気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

自己増殖がかかえる矛盾

木下清一郎『心の起源』(18)

今回は、第3章 「世界」とは何か 第3節 自己増殖がかかえる矛盾 である。

自己触媒と自己複製

考えてみれば、自己触媒の働きとは随分と奇妙なものである。自己触媒とは自らの構造に依存した機能であるのに、その構造を変化させる反応を自らが触媒するというのであるから、当の分子自身の構造が変わってしまい、もとの自分の姿は失われてしまうので、肝心の自己触媒能も破壊されてしまいかねない。すると、はじめてあらわれる自己触媒が、自分を分解する反応を触媒することはあり得ないであろう。分解反応では自分自身が消滅してしまうからである。自分自身を失わないためには、触媒する反応は合成反応でなければならず、しかも自分と同じものをつくりだす反応(つまり自己複製反応)が好都合ということになってくる。

こうしてみると、自己触媒と自己複製とは別々のものではなく、一つのことの両面であると考えた方が良さそうである。原始地球に核酸が現れて、それが自己触媒能をもったということは、とりもなおさず自己複製能をも併せ備えたということであった

この文章の最初の部分はよく分からない。それはさておき、木下は第1章で「原初の核酸は独特の能力を持っていた。即ち、分子が他からの助けを借りずに、自身の手で自身とまったく同一の分子を合成するという能力である。これを自己触媒による自己複製と呼ぶ。」と言っていた。上の文章が、これ以上のことを言っているとは思えない。

 

自己言及の矛盾

自己が自己をつくるということは、自己の成し遂げた結果が原因となって自己の複製に再帰してくることで、それは言ってみれば一種の自己言及であろう。…生物世界での自己増殖にも、やはり多くの疑問、もっときつい言葉でいえば、自己矛盾が含まれていて、なかなか一筋縄ではいかない。…自己増殖に含まれる矛盾に立ち向かってみることは、生物世界のはじめに置かれている自己増殖の意義を明らかにする近道となるであろう。

自己複製が自己言及であるとは思えない。自己言及は自己自身に言及することであるが、自己複製は自己に言及しているとは思えない。自己と同型のものを複製しているだけではないか。

しかし、木下は「自己増殖に含まれる矛盾」と言っているので、それがどういうものか話をきいてみよう。

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第一の矛盾

自分で自分自身を作れるのであれば、その始まりはどこまでも遡っていけるわけで、いつまで経っても自己増殖の始まりにはたどり着けなくなってしまう。つまり、どこかで始まっていたはずの始まりが消えてしまう。これが第一の矛盾である。「自己増殖はいかにして始まり得たのか」が、まず解かねばならない疑問である。

この矛盾は、特異点としての自己増殖と基本原理としての自己増殖とを分けて考えることによって、解決の糸口が掴めると思う。前者が「その前」のない一回限りの偶発的な出来事であったのに、それが後者になると「その前」のある従属的な出来事に変わっている。これは「偶然」から「必然」への転換と言えよう。なぜこのような転換が起こり得たのであろうか。

 自己増殖に矛盾が含まれるというのには、自己増殖は永続する、自己増殖には始まりがある、と言う前提があるように思う。私はこの前提は証明不能ではないかと思うので、ここで矛盾があると言われても、「?」である。

ここで木下は、なぜ「偶然」から「必然」への転換が起こり得たのかと問う。

ここにいう「偶然」とは何であったかを突き詰めていくと、結局、個性を持って現れてきた原初の核酸RNA)分子が、複製のための触媒作用を自分自身に獲得したことに帰着する。これによってこの核酸は個性を保持し、自己複製のためのエネルギーを備え、しかもその上に触媒作用まで備えることになった。一つの分子が三つもの役割を引き受けたことになる。こうしてそれ以後の複製は「必然」に移行する。

これで問いの答えになっているだろうか。私には、原初の核酸は、「偶然」に、触媒作用すなわち「必然」の機能を獲得した、というように聞こえる。言い換えれば、偶然から必然への転換が起こったのは、偶然に必然の機能を獲得したからである、というように聞こえる。トートロジー(同語反復)ではないのか。

しかし、こうして始まった自己触媒の働きは、そのままの形でいつまでも続くことはなかった。独りでいくつもの機能を抱え込むことに無理があったのか、原初の核酸の独占体制はやがてその後になって崩壊の運命をたどる。これに代わって、個性の保持の役割は別種の核酸(DNA)分子に、触媒作用はタンパク質(酵素)分子に、エネルギー運搬と供給はヌクレオチド燐酸に、それぞれ委嘱されていった。自らはこれらの間の仲介役に甘んずることになる。これ以後の核酸の複製は、いくつかの反応が連鎖的に循環することによって実現されるようになる。しかもこの循環の場としての細胞という構造が創造されたので、核酸(ここからは遺伝子と言い換えても良いであろう)の複製は、細胞という構造ぐるみの複製になっていった。

細かい話はしらないが、おそらく生物学としては異論のないところだろう。

ここに大きな転換点がある。核酸分子に最初に現れた自己複製能は、分子自身の内部に原因を持った、いわば自発的・内包的複製であった。しかし、連鎖的に循環する反応の一環として進行する核酸分子の複製、それも細胞の増殖と言う外部環境の変動に引きずられて進行する核酸(遺伝子)の複製は、もはや随従的・外延的複製に変質してしまった。これは本質的な変化と言わねばならない。

こうして第一の矛盾は、内包的複製から外延的複製への転換として理解されるように思う、同時に、この転換が生物世界へ飛躍する不連続点をなしていることも見逃せないであろう。しかし、第一の矛盾が解決されたかに見えて、実はここから第二の矛盾が生じてくることになる。

 よく分からないが、同じことを言い換えているだけのような気がしてならない。

 

第二の矛盾

物質世界には自己増殖という性質が無かったし、無くとも済んでいたのに、核酸と言う高分子が現れたところで、なぜそういう性質が生まれてきたのであろう。「自己増殖はなぜ生まれたのか」、これがもう一つの疑問である。核酸という物質が一つの系を為しているということが、ここでは解決の糸口になるように思う。

「自己増殖はなぜ生まれたのか」、これは答えのない問いであるように思われる。「物質はなぜ流動するのか」、「空間はなぜ存在するのか」等と類似の問いであるようだ。だからといって、無意味な問いであるとは言えないが…。

一つの思考実験をしてみよう。いま、すべてが完全であって何の欠陥も持たない不変系と、不完全であっていくつもの欠陥を持った変動系があったと仮定してみる。完全な系はそれが完全であるがゆえに存続し続けるかというと、そうはいかない。なぜなら、系が完全であるとは、いま系がおかれている環境においてであって、不測の原因で環境がわずかでも変動したときには、この系が変化できないというまさしくその理由から、消滅してしまうほかないからである。一方、不完全な系についてはどうであろう。欠陥を持つとすれば、それを補うべくさまざまな試みを繰り返すほかない。さもなければ、この系はその不完全さのゆえに滅びてしまうからである。さりとて、完全さを求めたのでは前と同じであるので駄目である。すると、系を多様化させる以外に道は見いだせないであろうこれが自己増殖の発端となった。「系の完全さは系の存続を保証しない」というのが第二の矛盾である。

「自己増殖はなぜ生まれたのか」という問いに対する、この思考実験は適切だろうか。この思考実験は、簡単に言えば「系は存続しないといけない」(存続せず存在しないものは考察対象にはならない)、「したがって、自己増殖の機能が生まれた」という主張のように思われる。(誤解しているかもしれない)。「系が存続するために」という「目的」概念を取り入れているのではないか。これを排除して、「自己増殖の機能が生まれたことによって、系が存続するようになった」と言ってはダメか。この言い方は、「なぜ」の問いに答えていない。

ところが、原初の核酸が「必然的」に自己増殖を行う系として存在し始めたとき、それは決して完全な系ではなかった。その上、系のおかれた地球の環境にも様々の変動があった。それについては細胞の誕生で述べた通りである。ここからとどまるところを知らない生命の変遷が始まる。核酸を基礎において細胞が生まれ、細胞を基礎において個体が作られていくのは、いつも系の不完全さという負の因子をバネにして、自己増殖と多様さを達成するという正の現象に転換している様子を示している。

別にこういう言い方をしなくてもよいように思う。

系の自己複製という現象の根底には、必ず自己矛盾が見出せるし、自己矛盾があって初めて系の生成と発展がありうる。物質世界の中に生物世界が開かれたそもそもの原因は、核酸という自己矛盾を抱えた増殖系の出現にあったことははっきりしたようである。しかし、これを一般化して、新しい世界が開かれる根底には、必ず自己矛盾がある、あるいは自己矛盾があってはじめて世界の生成と発展があるとまで言って良いかとなると、まだ躊躇せざるを得ない。というのは、その奥にさらに第三の矛盾が潜んでいるからである。

「自己矛盾」については、分からない。「新しい世界が開かれる根底には、必ず自己矛盾がある」と言われても、「?」である。

 

第三の矛盾

第三の矛盾は究極の矛盾になっている。いま考えた不完全な系を、矛盾を含んだ系と言い直してみると、少しおかしなことになる。系の矛盾とか無矛盾とかは、その系の外からでなくては分からない。前にも触れた通り、ある系の内部で自らの無矛盾を証明することはできないはずである。すると、いま問題にしている系が、別の系の中におかれる「入れ子」の関係になっており、しかもその別の系が無矛盾でなければ、矛盾、無矛盾いずれとも言えないことになる。こうしてまたしても際限のない無限の後退になってしまう。

これを生物世界に置き換えてみれば、生物世界が矛盾を含んだ系であるというのは、それが置かれている物質世界が無矛盾であるとしたときに、はじめて言われることであろう。ところが、もう一つ先へ出て物質世界がどういう世界の中に置かれているのかとなると、私たちにはそれを知るすべもないのであるから、物質世界の無矛盾を証明すべき手立てはなくなり、私たちの疑問もここで行き止まりになってしまう。とすれば、自己増殖の由来を完全に説明しきることは遂に不可能となり、ここで私たちの検討の限界をみてしまったことになる

ある世界を一つの公理系としてみようとしているのも、今見てきたことと深く関わっている。世界は公理から始まるなどと何もわざわざ言わなくても、その公理を成り立たせている基礎を探し当てることが出来るならば、その方がことはよほど簡単になる。しかし、いかほど遡ろうとしても、遡りきれない限界があるとすれば、どこかに公理を据え、そこを基点として世界を理解するほかに術は無いと先に述べたのは、このことを指している。

ここで述べられていることは、恐らく「存在論」と「認識論」の問題であろう。本書のテーマに関しては、そこまで言及しなくてもよいのではないかと思うが、どうだろうか。

ここで立てた仮定は次のようであった。

(7) 一つの世界とは一つの公理系であって、新しい世界を開くとは新しい公理系をたてることに他ならない。