浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

エイリアンの「理知における卓越性」テスト

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(25)

今回は、第2章 エゴイズム  第4節 ディケーの弁明 3 本質主義の彼岸 の続き(p.86~)である。(D:正義論者、E:エゴイスト。緑字は傍点の代わり)

D:正義の問題を真剣に考えようとする者には想像力が必要である。「理知における卓越」を、人類エゴイストが理由として真摯に受容しているか否かをテストするには、彼の想像力に訴えなければならない。

私たち人間は、おなじ生物である動植物等を殺して食べている。「人間だから、殺して食べて良い」というあからさまな人間中心主義はさすがにとらないだろう(しかし、それ以上考えることをやめる)。では、人間と動植物等は何が違うのか。「人間は他の動物よりもはるかに多くの理知に恵まれているから」という何かもっともらしい理由を誰かが言い出したら、それをオウム返しにいう。だが、本当にそう思っているのか(真摯にその理由を受容しているのか)、それをテストする以下のような方法があるという。

D:人類よりも理知において優れた生物が、他の天体から地球に襲来したという状況を、現実であるかのように彼に想像してもらう。この時、人類が地球上の他の生物に対してしているのと同じことを、この宇宙からの侵入者が人類に対してすることを自分が甘受できるかどうかを、彼は自問してみればよい。*1

エイリアンが「ワレワレハ、ニンゲンヨリモ、エイチニオイテ、スグレテイル」と言って、人間を飼育し殺し食料にすることを受け入れられるか自問してみるというテストである。

https://bunshun.jp/articles/-/45790

D:もし甘受できなければ、彼の理由付け[理知における卓越]は偽りで、彼は依然として人類エゴイスト[人間中心主義者]である。もし本当に感受できるならば、彼はもはや人類エゴイストではなく、代わって理知的卓越性という本質を志向する類的エゴイストになる。このような想像力の行使による自己テストを試みないで、単に口実としてのみ「理知における卓越」という理由付けを採用している人類エゴイストには、正義は決して「人類エゴイズム卒業証書」を授与しない。

Dは、人類エゴイスト(人間中心主義者)と類的エゴイストは違うと言う。この点、私の前回の記事は、理解不十分だったようだ(誤解あり?)。「エゴイスト」(エゴイズムの哲学の提唱者)と「実践的本質主義者」と「正義論者」が出てくるので、紛らわしい。

エイリアンの「理知における卓越性」テストについて言うと、

  1. エイリアンが人間を飼育し殺し食料にすることを受け入れられなければ、「理知における卓越」という理由は偽りで、彼は人類エゴイスト(人間中心主義者)である。
  2. エイリアンが人間を飼育し殺し食料にすることを受け入れることができれば、彼は理知的卓越性という本質を志向する類的エゴイストである。

では、この「類的エゴイスト」は、「実践的本質主義者」なのか「正義論者」なのか。

井上は、次のように述べていた。

実践的本質主義とは、客観的に存在する種や類の本質とみなされた何らかの属性を、ある個体が持つ、または持たないことを示すことが、その個体に対する一定の取扱いの究極的な正当化になるとする主張である。(p.82)

そうすると、2の「理知的卓越性という本質を志向する類的エゴイスト」は、「類の本質とみなされた理知的卓越性という属性の有無」により、異なる取扱いを正当化している(言い換えれば、理知的卓越性という属性を有する者は同じ取り扱いをする)ので、「実践的本質主義者」と言えよう。

そして正義論者は、「実践的本質主義に与しない。正義は、究極的な正当化根拠としての本質なるものの存在を想定していない」(p.83)のであるから、正義論者は、人類エゴイスト(人間中心主義者)でも類的エゴイストでもない

それでは、「理知における卓越」テストにどういう態度をとるのか?

D:それから、正義理念の属性レベルへの適用は、決してあなたの言うように種的・類的エゴイズムに「正当化の場」を与えるものではない。むしろ、その究極的正当化を不可能にするものである。人は正義の不断の要求を自覚している限り、一つの類的エゴイズムの卒業が他の類的エゴイズムへの入学であることを常に意識せざるを得ない。正義の理念に帰依する者には安心立命が許されない。そもそも、人々が「俺は人間だから」式の理由付けに後ろめたさを感じるのも、正義理念を属性レベルに適用していないからではなくて、逆にそうしているからこそである。このレベルに適用された正義の理念からの正当化の要求を意識することによって初めて、人類エゴイストは自分が暗黙裡に前提していた人類エゴイズムを対象化し、相対化することができる

Dは、「正義理念の属性レベルへの適用は、類的エゴイズムに、究極的正当化を与えない」と言う。この「類的エゴイズム」とは、「類の本質とみなされた何らかの属性の有無を、異なった取扱いの正当化の根拠とする」考え方であり、実践的本質主義の考え方である。正義論者はこれを否定する。どのように否定するのか?

ある属性(例えば「理知的卓越性」)が「類の本質」とみなせるかどうかは議論の余地がある。論者により異なる。そのような属性に絶対的な正当性を与えることはできない。

このことを、Dは、「正義の不断の要求」、「正義の理念に帰依する者には安心立命が許されない」と言っているのだと思う。それ故、

ある主張に関して、実際に提示されている論拠のうち、反対論拠よりも支持的論拠のほうが優越しているならば、別のもっと有力な反論が現れて論議の形勢が逆転しない限り、その主張が暫定的に受容される。(p.85)

という主張になり、「理知における卓越性」テストに対しては、Dは明確な答えを示していないが、「理知における卓越性」が現時点での有力な論拠とみなされるのならそれで判断するし、他に例えば「人間が生きるため」(「人間だから」と言うのとは違う)が現時点での有力な論拠とみなされるのならそれで判断するということになるのだと思われる。

D:さて、人類エゴイズムの問題に多少話が片寄ったが、正義による実践的本質主義の排除が意義を持つのはこの問題に対してだけではない。人類社会の内部における様々な差別の問題についても、これは重要な意味を持つ。正義理念は第一に「個」のエゴイズムを排除するが、これだけでは確かに、現代人の多くが共有している公平感覚を満足させられない。例えば、人種や性による差別などは、人種や性が「負わされた本質」とみなされている場合には、もはや「個」のエゴイズムではないが、多くの人々がこれらを不公平と感じるのは事実である。

ロシアとウクライナ(&欧米)の戦争*2について言えば、これは「正義」をめぐる戦いであるように思われる。実践的本質主義では、互いに自らの正義を主張して戦うしかないだろう。これを乗り越える考え方が、「暫定的な論拠」では心許ない気もする。

D:最近、このような公平感覚を理論化しようという意図の表れとして、正義を論じる者の間では「目隠しごっこ」が流行している。彼らの基本的発想は、各人が自己の特殊利害が何であるかを知らなかったならば、彼が選択するであろう原則を公平な正義原則とみなそうというものである。しかし、このような手の込んだ仕掛けは人為的で、人々の公平感覚の惰眠を破るレトリックとしての機能以上の有効性を持つとは思えない。

「目隠しごっこ」とは、ロールズ『正義論』の「無知のヴェール」の言い換えである。うまい言い換えだと思う。ロールズの主張については、次章以降で検討されるだろうから、その際に考えることにしよう。

D:それよりは、私が示唆したような属性レベルへの正義理念の適用による実践的本質主義の排除という方法の方が、簡潔で明確であり、有効であると思う。例えば、黄色人種と白人とを差別的に取扱う者にこの方法を適用したならば、彼にはもはや「こっちは白人であり、あっちは黄色いから」式の理由付けは許されなくなる。しかし、皮膚の色以外に一方のみが有し他方が実際上有し得ないような属性を見つけるのに彼は非常な困難を感じるだろう。仮に彼がそのような属性を見つける、あるいはでっちあげることができたとしても、今度はその属性の「重要性」を示す独立の理由を、この方法はなおも要求し続ける。いずれにせよ、彼は白人と黄色人種との差別的取り扱いを正当化する「重要な属性」についての彼の判断を、暫定的に受容可能なものにすることには失敗するだろう。おや、あなた、つまらなさそうな顔をしていますね。

ロシアとウクライナ(欧米)に対して、異なった取扱いをする根拠は何か? 「領土」というのは、ヤクザの縄張り争いと同じであり、これは論外である。恐らくは「資本主義/民主主義」と「社会主義独裁制」というイデオロギーが主張されるだろう。これが異なった取扱いを正当化する「重要な属性」とされる。問題は、このイデオロギーの対立をいかに調整(調停)するかである。Dの主張する「正義」では「弱い」気がする。

E:最後のほうのくだりはあんた方の内輪もめの話だろう。おれの前で演説するのは場違いだと思うがね、

D:あ、どうも、これは失礼。私ともあろう者が、ついつい興奮してしまったようです。…今日の議論は私にとって非常に刺激的でした。あなたとは今度またじっくりと腰を据えて議論させてください。そのときまでには理論武装を一段と充実させておきたいと思います。それでは、ごきげんよう

 

今回で、第2章は終了する。次回からは、第3章 現代正義論展望 である。

*1:この例は、R.ノージックによる(注42)。

*2:いずれ取りあげたいと思っているのだが、時間的余裕がない。