浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「集団的自己増殖系」と「生命」

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(40)

今回は、第4章 機械としての生命 第4節 さまざまな力学系モデル の続き「カウフマンの集団的自己触媒系と自律体」(p.208~)である。

従来の力学系モデルにおける自己組織化論は、…「自己組織化」と言いながら、「組織化」の方に理論が集中しておい、「自己」の形成についての十分に考察された理論が存在していない。

近年のバイオインフォマティクスでは、遺伝子制御ネットワークや代謝ネットワーク、シグナル伝達ネットワークなどの詳細が具体的に調べられており、それらの経路図が作成されているが、そうした異様なまでの複雑な経路を見たとき、我々は「それがいったい何を意味しているのか分からない」と思ってしまう。

あまりに詳細で具体的な知識は、「生命の本質」というような抽象度の高いレベルでの理解をかえって遠ざけてしまう。それに対してカウフマン『自己組織化と進化の論理』(1995)は、そうした詳細な経路の個々の部分については捨象し、それが「全体として自分自身を複製している」というシンプルな見方を提示している。

カウフマンは、遺伝子を中心とする「情報機械」のようなものは集団的自己触媒系において不可欠の要素ではないと考えている。「生命は、その核心において、ワトソン - クリックの塩基対形成という魔法とか、何か特定の鋳型複製機械には依存しない」と彼は言う。

ネットワークの(化学的)詳細を示されても眠たくなるだけである。「自己」とか、「生命(の本質)」については何も分からない。私は「生命(の本質)」について知りたいと思う。だが、それは可能なことなのか。少なくとも「鋳型複製機械」(増殖)をもって、「生命(の本質)」とは言えないだろう。

山口は、カウフマンの議論に2つの問いを提起している。

(1) こうした系の「輪郭」はどのように画定されるのか?

(2) 単に自己複製するだけで「生きている」と言えるのか?

(1) について

カウフマンは、「集団的に自己触媒作用を営む」というが、…集団的自己触媒系が「生命」として成立するためには、自分たち自身を「ひとまとまりの集団」として輪郭づけ、一つの「自己」として自らを成立させるようなメカニズムを持っていなければならないはずだ。

カウフマンの「集団的自己触媒系」というのは、「ひとまとまりの集団」が「自己」(ひとまとまりの集団)を複製するという意味か。(私はカウフマンの著作を読んでいないので分からない)

(2)について

自己複製によって増殖することをもって生命の本質とみなすのは、デルブリュックのファージ研究や、フォン・ノイマンの「自己増殖オートマトン」以来、現代生物学の主流となっている生命観である。

私としても、増殖することが生命の一つの重要な側面だということは認める。しかし、集団的自己増殖系が「生命」として成立するためには、自分たち自身を「ひとまとまりの集団」として輪郭づけることが必要だ。そして、自らと環境とを区別し自らの輪郭を境界付けるものは「行動」である。つまり生命とは、単に増殖するだけのものではなく、自他の区別や意味づけをすべく、自分自身の目的のもとに行動する主体でなければならない。

現代生物学の主流が、「自己複製によって増殖すること」をもって生命の本質とみなしているのだとしたら、私は「それはちょっと違うのではないか」と感じている。(そのようにみなす(定義する)のは勝手だが…)。

山口は、「自分自身の目的のもとに行動する主体」を太字にしている。これが山口の言いたいことであろう。

(1) 輪郭はどのように画定されるのか? に対するカウフマンの答えと山口の解説は次の通りである。

カウフマンの答えは「集団的に自己触媒作用を営む我々の反応系が、ある種の器の中に入れられたとしよう」というもので、輪郭の形成がいかにしてなされるかという問題そのものについては主題的に論じていない。あらかじめ作っておいた集団的自己触媒系を、その系とは必ずしも関係のない任意の容器に入れればいいというような論調である。…彼には「輪郭の形成=自他の境界の設定」が自己の成立において重要だという問題意識はあまり無いようである。

「器」とは何だろうか。「細胞」のことか、細胞の集合たる「個体」のことか。

山口は、「輪郭の形成=自他の境界の設定」が自己の成立において重要だと言う。山口は、細胞膜あるいは個体をイメージしているのだろうか。

(2) <自己複製=生きている>なのか? に対するカウフマンの答えと山口の解説は次の通りである。

カウフマンは、「集団的自己触媒系」に代わって、「自律体」が生命システムであるとしている(『カウフマン、生命と宇宙を語る』)。自律体とは、「増殖することができ、一つ以上の熱力学的仕事サイクルを行うことができるような自己触媒システム」である。つまり、単に増えるだけでなく、何らかの熱力学的仕事を行うものが生命だというのである。「ある環境の中で自分のために行動することのできるシステムを、「自律体」とよぶことにしよう」とも言っている。

カウフマンはここで、「自律=増殖+熱力学的仕事」としているらしい。「熱力学的仕事」をプラスしたら、なぜ「自律」になるのかよく分からない。「自分のために行動する」というとき、「自分」とは何か、「仕事」とは何かもわからない。

こうした生命観は、先に私が述べた「自分自身の目的のもとに行動する主体」という見方と重なるものである。

私は第2章で「生命の合目的性」について論じ、我々は細菌のようなものが示す運動についても、単なる物理的運動ではなく何らかの目的に基づく行動として理解してしまうと述べた。*1

私は、この「目的」という言葉にどうしても引っかかってしまう。「目的」は、「自己意識」の存在を前提しているのではないか。

実際には「自己意識」なるものは存在せず、ただ観察者が「何らかの目的に基づく行動として理解してしまう」というならわかる。そうであるならば、「本当のところは分からないが、私はそのように解釈する」と言うべきではなかろうか。

風媒花〜マツ(https://wisdom96.exblog.jp/10391211/

感情(「喜ばしい」や「嫌」など)は行動を動機づけ、対象を価値づける主体の側の契機である。にもかかわらず、私が思うに、「感情」は生物の機械論モデルによっていつも見落とされてきた。生物を機械との類比で理解しようとすると、どうしても

 入力(外部からの刺激) ⇒ 情報処理 ⇒ 出力(反応)

という形になりがちである。これはガス漏れ警報器のようなものとして生物の行動を理解しようとする図式である。…餌の存在から生物の捕食行動までの間も必然的な因果関係によってつながっているはずだと考えるのが、生物の機械論モデルである。

こうした図式には、生物の主体性や自発性は初めから含まれていない。従来の生物学や、更には人間の心を研究するはずの心理学においても主体性や自発性が謎であるとされてきたのは、もともと主体性や自発性がない機械というものの類比で生物を捉えてきたからであると私は考えている。

「機械」とは「主体性や自発性がない」(自己意識がない)ものだと前提すれば、山口の言う通りかもしれない。

しかし、「入力(外部からの刺激) ⇒ 情報処理 ⇒ 出力(反応)」の図式において、情報処理に「条件分岐構造」を含むとしたら、「必然的な因果関係によってつながっている」とは言えないだろう。この場合、外部の観測者には「主体性や自発性」を保有しているように見えるのではないか。

「自己」というもののあり方について内在的に理解することのできる我々自身について考えてみれば明らかなとおり、生物は外的刺激に反応して因果必然的に動くのではなく、むしろ

 関心や目的 ⇒ 外的状況の観察と評価行動

という順序で自発的に動く。更に、行動した後に行動の結果を観察し、それが関心や目的に即しているかどうかを評価する。結果が関心や目的にそぐわないものであれば再度行動し、以下、関心や目的が満たされるまで続く。

こうした「目的 ⇒ 評価 ⇒ 行動」という構造は、人間のような高等な生物にのみ当てはまるものではないかと思われるかもしれないが、生命がそれ自身の目的を持って行動する主体であるとするなら、こうした人間的な行動の構造と少なくとも類比可能な仕方で行動するものでなければ生命とは呼べないはずである。人間の場合でも、通常は行動の目的が意識的に自覚されているが、ときに無意識的に行動することがあるように、目的を意識することは行動の構造において不可欠なわけではない

山口は、「<目的 ⇒ 評価 ⇒ 行動>という構造は、人間のような高等な生物にのみ当てはまるものではないかと思われるかもしれない」と述べているが、私は、まさに「人間のような生物」(人間が高等な生物であるとは思わない)にのみ当てはまるのではないかと思う。

「目的」や「評価」という言葉は「人間中心」の言葉なので、上記構造を「関心 ⇒ 観察 ⇒ 行動」と言い換えたほうが分かりやすいかもしれない。これは更に「本能 ⇒ 環境の知覚 ⇒ 情報処理 ⇒ 行動」とも言い換えられよう。そうすれば、人間以外の生物に適用しても違和感はないだろう。しかし、これは、最初の「入力(外部からの刺激) ⇒ 情報処理 ⇒ 出力(反応)」と同じである。

山口は、「生命がそれ自身の目的を持って行動する主体であるとするなら」と述べている。また「目的を意識することは行動の構造において不可欠なわけではない」とも述べているので、「人間ではない下等な生物でも、意識的か無意識的かを問わず、目的をもって行動するなら、生命と呼ぶことができる」と主張しているようである。しかし、「人間ではない生物が、無意識的な目的をもって行動する」ということをいかなる根拠を持って主張しうるだろうか。明確なる根拠をもって主張し得ないから「~とするなら」と言っているのではなかろうか。

写真のような植物(風媒花)が、「自分自身の目的のもとに行動する主体」であると言うのは果たしてどうなのだろうか。