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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

価値主張の無限連鎖

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(13)

今回から、第4章 「価値観の壁」をどう乗り越えるか に入る。

「死刑制度は廃止するべきだ」とか「アメリカはイラクに戦争をしかけるべきではなかった」とかという主張は、単なる事実ではなく、ある行為や状態の善し悪しについての主張である。

このような主張は、「価値観」の問題であり、「正解」はないとされる。「価値観の多様化」といい、いかなる価値観(思想・信条)も認める/尊重すべきであるというような風潮は、果たしてそれでよいのか。では「価値」に関わる問題については、どのように議論(話し合い)すべきなのか。これは私のかねてよりの検討課題である。

 

ここで伊勢田は予防線を張っている。

CT(クリティカルシンキング)をすれば、価値の問題について明確な解答が出せるという結論を期待してこの章を読み始められた方には申し訳ないが、価値の問題には「正解」が存在することを期待してはいけない。この文脈でのCTの目標は、与えられた条件下で「少しでもましな答え」を出すことである。

さんざん期待させておいて、しょうもないことしか言わない人がよくいるので、謙虚に「少しでもましな答え」を出せたらよいという伊勢田の態度は好感が持てる。

 

典型的な価値主張*1は、「~は善い」「~は悪い」「~するのは正しい」「~するべきである」「~してはならない」などの言葉で表現される。

価値主張には、倫理的主張や政策的主張や美的主張などいろいろあるが、

これらさまざまな価値主張に共通するのは、なんらかの価値基準(倫理的な善さ、政策的望ましさ、かっこよさ、美しさ等)に照らして評価を下しているという点である。価値基準はものごとの善し悪しを測るものさしとして働く。よく使われる「価値観」という言葉も、結局そういうものさしに他ならない。

また、価値主張においては、その基準が肯定的態度や否定的態度と深く結びついていることも共通の特徴として挙げることができる。「善い」とか「べき」とか「かっこいい」とか「美しい」という言葉を伴う価値主張はその対象に対する肯定的態度をあらわしている。逆に、「悪い」「べからず」「かっこ悪い」は否定的態度を示す表現となっている。

 「価値観」を「価値基準」と言い換えていることに注意したい。「価値基準」というと、その基準の妥当性云々の議論が可能なような気がする。では、どのような基準が倫理的基準であり、美的規準なのか。

倫理的な基準は「幸福」や「平等」に関する判断を含むことが多いし、美的基準は「均整」や「心地よさ」に関する判断を含むことが多いが、それが倫理的基準や美的基準の定義かというとそう単純ではない。…いろいろな意味で使われる曖昧な言葉に歯切れのよい解説をしようとすると、どうしてもその言葉を定義しなおすことになってしまう。しかし、よく使われるすでに定着した言葉の用法を勝手に変えるのは混乱のもとであり、非難されても仕方がない。こういうときに役に立つ区別として、「分厚い記述」(thick description)と「薄い記述」(thin description)の区別を導入しよう。

 分厚い記述と薄い記述、この言葉は覚えておきたい。英米倫理学での専門用語だそうである。

薄い記述というのは、ある言葉のさす対象についての骨組みだけの描写のことであり、分厚い記述というのは、豊かな内容を伴った描写のことである。…薄い記述の典型は言葉の定義(辞書的定義、哲学的定義、操作的定義など)であり、定義にもっと具体的な内容を足したものが分厚い記述になる。

 物事を理解するには「分厚い記述」が必要だろうと思う。「薄い記述」で分かったような気になるのは、受験勉強の弊害だろうか。

具体的な事例で考えないと理解が深まらない。伊勢田は、「生きる意味とは何か」という問いを価値主張の事例としてとりあげている。なおここで「生きる意味」の「意味」という言葉に注意を促している。

「有意味」な人生は「無意味」な人生よりよいという判断は、すでに「有意味」という言葉自体の内に「含み」として存在している。つまり、この言葉は暗黙の価値主張を前提としているのである。このように一見価値主張でないように見えて実は価値主張を背後に含んだ言葉を「二次的評価語」といい、「非民主的」とか「差別的」とかという言葉が同じカテゴリーに属する。

このような「価値主張を背後に含んだ言葉」の使用には十分気を付けたい。知らず知らずのうちに、他人を傷つけることがある。

 

さて、「生きる意味とは何か」という問いにはいろいろな答えが提案されてきた。まず西洋においては伝統的に、神が計画に基づいて世界や人類を創造したという考え方を背景に、その計画の一部であることによって人間の生は有意味になると考えられていた。この考え方の裏返しとして、神がいないとすれば、悲惨で短い地上の人生に意味など存在しない、という悲観的な考え方も出てきた。

教会は結婚式だけでよいという人には、俗っぽい解答が用意されている。

自分で目標を立ててそれに沿って生きるのが有意味な生き方だという説は、ある意味で非常にお手軽である。あるいは、自分が生きた痕跡が後に残るなら、それは有意味な人生だったといえるといった説もある。例えば子孫を残すこと、仕事の成果を残すことなどが典型例として挙げられる。

こんなのもある。

他人のために生きることこそ有意味な生き方だ。…自分を取り巻く「物語」の中で自分に与えられた役割を果たすことで生きる意味が得られる。

問題はこうである。

さて、こうしたさまざまな考え方の間の調整はそもそも可能なのだろうか。これをCTの観点から考えて見ようというのが本章の一つのねらいである。

 

価値的議論と価値的前提

価値主張は、理由付きでなされる主張と理由なしでなされる主張を区別することができる。…理由を伴う主張であれば、それを基に議論を特定することができるはずである。最終的結論が価値主張であるような議論を価値的議論と呼ぶことにすると、価値的議論もまた結論、前提、及び推論の3つの要素から構成されるはずである。ただし、価値的議論においては、結論に、それが価値主張であることを示す言葉(「べき」「善い」「正しい」など)が登場することになるだろう。

ここで、価値的議論に特有な特徴が一つあらわれる。すなわち、価値的議論は、つねに、前提に価値主張を含むかたちに再構成できる、ということである。

これはどういうことか。

例えば、「中絶をしてはならない」という結論を出す根拠として「中絶をすると胎児の生命を奪うことになるから」という事実主張を挙げる場合を考えてみよう。この前提には「してはならない」という言葉は出て来ず、第3章で紹介した「演繹的に妥当な推論」の見分け方のルールをあてはめると、何かあと一つはこの前提と結論を媒介する前提が必要となる。この場合、つなぎの前提として最も自然なのは「胎児の生命を奪うようなことをしてはならない」というものであろう。

「演繹的に妥当な推論」については、論理的推論 ウェイソンの「4枚カード問題」を参照してください。

価値的推論のこの特徴は、倫理学においては「である(事実主張)から、べき(価値主張)は導き出せない」というスローガンのかたちでまとめられることが多いが、…これは議論の余地がある。というわけで、本書では、もうちょっと弱い「価値的な議論は必ず価値的な前提を持つかたちで整理することができる」というスローガンを採用する。つまり、価値的な結論を価値的な前提を持たないかたちで組み立てることもできるかもしれないけれども、そういう場合でも、同じ結論を導き出す議論を価値的な前提を持つかたちに組み立て直すことができる。これならば異論は少ないはずである。

価値的な前提を明示するかたちで組み立て直すことが出来るならば、事実から価値を導き出していると批判されることはない。あるいは、相手の議論に価値的な前提があることを明示して、議論を発展させることもできよう。

 

実践的三段論法

価値的議論が価値的前提を持つかたちで必ず表現できるということ自体は古くから知られていた。アリストテレスは、価値的議論における妥当な推論形式として実践的三段論法と呼ばれる推論形式を提示している。

[式4-1](大前提)すべての野菜は体に良い。(小前提)かぼちゃは野菜である。(結論)かぼちゃは体に良い。

[式4-2](大前提)ものを盗んではならない。(小前提)盗作はものを盗む行為の一種である。(結論)盗作をしてはならない。

[式4-3](大前提)有意味な生活を送るのは望ましい。(小前提)Xという生き方は有意味である。(結論)Xという生き方をするのは望ましい。

 これらの例において、結論は価値主張である。小前提は事実主張である。これだけであれば、事実主張から価値主張を導き出していると批判される(可能性がある)。しかし隠された大前提(価値主張)を明示するように再構成すれば、この論法におかしなところはない。結論に疑義を抱く者は、大前提の明示により、その大前提を問題にすることができ、議論が始まる。「事実から価値を導くことができない」などという、下らない言いがかりに応対する必要ない。

 

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価値主張の無限連鎖

価値的結論を導くための基本的なフォーマットが実践的三段論法だということから、価値主張について一つ重要な問題が浮かび上がってくる。それは、実践的三段論法の大前提も価値主張である以上、それを正当化する議論を組み立てようとすれば別の実践的三段論法が必要になるということである。(P165)

こうした無限連鎖の問題は、実は理由付きの主張全般にあてはまる性格である。しかし、事実についての議論の場合には、最終的には「だって見たんだもん」といった具体的な経験にたどり着くことが出来る。そうした経験はある程度以上は疑ってもしょうがない。もちろん、デーモン仮説を真剣に受け止めなくてはいけないような文脈では話は別だが、それ以外のたいていの文脈では、経験的主張は一種の基礎として働く。

問題は、価値主張の場合、それに類した確実性の高い主張にたどりつくことができるのかということである。「相手が困ることをしてはいけない」という価値主張は「盗作をしてはいけない」という価値主張よりも確実だと言えるだろうか。特に、倫理的価値主張について、いったんこうした疑問を持ってしまうと、倫理的懐疑主義へとつながる。これはある意味で事実主張の妥当性についての懐疑主義よりもやっかいな相手である。

 例えば、[式4-3]は、価値主張(大前提)→価値主張(結論)であり、論法としてはおかしくない。しかしだからといって結論(Xという生き方をするのは望ましい)が支持されるわけではない。当然に大前提(有意味な生活を送るのは望ましい)が問題とされる。それはどういう意味で、なぜそういうことが言えるのか? かくして(有意味な生活を送るのは望ましい)を結論とする実践的三段論法が提示される。そしてまた大前提が問題とされ、価値主張の無限連鎖に至る。

では、どうすれば良いのか?

*1:伊勢田は、ここで価値に関する主張を「価値主張」、事実に関する主張を「事実主張」と呼んでいる。「価値判断」「事実判断」という言葉をあえて使っていない。