浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

大人への問題:1+3=□ の空欄を埋めよ。(認知症テストではありません)

先日、たまたま次の記事を読んだ。

sukusuku.tokyo-np.co.jp

この記事及びコメントを読んで、考えさせられた。

それは、ほとんどすべての人が、「3+1=5」は間違いで、「3+1=4」が正しいということを当然のこととして議論していることに、視野狭窄を感じたからである。(偉そうなことは言えないので、小声で言うが、科学リテラシーの欠如を感じた)

 

「1+3=5」であるという証明

3つの証明を考えた。

証明1:「屁の河童」とは、「造作ない」という意味である。即ち、ヘ(1)+カッパ(3)=ゾウサナイ(5)である。

証明2:1とは、1以上2未満の数である。3とは、3以上4未満の数である(※1)。であれば、代表値として1.5と3.5とするのが妥当である。故に、1.5+3.5=5である。

(※1)例えば、30代の男性とは、30歳から39歳までの男性である。

証明3:「1+3=5」を証明することは、「10+30=50」を証明することに等しい。「10+30=50」を8進数で表記すれば、「12+36=50」となる。従って、左辺(10+30)が10進数表記、右辺(50)が8進数表記だとすれば、「10+30=50」となる(※2)。

(※2)これを屁理屈だというなら、「一足す三(1+3)はfour(4)である」は、屁理屈ということになろう。

以上の証明において言いたかったことは、「前提条件」次第で、「1+3=5」は「真」となる、ということである。

(補足1)

コメントの中に、3.3 + 1.3 = 4.6であり、これを両辺別々に四捨五入表示すれば、3+1=5となるというものや、左辺を切り上げ表示すれば、4+2=6となるというものがあった。いずれも正しいだろう。これは、1や3を整数と捉えるか、連続変数の中の代表値と捉えるかの違いにあると言えよう。

(補足2)

コメント欄を見ていると、無条件に、「3+1=4」が正しく、「3+1=5」が誤りであるとしたうえで、「教え方」の観点から、谷口教授を評価している人が多数であるように見受けられた。

しかし、私には、「3+1=4」の正しさは自明ではないので、なぜ自明ではないと思うのか述べてみたい。

「1+3=4」であるという証明

私は数学に疎い文系人間なので、基本的なところを確認しておきたい。

「1+3=4」は「公理ではない」ので、「証明」を必要とする(と思う)。

公理とは、その他の命題を導き出すための前提として導入される最も基本的な仮定のこと。

公理を前提として演繹手続きによって導きだされる命題は定理とよばれる。

多くの文脈で「公理」と同じ概念をさすものとして仮定前提という言葉も並列して用いられている。

公理とは他の結果を導きだすための議論の前提となるべき論理的に定式化された(形式的な)言明であるにすぎず、真実であることが明らかな自明の理が採用されるとは限らない

証明とは、ある命題が正しいことを主張するための一連の演繹のことである。証明の各段階においては、前提(公理、定理等の認められた事実)や仮定から推論規則によって新たな命題を導くという形態をとる

証明の代表的なテクニック…対偶法、背理法、反例、転換法、同一法、ディリクレの箱入れ論法、数学的帰納法。(Wikipedia

では、「1+3=4」は正しく、「1+3=5」は誤りであることは自明であるとしている人は、これをいかに「証明」するのか(どのような公理や定理から演繹されるのか、前提条件は何であるのか)、無知な私にぜひわかりやすく教えていただきたい。

 

コメントのコメント

興味深いコメントが色々あったのですが、ここではその一部にコメントしたいと思います。

「考える力を育てる」、「頑張って回答を導き出した過程を評価する」などに配慮することは理解できます。でも、「3+1=5」ではないことをしっかりと教えて欲しいと思います。「誤りを受け入れて、認める。そして、なぜ間違えたか? 再考する。」。時間がかかり、面倒ではあるけれどこの課程をしっかりと踏んで欲しいです。「誤りを認め、再考する」については、子供より大人の方がなかなか出来ないように感じています。(2021/08/22 11:47)

「3+1=5」が誤りであると決めつけているコメントが多数ありますが、上述の如く私には自明ではありません。

「3+1=4」が正しいという場合の前提は何でしょうか?

「「誤りを認め、再考する」については、子供より大人の方がなかなか出来ないように感じています」という部分は、私もその通りだと思います。頭が固くなるのでしょうね。

うちの子が5才の時1+1=3といったのでおかしいと思って聞いたら小さい林檎と大きい林檎を足したので3になったと言った。きっと天才になると確信していたら、小学校に上がったら1+1=2と普通の子になってしまった。(2021/06/29 03:33)

具体的なモノと抽象的な数の関係。大きさの異なるリンゴは単純には足し算できない。大きいリンゴが小さいリンゴの2倍あったとして、それを半分にして3人に分配したら平等な分配である。すなわち、1+1=3とするのが望ましい。…ところで、リンゴ1個と大人1人を足し算できるでしょうか? 足し算とは何でしょうか?

3+1=4だろ!? どう考えても! と頑なに自分の意見を変えないうちのような頑固な親父が教えた場合は型にはまった人間しか育てられない。…全員が全員同じ事を考え、結局別の視点から助かる方法を考えられずに全員沈没して死亡と言う事態になりかねない。…一般常識にとらわれていると新たな開発は不可能となる。(2022/06/29 19:59)

優秀な組織は、一般常識にとらわれない多様な視点を尊重します。頭を柔らかくしましょう

『頭が固い』の正しい意味・由来、例文|分かりやすく解説します♪♪(https://pua-blog.com/atamagakatai/

「3+1=4」が唯一の正しい答えであるという思い込みこそ、これまでの悪しき教育の結果ではないでしょうか。

「学ぶ」ということは、「頭を固くする訓練である」という側面もあるのではないでしょうか。

日常生活で数字を扱うとき(例えば、買い物をするとか、体温を測るとか)、「3+1=4」とする、それは良い。しかし、物事を根本から考えようとするなら、これが「正しい答え」であるというためには前提条件があるということを認識すべきでしょう。私には前提条件の吟味なき議論が横行しているように思われます。(あえてそうしているのかもしれません)。

子供の可能性を伸ばすといえば聞こえはいいですが、このような教え方をされた子供は成績で評価されず、受験に間に合わず、社会からはじかれてしまいます。そのとき一番被害を被るのは子供です。大人の自己満足に突き合わせて子供の未来を潰してしまっては本末転倒です。まずは日本の受験というシステムが変わってからこのような教え方が広まっていくべきです。(2021/06/25 16:38)

「教え方」だけではなく、「教育システム」に目を向けることは大事だと思います。しかし、「受験というシステムが変わってから、このような教え方が広まっていくべき」というのはどうでしょうか。いつまでもこのシステムは変わらないのでは? このような教え方が望ましいというのであれば、このシステムを変えるにはどうしたら良いのかを考えるべきではないでしょうか。

私は法学部卒ですが、思考のプロセスの大切さを教授たちはしつこく学生たちに説いていました。人間は、プロセスを修正しながら、本当の正答へといずれは辿り着く、そういう生き物です。…実社会の問題解決でも、一旦エラーを引き起こしたので、ここのこの過程を修正しましょう、なんてことはいくらでもあります。 (2022/12/01 16:14)

「本当の正答」があるとは思えません。前提条件次第で異なる答えがあると言うべきでしょう。「正答」とされるのは、特定の視点からのものと考えられます。なお、実務的には「目的/目標」が大きく関わってくると思います。