気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

「損害保険組合としての国家には責任はない」とは、どういう意味か?

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(22)

今回も、第4章 国家論の禁じ手を破る 第2節 国家の存在理由 の続きである。

稲葉 ところで、不平等とか格差という現象の主要な発生原因の一つは当然、搾取・収奪、持っていたものを奪われる、横取りされるということ。これは…(略)

稲葉は、立岩の発言の後、「ところで…」と話を切り替え、またぞろ、わけの分からない「搾取」の話を始めている。

 

立岩 搾取という言葉はぼくは使わないが、それの持っているリアリティみたいなものは、きちんとすくっておかなくてはならない。それは何かって考えたときに、やっぱりこんなに汗水垂らして働いて苦労して頑張ったのに、そうじゃない奴に掠めとられちゃうっていうのはないよなっていう感じは、ぼくは正当でもっともな感覚だと思う。…それは、搾取理論云々の妥当性とは別に言える…ラフな概念というか感覚で…それは大切なものである。

いま赤字にした部分、こういう感覚を、稲葉は理解できているのだろうか。こういう感覚を、誰かが(例えばマルクスが)一生懸命考えて、ある理論(例えば搾取理論)を提出したとき、その理論は間違っていると指摘して、事足りるかということである。稲葉は、「そうじゃない奴に掠めとられちゃう」という感覚、そしてそれがどこから生じてくるのかということを理解し、どうすれば良いのかを真剣に考えようとしているのか、疑問に思わざるを得ない。

立岩 (機会の平等とかを)どこまでうまくやっても一人一人が異なった身体をもって生まれてきてしまうというのは、…抗えない事実である。そこに所有と分配についての規則が重なったときに、受け取りの差は必ず生じる。それはどうなんだっていったときに、それは良くないんじゃないという言い方はできるだろうというのが最初からあって、ぼくの論はできている。

「異なった身体」というのは事実前提としてある。しかし、「そこに所有と分配についての規則が重なったときに、受け取りの差は必ず生じる」のかどうかは分からない。どういう規則なのかによるだろう。

立岩 (稲葉さんの話は)市場でどうして不平等が発生するのかといったときに、…見込みと結果は違うという不確実性の話を仕込むことによって、こういう仕掛けで不平等が起こるよという説明になっていると思う。

これまで稲葉は、(この対談で)不確実性の話をしていなかったように思うが…。

稲葉 人間はじっとしてたら死んじゃうので、取引するかしないかっていったときに、「やだったら取引しなければいい」という議論は、…(略)

ここまで、稲葉の話も立岩の話も、かなり引用を省略してきた。すべて引用したところで何を言っているのかよく分からない部分である。

 

稲葉 だからディスアドバンテージやダメージを負う人が出てくる。それをやっぱり人は搾取されていると感じちゃう。

稲葉は、「ディスアドバンテージ[不利益]やダメージを負う人」で、どういう人をイメージしているのだろうか。先の話(引用していない部分)で、「障害者」とか「多重債務者」*1という言葉が出てきたので、こういう人をイメージしているのかもしれない。彼らが「搾取されている」と感じているかどうかは分からない(そんな統計データがあるのだろうか)。

稲葉 それを搾取という言葉で語るのではなくて別の言葉で語ろうとすると、例えばドゥウォーキンのやり方がある。自業自得ではない、自分には責任がない理由でもってダメージを抱えている人への補償、というロジックである種の平等化論をやろうというのがドゥウォーキンの構想である。ただ責任ってなんじゃいな、っていうと途端によくわからなくなるなあというのがある。

今度はドゥウォーキンときた。こういう名前が出てくると、ドゥウォーキンは本当にそんなことを言っているのだろうかと疑問に思い調べて、「稲葉さん、それはちょっと違うんじゃないか。ドゥウォーキンはそんなこと言ってないよ」と言おうものなら、待ってましたとばかり、博識ぶりを示し、堂々としゃべりまくるのではないかと思う。

稲葉 ディスアドバンテージは誰かに搾取されているんだから、その搾取した相手に補償を求めるというのが普通の搾取論の議論で、マルクス主義的な議論はそうだし、アファーマティブ・アクション積極的差別是正措置)だって実はそうである。つまり自分がディスアドバンテージを被っていることは自己責任じゃない。誰か他者にその責任を帰することが出来る、正当に責任を負わせられる相手が自分以外にいると。それであんた責任とってよと言える、というロジックで搾取論的な議論は成り立っているが、ドゥウォーキンなんかの議論はそれは想定していない。単純に自分の責任じゃない、じゃあ誰の責任なんだといったときに、責任を自明に負わせられる相手はいないわけだ。

マルクス主義は、「労働者階級の貧困(とその根本原因)」の話をしているのであり、「ディスアドバンテージ(不利益)を被っている人」の話とは異なるように思う。アファーマティブ・アクションは、過去の差別(人種差別や男女差別)を是正するためにどうすればよいのかという話であって、「搾取」とは関係ないだろう。

「自分がディスアドバンテージを被っていることは自己責任じゃない。誰か他者にその責任を帰することが出来る。」というのは、言い換えれば、「不利益を被っているのが自己の責任であれば、他者の責任を問うことができない。」ということであり、これはまさしく「自己責任論」だろう。

であれば、「~というロジックで搾取論的な議論は成り立っている」ということは、搾取論は自己責任論で成り立っているということなのだろうか。

ドゥウォーキンは、搾取論(自己責任論)を採らないという。ではどういう論なのか。

稲葉 搾取論のフレームを外されると、これは損害賠償の話と構図は同じであることがわかる。「私は損害を負った。しかもそれは自業自得じゃない。誰かほかの奴にやられたんだ。だから私の受けた損害をカバーする責任は、私に損害を与えた奴のほうにある。何とかしてくれよ」というのが、民法的な損害賠償の考え方である。この場合、責任の所在ははっきりしていて、責任を負って人間が何をすべきかもはっきりしている。

損害賠償とは、

他人の被った損害を填補(てんぽ)し,損害がないのと同じ状態にすること。損害賠償義務を生ずる原因として最も重要なものは,債務不履行不法行為である。通常,故意または過失による違法行為から生ずるが,過失がなくともこの責任を負うことがある(無過失責任)(百科事典マイペディア)

他人に損害を与えた者が被害者に対しその損害を填補し、損害がなかったのと同じ状態にすることをいう。また、そのように請求する権利を損害賠償請求権という。(日本大百科全書

他人に損害を与えた者は、その損害を填補しなければならない。「責任」との関連で言えば、「無過失責任」が問題となる。では、ドゥウォーキンは、「損害賠償責任」を論じているのか。どうもそうではなさそうである。

稲葉 ところがドゥウォーキンが想定している状況は、そのひどい目にあった人が、「自分が受けたダメージは自分の責任、自業自得によるものじゃないので何とかしてくれ」と言うんだけれども、そこでは「責任はない」というかたちでしか責任という概念は登場しえなくなっていて、当の損害について責任がある主体、損害賠償責任を負わせられる主体というのは、実はどこにもいないわけである

稲葉の言う「ドゥウォーキンが想定している状況」というのは、具体的にはどういう状況なのか、がよく分からない。「損害賠償責任を負わせられる主体がどこにもいない」というときの損害とはどういう損害だろうか。天災のことを言っているのか。どうもそうではなさそうである。

稲葉 その状態に対していかなるカバーの論理がドゥウォーキンの構想から出てくるかというと、結局、社会を保険会社、保険組合として考える。社会的に不利な状況に落ちちゃった人というのは、保険料を払っていた人、被保険者である。他方で保険会社が社会、というか共同体としての国家である。そのときに、国家、共同体、公共社会は、有責でない不利益を被った人社会的弱者に対して補償を行う責任がある、というわけである。

ここで「国家」が登場する。「保険会社」としての国家は、「社会的に不利な状況に落ちちゃった人」、「有責でない不利益を被った人」、「社会的弱者」に対して、「補償」を行うらしい。但し、保険料を支払っていなければならない。…かかる「保険国家」は、どこかに現に存在する国家なのだろうか。それとも稲葉が作り上げた「架空の(理想)国家」なのだろうか。

 

稲葉 しかしその責任は何ゆえに生じたのかというならば、国家が、社会がその人をひどい目に合わせたから補償の責任を負うわけでは必ずしもない。厳密に言うと、その人が被ったダメージというのは、いわば社会システムの不備のせいかもしれないし、いわば天災のせいかもしれず、社会システムの管理者であり、天災にも備える機構としての国家には、何らかの責任があると言えなくもないけれども、損害保険組合としての国家、公共社会には責任はないと考えた方がすっきりする。国家・公共社会が負っている責任は、保険の引き受け主体だから生じているのであって、ダメージを与えた不法行為の当事者だから発生しているわけでは全然ない。では、不法行為の当事者、損害賠償責任の主体がどこかにいるかといえば、どこにもいない。だからこれは責任の質が変わっているわけである。

「国家」は補償を行う。加害者だからではない。保険の引き受け主体であるから補償を行う。国家に加害責任はないが、保険の引き受け主体として補償する責任があるという。これは「責任の質」が変わっているというよりは、「責任」という言葉を、以前と異なる意味で用いているといったほうが良いだろう。

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本当に、稲葉の話は分からない。ドゥウォーキンの理論を説明しているのだろうか。ドゥウォーキンの名前を出して、自説を展開しているのだろうか。後者だとすれば、「国家というのは、保険国家である。保険の引き受け主体である限りにおいて責任があるに過ぎない。」と言いたいのだろうか。国家はなぜ「保険の引き受け主体」になっているのか。誰がいつ「保険の引き受け主体」だと定めたのか。「国家」は、どうあるべきだと考えているのだろうか。

「保険の引き受け主体」とは、どういう意味か。いかなる保険のことを言っているのか。(日本の)公的保険には、医療保険介護保険、年金保険、労働保険などがあるわけだが、このような具体的な制度を念頭においた議論なのか疑問である。これらは複雑な内容を持っており、「責任がある」と言ってみたところで、その内容が明確ではない。

 

稲葉は、「損害保険組合としての国家、公共社会には責任はないと考えた方がすっきりする」と述べる。このように、「国家には責任はない」と強調することは、社会保険制度や公的扶助などの社会保障制度の意義を全く軽視しているという印象を受ける。社会保障制度は何のためにあるのか?

*1:多重債務者…消費者金融やクレジットカード会社など、複数の貸金業者から借金をしていて、その返済が困難になっている人。