浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

本質主義の彼岸 人間中心主義の正当化?

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(24)

今回は、第2章 エゴイズム  第4節 ディケーの弁明 2 普遍化可能性 の続き(p.80~)である。(D:正義論者、E:エゴイスト。緑字は傍点の代わり)

Eが提起する第3の疑問は、「なぜエゴイストは当為言明を使用しなければならないのか」であった。

その疑問にDは、次のように答えていた。

D:人は主体である限り、偶然的価値[目的]については命法[~せよ]で済ますことができたとしても、必然的価値[目的追求一般を可能にする諸条件]については一定の当為判断[~すべし]にコミットせざるを得ない。なぜなら、人はまさに主体であることによって、好むと好まざるとに関わらず自己の「自由」と「順境」に対する権利主張を持ってしまっているからである。

この権利主張の放棄は目的追求一般への自己の可能性の放棄を意味する。しかし、人は行為する限り主体であり、この権利主張を放棄できない。このことは、主体たるあらゆる個人は「何人も私の自由と順境を阻害すべきではない」という当為判断にコミットしていることを意味する。「個の自由」を強調するエゴイストにおいてはこのような当為判断へのコミットメントはなおさらのことだろう。(p.79)

主体が自由と順境とに対する権利主張を持つというのは、主体が自由と順境とに対して自分が権利を持つと信じているとか、現実にそれを主張しているという意味ではない。それは、人が行為主体であるというまさにそのことによって、この権利主張にコミットしているということである。(p.80)

E:主体にとっての必然的価値から主体の権利主張を導出するのが俺には承服しかねる。仮に、あんたの言う自由と順境が主体にとっての必然的価値であるとしても、主体はそれらを保全・実現するためには、何もそれらに対する権利主張にコミットする必要はない。確かに、他人には、自分がこのような権利を持つと主張する方が自分にとって便利だし、それはまた必要かもしれないが、だからといって、真剣に、あるいは誠実にこういう主張をする必要はない。自分がこういう権利を持つことを内心では主張していなくても、他人に信じ込ませることができれば充分だ。

Eは「権利主張にコミットする必要はない」と反論している。しかし、Dは「権利主張にコミットしている」とは言っていたが、「コミットする必要がある」とは言ってなかった。

D:自由と順境とに対する権利主張への主体のコミットメントは、内心で主張するとかしないとかと言った、心理的次元の問題ではない。それは行為そのものの規範的構造に関わる。この権利主張は主体がそれを欲すると否とを問わず、行為することにおいて既に前提されてしまっている。不誠実な権利主張によって他人を欺くことも一つの目的追求であり、これに従事する者は、目的追求に内在する一般的条件である自己の自由と順境に対する権利主張をやはり前提したうえで、この目的追求に従事している。

E:前提されてしまっているなんて決めつけられたって、俺には合点がいかないよ。…「言葉の詩的効果をもって論証に代えるのは地を求める者の作法に反」するんじゃなかったかい。

やはり、「この権利主張は…行為することにおいて既に前提されてしまっている」というところが難しいのだろう。私は、上図で見たように、行為する主体は、目的追求することにおいて、「目的追求一般を可能にする条件」が前提されているのであって(行為そのものの規範的構造)、これを「権利主張にコミットしている」と表現しているのだと理解する(実定法上の権利主張ではない)。だからこれは「決めつけ」ではない。

D:確かに、あなたを説得するには行為の分析をもう少し深める必要があるようだ、しかし、「個の自由」に無限の価値を置き、偽善と狂信を憎むという倫理的動機からエゴイズムに帰依されたあなたが、「当為のゲーム」の完全な局外者・傍観者でいられるとは私には信じられない。…さて、普遍化可能性の問題についての議論は、今これ以上続けても進展がなさそうだから、別の機械に譲ることにし、私にとって気がかりなもう一つの問題に移らせていただきたい。

 

本質主義の彼岸

ここからは、第4節 ディケーの弁明 3 本質主義の彼岸(p.82~)である。

D:あなたは、正義が種および類のエゴイズムに与すると批判された。あなたの言うところによれば、このエゴイズムは、特定の種・類がその種・類であるが故に、他の種・類とは違った特別の仕方でそれらを取り扱うことを是認する。

エゴイズムの哲学の提唱者は、「正義は、種および類のエゴイズムに与する」と批判していた。*1

どういう意味だったか、復習しておこう。

D:彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]から見れば、正義は、特定の種・類がその種・類であるが故に、他の種・類の場合とは違った特別の取扱いを、その種・類のために要求する種的・類的エゴイズムを、容認しかつ支持しているのである。

人間性を正義における本質的特徴とみなし、すべての人間の平等な取扱いを要求する「博愛主義的」正義観も、彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]に言わせれば、家畜の大量虐殺を人類の生存のために遂行して恥じない類的エゴイズムの立場である。(p.54)

「食」をめぐる人間中心主義が環境に影響を及ぼしているhttps://www.erca.go.jp/jfge/info/publicity/tayori/49/feature/interview01.html

具体例を考えるとわかりやすい。私たち人間は、他の動物や植物や菌類(きのこ)を殺して食料としている。いかに「正義論者」といえども、食料源たる動植物等を殺してはいけないとは言わないだろう。同じ生き物である動植物等をなぜ殺して良いのか。それは私たちが、人間だから! 言い換えれば、それは

<特定の類[人間]がその類である[人間である]が故に、他の類[人間ではない生き物]とは違った特別の取扱いを、その類[人間]のために要求する類的エゴイズム>

に他ならない。正義論者が認めるであろうこのような人間中心主義は、エゴイズムの哲学の提唱者が主張する「個」のエゴイズム

<私が私であるが故に、他者の場合とは違った特別の取扱いを、私のために要求する>

と同型であり(原理的差異は認められず)、「正義は、種および類のエゴイズムに与する」と主張する。

D:人間性という本質の有無がこのような差別的取扱いの究極の正当化根拠にされる。このような態度こそ、実践的本質主義の立場に他ならない。

実践的本質主義とは何か。

D:実践的本質主義とは、客観的に存在する種や類の本質とみなされた何らかの属性を、ある個体が持つ、または持たないことを示すことが、その個体に対する一定の取扱いの究極的な正当化になるとする主張である。

D:実践的本質主義は人類エゴイズムに限らず、すべての種的・類的エゴイズムに共通の正当化図式である。しかし、果たして正義はこのような実践的本質主義に与しているのだろうか。究極的な正当化根拠としての本質なるものの存在を、果たして正義は想定しているのだろうか。私はこれを否定したい。

Dは、「正義は、実践的本質主義に与しない」と言っている。これは先ほどのE(エゴイズムの哲学の提唱者)の主張する「正義は、種および類のエゴイズムに与する」の全面否定である。

「実践的本質主義に与しない」とは、究極的な正当化根拠としての本質なるものの存在を認めないということである。種や類の本質とみなされた何らかの属性を、異なる取扱いの正当化根拠として認めないということである。

D:正義の禁止は通常、個体のレベルに適用されている。正義はこのレベルでは、個体的同一性における差異のみを理由にして複数個体を差別的に取扱うことを禁止する。

D:しかし、なぜ正義の禁止は個体のレベルにその適用を限定されなければならないのだろうか。そのような限定にはまったく理由がないと思う。多少とも反省的にものを考えてみるならば、正義の理念を属性のレベルにも適用することはむしろ当然だと思えてくるだろう。

D:では、属性レベルに適用された正義の理念は何を禁止するのか。それは、ある属性がまさにその属性であることを理由に、即ち、その属性自体の同一性を理由に、それ[その属性]を有する個体と有さない個体とを差別的に取扱うことを禁止する。正義はこのレベルでは、どの属性にもその属性自体の同一性を理由に、他の属性よりも優越的または劣等的な地位を与えたりはしない。

正義の理念は「個体」のレベルに適用される。個体の差異(私と他者)は、異なる取扱いの正当化根拠とはならない。そして、正義の理念は「属性」のレベルにも適用される。属性の差異(属性Aと属性B)は、異なる取扱いの正当化根拠とはならない。Dはこのように主張するが、果たしてどうだろうか。

属性とは何か? 井上は、この言葉をどういう意味で使っているのかよく分からない*2。広義に「対象に所属する諸性質・特徴」と理解すれば、「性別、年齢、学歴、職業、居住地、年収、能力、国籍、人種、民族」などが挙げられよう。とすれば、これらの区分(属性)に応じて「異なった取扱い」をすることは当然の要請ではないか。

具体的に、「性別」や「年齢」について考えてみると良いだろう。一方が「男性という属性」を持ち、他方が「男性という属性」を持たない(女性という属性を持つ)として、正義は男性と女性を区分して取り扱わないのだろうか。そんなことはないだろう。区分して取り扱わないのは、例えば「選挙権」に関してとか、「看護師」という資格に関してとかであって、出産時期の労働に関してとか、トイレの設置とかに関しては、区分して取り扱うべきものである。すなわち、「何々に関して」を補充すべきであると考える。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

D:従って、正義の禁止が属性のレベルにまで拡張されるならば、ある属性の有無を理由に二つの個体を差別的に取扱ったものは、「なぜその属性を持つ個体と、それを持たない個体とを差別するのか」という問いに対して、「一方がその属性を持ち、他方がその属性を持たないから」と答えることはもはや許されない。彼は、その属性の同一性以外の、その属性の「重要性」を示す理由を示さなければならない。

上に見たように、具体的に「何々に関して」を補充して考えれば、その属性の「重要性」の理由は容易に見出すことができると思われる。

D:このような[その属性の重要性を示す]理由として彼は、その属性と経験上または意味上結合した別の属性か、あるいはその属性の属性を挙げるだろう。しかし、これらの属性に関してもまた同様な「なぜ」という問いを提起することができる。このような問いを提起されたならば、彼はまた、これらの属性の同一性以外の、これらの重要性を示す理由を示さなければならない。つまり属性レベルに適用された正義理念は、究極的正当化根拠としての「本質」の地位をいかなる属性にも承認しない。それは実践的本質主義に単にコミットしないだけではなく、積極的にこれを排除する。正義理念のこのような側面に注目するならば、これを種的・類的エゴイズムに与するものとして批判するのが不当であることが分るだろう。

正義理念が、実践的本質主義を排除するのは良いとして、なぜそうするのかの理由付けとして、「別の属性」とか「属性の属性」とかを持ち出すのはよくわからない。「何々に関して」を補充すれば済む話ではなかろうか。

ところで、「食料源たる動植物等を殺して良い」(人間中心主義)の議論はどうなったのだろうか。

E:しかし、正義理念をそこまで拡張的に解釈するなら、正義の名における正当化は無限背進に陥って、埒が明かなくなるのではないか。

D:埒が明かなくていい。実践的推論は数学や論理学における証明とは違う。与えられた公理と推論規則による決定的な証明とか反証は、実践の領域ではもともと不可能だし、また必要でもない。そこではある主張に関して、実際に提示されている論拠のうち、反対論拠よりも支持的論拠のほうが優越しているならば、別のもっと有力な反論が現れて論議の形勢が逆転しない限り、その主張が暫定的に受容される。この領域ではこのような暫定的に受容可能な判断に従って行動するしかなく、一切の懐疑を不可能にするほどの確実性に到達しない限り「判断中止」するという態度はかえって非合理である。実践的推論の核心は、言葉の本来の意味における「弁証法」である。具体的事例に関する正義論議もこの意味で弁証法である。「なぜ」という問いを完全に排除することはできないとしても、何が「重要」な属性かについて、論議の参加者たちの間で暫定的に受容可能な判断に到達することはできるだろう。もっとも、常にこれが可能だというわけではないが。

実践の領域では、ある主張を「暫定的に受容する」というのは、現実的だと思う。その際、その属性が重要か否かではなく、当該属性を「何々に関して」異なる取扱いをすべきか否かを議論した上での「暫定的な受容」とすべきだろう。

E:平たく言えば、元々いい加減な事柄については、いいかげんにごまかしておけばいい、ってわけだ。ま、こういう開き直りは俺の趣味にもまんざら合わないでもないから文句は言うまい。だがもう一つ別の疑問がある。属性レベルに拡大適用された正義理念は、実践的本質主義を排除するということが、理論の上で言えたとしても、現実に幅を利かせている種的・類的エゴイズムをこのような正義理念は結局擁護してしまうのではないか。例えばさっきの人類エゴイズム[人間中心主義]…このエゴイズムに帰依している者-つまり殆どすべての人間-は拡大された正義理念に反しないためには、確かに「俺が食べている動物は人間ではないから」という類的エゴイズム丸出しの理由付けはできない。しかし、その代わりに、例えば「人間は他の動物よりもはるかに多くの理知に恵まれているから」というようなもっともらしい理由付けを見つけるだろう。「なぜ理知に秀でた生物はそれより理知に劣った他の生物よりも優遇されなければならないのか」と真剣に悩む変わり者も少数はいるだろうが、大抵の人間は今の理由付けに満足し、初めの類的エゴイズム丸出しの理由付けに感じた戸惑いをもはや感じないで済む。ここで「重要」な属性についての、あんたの言う暫定的に受容可能な判断が成立したわけだ。しかし、地球上に人間より理知的な生物が存在しないことは誰でも知っているから、今の理由付けによって各人の内心にある人類エゴイズムの実質は少しも損なわれない。むしろ体のいい正当化を得たことになる。そして暫定的に受容可能なこの理由付けは永続的に受容可能となるだろう。

例えばの話「人間は理知的だから」という理由付けは、「暫定的に受容」されるかもしれない。だとすると、Eの言うように「今の理由付けによって各人の内心にある人類エゴイズムの実質は少しも損なわれない。むしろ体のいい正当化を得たことになる」という指摘は的外れでもないように思われる。

E:こういう事情を考えると、正義理念を属性レベルに適用して、[実質的に]類的エゴイズムに正当化の場を与えることは、類的エゴイスト[人間中心主義者]をして、自らの類的エゴイズム丸出しの理由付けに後ろめたさを感じ続けさせておく場合よりも、かえってこのエゴイズムの蔓延を助長するのではないか。「理性的存在者たる資格において俺はこの牛肉を食べる権利を持つ」などと信じているものよりも、罪の意識を感じながら牛肉を食べている者のほうが、人類エゴイズムへのコミットメントの度合いが少ないとは思わないかい。

このEの主張にはある程度説得力があるように思える。Dは何と応答するか?

*1:「種」と「類」のエゴイズム(2021/12/7)、「個」のエゴイズム 「狂信者」と「検閲官」(2022/1/21)参照。

*2:

広義には対象に所属する諸性質を意味する。哲学上の用語としては、事物の基本的な性質、すなわちその性質によって初めてその事物が可能となるような性質(本質)を意味し、偶有性や様態と区別されて使われる。(日本大百科全書

ある事物に属する性質・特徴。哲学で、事物が本来具有する根本的性質。それなしには実体が考えられないような本質的な性質。(デジタル大辞泉