浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

質問、異論、批判

野矢茂樹『新版 論理トレーニング』(14)

今回は、第10章 批判への視点 である。本章は、第1節 質問への視点 と第2節 異論と批判 からなる。

質問への視点

理解できない議論に対しては質問しなければならない。その重要性はどれほど強調してもしすぎることはない。…恥ずかしがらぬこと、臆さぬこと、そして場数を踏むこと。

どのような相手に質問するのか。議論できる場なのか。TPO(時間・場所・場面)をわきまえなければならない。場合によっては、質問することにより、著しい不利益を被る。本書は「論理トレーニング」の本なので、この点についてはふれていない。

質問は大別して、「意味の問い」と「論証の問い」に分けられる。

そのチェックポイントは、次の通りである。

意味の問い → (a)曖昧さはないか。(b)具体性に欠けるところはないか。

論証の問い → (a)独断的なところはないか。(b)飛躍はないか。

例えば、次のような表現は、どのような意味なのか。

ものの本質は、心の目によってしかとらえられない。

このような表現に対して何も質問せず、わかったような気になっていては、同床異夢の可能性が高いだろう。

本質」という語はそれほど何気ない言葉ではないが、何気なく使われてしまう危険な語である。そこで「ものの本質」とはどういう意味なのか、と質問する。あるいはまた、「心の目」とは何のことかと問うても良い。こういう雰囲気だけで成り立っているような具体性の欠如した表現に対しては、具体例を求めることもポイントになる。

とりわけ政治家・官僚・学者の表現に、このような「危険な語」が使われていないか、「雰囲気だけの表現」になっていないかをチェックすることが重要だろう。

論証の問いについてはどうか。

論証の問いは、根拠と導出の構造に関わる問いである。それ故、それは根拠となる主張そのものの正当性に対する問いと、根拠から結論への導出に関わる問いに分かれる。

まず、ある主張が何の根拠もなく独断的に述べられるとき、その根拠をさらに問うことができる。とくにそれが事実に関わる主張であるならば、その情報源を問うことがポイントになる。

導出に飛躍があるときは、その部分を質問する。ときに、逆や裏を用いた推論をしているのに、いかにも演繹的な正しさを持っているかのような論じられ方をしている者が見られるが、そうした場合に、その飛躍を埋めるよう説明を求める。

あるいは、仮説形成において有力な他の仮説が見落とされている場合には、その仮説を示し、その仮説はどうして成立しないと考えるかを説明してもらう。同様に、価値評価において考慮すべき対立評価が無視されている場合には、それを指摘し、意見を求めることができる。

最後の「他の仮説が見落とされている場合」、「考慮すべき対立評価が無視されている場合」の質問は、わからないところの説明を求める質問というよりも、「他の仮説、対立評価の重要性」をどう考えるのかを問うものである。「他の仮説、対立評価」は、自説の場合もあるだろうし第三者の説の場合もある。このように相手の意見を求める質問は、「他の仮説、対立評価」を持っていなければ(知らなければ)できないので、これは「質問力」と言えよう。

相手が「他の仮説、対立評価」を意図的に隠している場合もある。この場合の議論はどういうものになるかは検討に値しようが、それは別途としよう。ただ「為にする議論」*1というものがあるということはメモしておきたい。

議論全体から一部を抜き出して質問すると、その部分だけに注目して質疑応答が進んでしまうこともしばしば見られる。そうしてときに元の議論とは無縁な議論へと展開してしまいかねない。そのため、質疑応答においては、常に元の議論全体を視野に入れ、絶えずそこに戻りながらやり取りしていかねばならない。「ソッポを向いてはならない」、これが鉄則である。

(自分の主張や相手の主張が)論点を外れた議論、重箱の隅をつつくような議論になっていないかを、常に確認しておく必要がある。

議論を「共同作業」とみなさず、「相手を打ち負かす対戦」とみなす人たちは、自分が不利になったと思えば、意図的に論点を外れた議論や重箱の隅をつつくような議論を始めるだろう。

 

異論と批判

異論、反論を俎上に載せる…… 角を立てずに議論するための、たった1つのこと(画像=ソライロ/PIXTA

野矢は、「異論」と「批判」を区別しているのだが、その前に「立論」という言葉はどういう意味か。

立論とは、あることを主張し、それに対して論証を与えることである。(ある主張とそれに対する論証とを合わせて「立論」と呼ぶ

論証なき主張を「立論」とは呼ばない(単なるおしゃべり)。論証あり主張=立論、論証なき主張=おしゃべりと言った方が良いかもしれない。

異論とは、相手の主張と対立するような別の主張を立論[論証あり]することである。

このように定義すれば、「立論Aとそれに対する異論Bは同等のものであり、AはBに対する異論である」とも言える。

批判とは、相手の立論論証の部分だけを否定することである。

この定義では、「批判は、必ずしも異論を唱えているわけではなく、その結論に対する否定までは意味しない」。

野矢のこの「批判」の定義は、独特なものであり、一般的ではないと思われる。通常、「批判」はもっと広い意味で使われていよう。野矢は何故このような定義をするのだろうか。

批判とは必ずしも相手と対立することではない。同じ結論を目指す者たちが、最善の論証を求めて互いに批判しあう、これが批判のひとつの形にほかならない。たとえて言えば、ある山に登るか上らないかで対立するのが異論のレベルであり、その山に登るとしたらどのルートが最適かを検討するのが、批判のレベルである。そのとき、批判とは、対立ではなくむしろ共同作業となるだろう。このような「共同作業としての批判」という考え方は、しばしば我々に欠けているものであるから、特に強調しておかねばならない。

野矢は、「共同作業」ということを言いたいがために、「批判」という言葉を狭い意味で使い、「異論」と区分しているのかもしれない。

ここでいう共同作業は、目的に合意が得られているときに、どのような手段が最適かを議論するものと言った方が適切であると思う。メリット、デメリットを述べあうときに、これを「批判」と呼ぶのは言い過ぎの感じがする(「対決」のイメージがある)。「意見を述べる」で良いのではないか。

 

「論証」については、次回に検討したい。

*1:為にする議論…すでに目的・結論を先行して実質上決めていたが、議論を経て参画者の合意をもってその結論を定めたという体裁を整える必要があったために行った議論。この「為」とは、行為の目的(狙う利益・便益)を意味する。(wiktionary