浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

ドーナツの穴 - 言語学からのアプローチ(2)

芝垣亮介・奥田太郎編『失われたドーナツの穴を求めて』(2)

今回は、下記記事の続きである。

shoyo3.hatenablog.com

穴の例示

芝垣は、「穴と呼ぶ空間」と「穴と呼ばない空間」を、下記a.b.のように例示していた(p.156)。

a.穴と呼ぶもの・穴を用いた表現

  1. 5円玉の穴、落とし穴、ズボンの穴(ひざ等)、ピアスの穴
  2. 洞穴、れんこんの穴、大穴[競馬等の]、穴場、抜け穴、風穴
  3. 人員・帳簿に穴があく、理論の穴
  4. 耳の穴、鼻の穴、お尻の穴、毛穴

b.穴と呼ばないもの

  1. コップ・瓶の中の空間、ズボン・スカートの空洞部分(足を通す部分)
  2. 家・教室の中、ボールの中の空間、口の中
  3. 浮き輪、フラフープ、指輪、腕輪、首輪、輪ゴム、ちくわ(←輪型)

x.私が追加したもの

  1. モグラの穴、ハチの巣、鍵穴、バウムクーヘン

前回記事で、私が例示したものは、意図的に行を入れ替えたものである。

問題:私が追加したものは、穴と呼ぶ空間か、それとも穴と呼ばない空間か?

 

穴の定義
  • 穴と呼ぶ空間の定義後から外力を加えてあけた空間(p.157)
  • 穴と呼ばない空間の定義後から外力であけられていない空間(p.160)

「穴と呼ばない空間」は「穴と呼ぶ空間」の否定だから、「穴と呼ぶ空間」の定義だけ覚えておけばよい。

もっとも考えやすい例は、「コップの中の空間」と「土に掘った同じサイズの空間」である。芝垣は次のように説明している。

前者が穴と呼ばれず後者が穴と呼ばれる理由は、おそらくコップというのは後から外力を加えて空間部分をあけたものではなく、初めからそこに空間ができるように全体の形が作られているのに対し、土の穴は元々平らな土に外力を加えて(例えば土を取り出して)空間を作ったという違いであろう。(p.157)

この定義のポイントは、「後から」と「外力を加えて」であろう。

芝垣はもう一つの例をあげている。「サーカーボールの中の空間」と「リンゴの中央にある虫が食べた空間」の違いである。これも、後から外力を加えてあけた空間か否かにより、違いが説明できる。例示のa1は、すべてこの定義で説明できる。しかし、例示のa2~a4は「後から外力を加えてあけた空間」とは言いづらい。そこで芝垣は上記定義を応用して、派生的定義を提案している。

  • 穴と呼ぶ空間の派生的定義…実際に外力によって形成されていない空間でも、本来はそこにない(ない方が良い)空間と人が捉えた場合、人はそれを穴と認識する。(p.158)

この定義のポイントは、「本来はそこにない」と「本来はそこにない方が良い」であろう。

何故これが応用なのか。

本来はそこにない空間というのは、往々にして後から何かによって外力であけられている可能性が高いと人は認識している。それ故、ある物体の中にある「本来はそこにない空間」を人は穴と認識する。

「本来はそこにない」とは、そこにそれがあることが典型的ではないこと、および驚きの対象になることであり、時としてそこにそれがあるが故に不都合が生じることさえも含まれるということにしておこう。(p.157)

この派生的定義により、例示のa2、a3は説明できよう。a4については、後出の「人間の体の穴」を参照。

穴と呼ばない空間についても、派生的定義が提案されている。

  • 穴と呼ばない空間の派生的定義…本来的に(最初から、外力なしで)そこにあると人が捉えている空間(p.160)

例示のb2、b3は、この派生的定義により、穴とは呼ばれない。「これらは最初から中に空間ができるように全体を形成しているのであって、全体ができてから中を外力でくり抜いたり掘ったりしたものではない」。

ここで芝垣は、例示b群に共通の特徴をあげている。

  • 穴と呼ばない空間に共通の特徴…人や物を収容するための空間(p.161)

この特徴は、穴と呼ばない空間の定義と穴と呼ばない空間の派生的定義から導かれる。

空間が当初から意図して作られるというのはその空間を利用するためであり、その空間を利用するというのは、そこに例えば「人や物を収容するため」である。

「人や物を収容するための空間」を含んだ物体を形成すれば、そこにできる空間は当然「本来的にそこにあると人が捉えている空間」となり、結果としてそれはサイズや形状に関わらず「穴」とは呼ばない。(p.161)

 

ドーナツの「穴」

ドーナツの穴は、「後から外力を加えてあけた空間」あるいは「本来はそこにない(ない方が良い)空間」(派生的定義)なのかどうか?

油で揚げる普通のドーナツはくり抜くことによって形成しなければ穴のあいたドーナツ型は形成しにくい。

ドーナツは、棒状の生地を輪にして両端をつなぎ合わせて作っているのではない。「輪」ではない。5円玉も同じく「輪」ではない。(p162,163)

ドーナツの穴は、「後から外力を加えてあけた空間」である。

 

人間の体の穴

人間の体の穴は、呼び方に応じて2種類に分けることができる。

①穴と呼ばれるもの…鼻の穴、耳の穴、尻の穴、目の穴(眼球が入っている部分)、毛穴

②穴と呼ばれないもの…口の中 (p.164)

この①「穴と呼ばれるもの」の例は、先ほどの穴の定義及び派生的定義に該当するとは言い難い。ではなぜ、「穴と呼ぶ空間」のカテゴリーに分類されているのか。

穴と呼ぶ空間は一般的にそこを使うことを意図していない。一方、穴と呼ばない空間はそこを利用するための空間である。この説明に照らし合わせると、①の語は、②の「口の中」ほどそこを積極的に意識して使うとは考えにくい。(p.165)

この説明は微妙である。先ほどの定義とは別に「積極的に意識して使うか否か」という基準を新たに導入しているようである。

芝垣は、体に存在する空間のいくつかを「穴」と呼び、口を「穴」と呼ばないことには歴史的な理由があるという。すなわち、①の語群はその汚れに対して「くそ」を用いるが(ex.鼻くそ、耳くそ、目くそ)、②の汚れに対しては「くそ」を用いない(×口くそ、口から「くそ」は出ない)。つまり「それらの間には認識上の差が存在し、その差は「くそ」という言葉がともに使われるかどうかで確認できる」という。(p.165,166)

人間の体の穴に関する芝垣の説明は、私たちの言葉の使い方をそのまま肯定し、それを何とか合理化しようとしているように見受けられる。*1

人間の体の一部を「穴」と呼ぶためには、芝垣の「穴と呼ぶ空間の定義及び「穴と呼ぶ空間の派生的定義」の他に、別の定義が必要と思われる。例えば、

・流体輸送のための管の末端を目視した場合、それを「穴」と呼ぶ。

あるいは

・流体輸送のための管の中空部分を「穴」と呼ぶ。

というのが思い付きの定義である。「流体輸送のための管」についてはWikipedia「管」参照。(流体輸送にこだわらないもっと幅広い定義が可能かもしれない)。

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前回記事でピックアップした「穴」の例を考えてみよう。

ズボンの穴…「ダメージ・ジーンズ」の穴は、ファッション目的の「後から外力を加えてあけた空間」であり、穴と呼ぶ。

瓶の中の空間…「ボトルカルチャ」は、「後から外力であけられていない空間」そして「観葉植物を収容するための空間」であり、穴と呼ばない。

ボールの中の空間…本来的に(最初から、外力なしで)そこにあると人が捉えている空間であり、穴と呼ばない。

人員に穴があく…「穴を用いた表現」である。欠員が生じたということは、本来の状態は欠員がないということであり、「穴と呼ぶ空間の派生的定義」に該当する。

首輪…本来的に(最初から、外力なしで)そこにあると人が捉えている空間であり、穴と呼ばない。

・れんこんの穴

https://shop.ng-life.jp/kuwabarafarm/0462-001/

芝垣は「れんこん以外に中に穴のあいている根は存在しない。根っこに穴のあいているという事実は充分驚きに値する事で、本来は根の内部に穴はないと人は考えている。だから、れんこんに見られるたくさんの空間は、本来的にそこにあるべきでない空間なので穴なのだ」(p.159)として、「穴と呼ぶ空間の派生的定義」に該当するから、穴と呼ぶと言っている。しかし、れんこんの穴は「根」の内部にあるのではなく、「茎」の内部にある。茎の内部には「維管束」があり、「穴」があるのが一般的といって良いだろう*2。だとすると、芝垣の定義によれば、「後から外力であけられていない空間」であり、かつ「穴と呼ぶ空間の派生的定義」にも該当しないので、「穴と呼ばない空間」に分類すべきということになろう。(「穴と呼ばない空間の派生的定義」に該当する)。

しかしながら、「人間の体の穴」の項のコメントで述べた「流体輸送のための管の中空部分」に該当すると考えられ、「穴」と呼んでよいと思われる。この意味では「穴と呼ぶ空間」に分類すべきということになる。

(続く)

*1:尻の穴からでる「くそ」(糞便、大便)は、他の「目くそ」や「鼻くそ」とは比べものにはならないほど重要な研究対象であるようだ。Wikipedia等の「糞」や「スカトロジー」の項目を参照。

*2:茎と根のつくりとはたらき(https://science.005net.com/yoten/kuki.php)参照。前回記事で、「芝垣は「根」と言っているが、議論に影響を及ぼすものではない」と言ったが、これは撤回する。根と茎の混同は議論に影響すると考える。