浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

生物の輪郭(内部と外部)

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(39)

今回は、第4章 機械としての生命 第4節 さまざまな力学系モデル の続き「パターンの生成と個体の生成」(p.203~)である。

山口は次のようなことを述べている。

  • DNA分子が担う情報には、タンパク質が具体的にどのような働きをするかと言った情報は含まれていない。それ故、情報機械モデルによっては「タンパク質からいかにして生物体が形成されていくのか」という問題については十分に理解することができない。
  • 力学系モデルは、形態形成のメカニズムを理解するためのモデルとして非常な有効性を持っている。様々な分子が離合集散することで自己組織的に生物体がある特有の形態へと形作られていく過程を「複雑なパターンの創発」として捉える。
  • 力学系モデルにより、生物がなぜそんな形をしているのか、外的に観察可能な形質がいかにして形成されるのかを理解することができる。

自己組織化と「自己」

しかし、自己組織化の理論によって、生物という自ら輪郭を形成していき、それぞれの主体性や、更には主観性をも持っているかに思える対象を、まさしくその生物に即して理解することができるか、というのがこの章での私の問いであった。ありていに言って、「自己組織化」と言うが、そこで「自己」が形成されるのか、ということである。

「自己組織化」という言葉を、「パターン形成の仕組みを理解するために、物理学、化学、生物学、情報科学などに広く用いられる概念。無秩序状態の系において、外部からの制御なしに秩序状態が自律的に形成されることをいう。」(日本大百科全書)と理解するなら、これは「秩序」の形成であり、「自己」の形成ではない。であれば、「自己組織化」という言葉は適切ではない。

本来の意味での力学系、例えばベルーゾフ・ジャボチンスキー反応や、熱せられたフライパンにおいて形成されるベナール・セルのパターンについて言えば、それらが生命と類比できるような「自己」であるとは到底みなし得ない。…円形や六角形のパターンの輪郭の内外に、「生命とその環境」に相当するような質的断絶はない。そうした系においてパターンを読み取るのは観察している人間に他ならない

秩序」(パターン)という言葉も要注意である。観察者(人間)がパターンを読み取っている。私は、朝の散歩で「雲」を見ることが多いが、様々なパターンが形成されている。

チョウチョウウオの模様や細胞性粘菌の形態形成

チョウチョウウオ(磯の魚たち)(http://www.asahi-net.or.jp/~TJ6M-ETU/fphoto/cyoucyou.htm

キイロタマホコリカビ[黄色球埃カビ](細胞性粘菌)

Tyler Larsen、2017/5/30、Macro photo of Dictyostelium discoideum fruiting bodies on black agar.(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dictyostelium_discoideum_fb_3.jpg

チョウチョウウオの模様や細胞性粘菌の形態形成が、なぜそうした形になるのかを説明することは、生きているとはどういうことかを説明することとは別のことである。こうした形態形成の理論以前に、チョウチョウウオにせよ粘菌にせよ、それらが生きていることは前提されている生きている系であっても力学に従うということは、ある意味当たり前である

形態形成の理論以前に、それらが「生きていること」が前提されている。「生きている」とは、どういうことか?

セル・オートマトンライフゲームにおいて形成される様々な構造物(パターン)についても、同様のことが言える。そうした構造物を「一つの構造物」として、つまり「ひとまとまりのもの」として認識するのは観察者としての人間であって、セル・オートマトンの個々のセルが全体として生じるパターンを認識しているわけではない。…セル・オートマトンにおけるパターンをパターンとして認識するのは、外在的な観察者の視点からの読み込みである。

昔「ライフゲーム」の解説書を読んだことがある。よく覚えていないが、面白いパターンが形成されるという話であり、「生命」を説明するものではなかったので、馬鹿らしくなって投げ出してしまった。

「パターンとして認識するのは、外在的な観察者の視点からの読み込みである」ということはよく憶えておきたい。

細胞と自己増殖オートマトン

細胞のような明らかに生きているものであっても、それを構成している個々の諸要素(核酸やタンパク質や糖や脂質)は細胞全体を認識せず、単に相互作用しているだけだ。にもかかわらず細胞は全体として一つの構造物として振舞うではないか。パターン全体[細胞]が自身を認識するメカニズムは、予め実装しておかなくても、創発的に生じるのではないか。こう思われるかもしれない。

細胞についてならばそれはもっともな指摘である。しかし、細胞と自己増殖オートマトンの大きな違いは、前者の諸要素の相互作用は、増殖だけでなく細胞の維持にも関わっているのに対し、後者は単に自分の隣に自分と同じパターンを描き出すことを目的として設計されたマシンだという点である。例えば細胞は多少損傷しても自己修復するが、自己増殖オートマトンにはそうした機能はなく、おそらく損傷を与えれば崩壊してしまうだろう。自己増殖オートマトンの機能は自分自身には向けられておらず、そうした者に自己認識のメカニズムは創発しないのではないかと思われる。

自己増殖オートマトンを「パターン形成マシーン」と呼ぶならば、それは「増殖」や「維持」を含意しない。山口は、細胞の「増殖」や「維持」に、「生きている」ことの特徴を見ているようである。

生物の輪郭(内部と外部)

山口は、ここまでの議論をまとめている。

さしあたりここまでの議論をまとめておくと、単なるパターンの形成と生物の個体の形成との最大の違いは、生物は自らの輪郭を形成し、自らの内部と外部とを自ら区別するという点にある。それ故、外在的な観察者の視点から見てパターンに見える、と言うのではなく、形成されたパターンそれ自身の視点から見て、そのパターンの輪郭が有意味であるかどうかが重要である。

山口は「生物は…自らの内部と外部とを自ら区別する」と述べているが、これまでそのような議論はなかったように思う(見落とし?)。「輪郭を形成する」とは「内部と外部」を区別することを意味すると言えないこともないが。

いずれにせよ、輪郭あるいは細胞膜の「内と外」は興味深いテーマである。

もちろん、「それ自身の視点」と言っても、その生物に意識があるかどうかということを言いたいのではない。そういうことであれば、例えば細菌や植物にはほぼ間違いなく意識はないだろうから、細菌や植物は生物ではないということになってしまう。それに、結局のところ他の生物の意識をその生物に成り代わって直接的に経験することはできず、その存在を客観的に証明するすべはないので、「意識の有無」を「生命の有無」の分割線とすることは不適切である。

細菌や植物に「意識」があるかないか、私にはわからない。「意識」の定義次第だろう。「意識」の問題は一筋縄ではいかないだろうから、別途とりあげよう。

生物の目的と行動

私としては、パターン自身にとってのそのパターンの輪郭が有意味であるかどうかの基準は、そのパターンが「ひとまとまりのもの」として振舞うということ、つまり自分の輪郭の外部に対して行動するという点に見るのが適切であると考える。生物であるということは、それ自身の目的を持って行動する主体だということである。

ここで言うパターンとは、細胞レベルのことか個体レベルのことかよくわからない。「目的」という言葉からは、「個体」レベルのようでもあるが…。いずれにせよ、細胞レベルの話から、「目的」という言葉を持ち出されると、「?」となる。「生物であるということは、それ自身の目的を持って行動する主体だということである」と言うが、では細菌や植物は、「目的」を持っているのかどうか?(山口は、先に「細菌や植物にはほぼ間違いなく意識はないだろう」と言っていたが、「意識」はなくても「目的」を持つことができるということか?)

本項の最後で、山口は述べている。

自らと環境とを区別し、自らの輪郭を境界付けるものとは行動するものなのである。そして生命の理解において重要なことは、ある生物の行動や身体構造の合目的性を、その生物自身の目的に即して理解することなのだから、生命を理解するとは、ある生命がなす行動についての理解を、その生命自身と共有することではないか。行動の構造と他者理解の問題については本書の最後で考える。

ここで言う「行動」と「相互作用」の違いがよくわからない。また「ある生物の行動や身体構造の合目的性」とは人間の解釈だろう。「生命を理解するとは、ある生命がなす行動についての理解を、その生命自身と共有することではないか」と言うが、「共有する」とはどういう意味なのかよくわからない。