがあるが、理解できなかった。光速度不変? 時間? 物質? エネルギー? 空間? 実験? 観測? 事実と解釈? 数学と物理学? 量子力学?…いつか気が向いたら、勉強してみるか。

「存在するとは知覚されることである」(バークリー)…主観的観念論/独我論は、哲学者の誤謬であるか?

 

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ここまでは大して面白い話ではなかったが、次の「観察者論法」の話から面白くなった(p.84~)。

「無」を否定する論法に、(1)観察者論法と(2)容器論法があるという。

(1) 観察者論法

ベルグソンやブラッドリーは、絶対無は自己矛盾していると考えた。何故なら、絶対無というものがあり得ること自体、絶対無について考える観察者の存在が前提として不可欠だからだ。これを、無を否定する「観察者論法」と呼ぼう。観察者論法は、専門家ならざる観点からも疑問の余地があるばかりでなく、そこには途方もない意味合いもある。即ち、あり得るどんな世界にも、意識を持つ観察者が少なくとも一人いなくてはならないということなのだ。しかし、意識あるもののない宇宙は物理的にあり得るに違いない。

ブラッドリーという名前は初めて聞いたので、Wikipediaの説明を脚注にメモしておく*2。ここでは、「世界/存在」(絶対無を含む)を認識するためには「観察者」(意識)を必要とするというのが、「観察者論法」であると理解しておこう。彼によれば、「意識あるもののない宇宙は、物理的に即ち物理学者の意識(理論)においてあり得る」ということになろうか。

(2) 容器論法

宇宙の中身すべてが想像によって消えたとしても、中身が収まっていた抽象的な背景が必ず残される。この背景は空っぽかもしれないが、無ではない。中身が入っていなくても、容器は容器だ。これを、無を否定する「容器論法」と呼ぼう。

ランドルの意見では、誰も空間の存在を「考えて追い払う」ことはできないので、空間はあらゆる可能な現実の一部に違いない。つまり、空間は不可欠な存在、神のようなもの、アンリ・ベルグソンの内なる自分ということになる。…彼は「空間は無ではない。それは覗き込んだり、なかを移動したりすることができる何か、かさのある何かだ」と主張する。

夜空を見上げれば、無数の星がきらめいている。私は、それらの星をすべて消すことができる。星間物質も消すことができる(ダークマターも)。もちろん、地球やそこに生息するあらゆる生物も消すことができる。エネルギーを消すことができる。しかし、空間(容器)がどうしても残る。空間を消すことは非常に難しい。私は卵の殻を破ることができない。

「空間」は容器である。容器を破壊したらどうなるか? 卵の殻を突き破ったらどうなるか? そもそも、破壊とか突き破るとかが何を意味するのかがわからない。

「空間」とは何か? 私の根本的な問いである。

 

この後、ホルトは「空間とは何か」について述べている。それは、次回に見ていくことにしよう。

*1:

興味ある部分のみ、引用しコメントします。

本章では、いろんな人の名前が出てきます。…サミュエル・テイラー・コールリッジロチェスター伯ジョン・ウィルモット、アルキロコス・ジョーンズ、マクベスパルメニデスライプニッツジョン・ダンカール・バルトジャン・ポール・サルトルマルティン・ハイデッガー、ロバート・ノージック、マイルズ・バーニートルドルフ・カルナップルイス・キャロルパルメニデス、ピーター・ヒース、アンリ・ベルグソン、フランシス・ハーバート・ブラッドリー、アレクサンドル・ルリヤ、アインシュタインアインシュタインイマヌエル・カントビード・ランドル、ニュートン、スティ-ブン・ホーキング、アレックス・ヴィレンキン

*2:フランシス・ハーバート・ブラッドリーの道徳についての見解は、功利主義倫理学で想定されている自己という観念に対する批判を行うという意図に貫かれていた。彼にとっての中心的な問いとは、「なぜ私は道徳的であらねばならないのか?」というものだった。彼は個人主義に反対し、自己と道徳性は本質的に社会的なものであるという主張を擁護した。…しかし、社会は道徳的生活、そして我々の理想的自己の実現要求の源には成り得ないことを、彼は認めていた。例えば、ある社会が内側からの道徳的改革を必要とするとき、その改革が基づくところの基準は、元々の社会には求められないので、どこか他のところからやって来ざるを得ない。…ブラッドリーの哲学的名声は死後急速に落ち込んだ。イギリス理想主義は1900年代にジョージ・エドワード・ムーアとバートランド・ラッセルによって実質的に葬り去られてしまったからである。