浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

「競争は避けられないものである」というのは自明ではない

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(4)

今回は、第2章 競争は避けられないものなのだろうか 第2節 競争が避けられないものだという議論について である。

競争が避けられないものであることは、あたかも自明なものであるかのように暗黙のうちに前提とされてしまうか、あるいは自明なものだと全面的に断定されてしまう。

「競争が避けられないものである」というのは、「人間(動物)の本能あるいは本性である」という主張と同じであろう。だからそれは自明なものとして前提されてしまう。

(1) ゲームは、本能を鍛え上げ、本能を組織化していく。(カイヨワ)

(2) 遊びと競争は、置き替えることができる。(ホイジンガ

(3) ゲームにおいて楽しみをもたらしてくれるのは、勝つかどうかではなく、競争そのものなのだ。(ジョン・ハーベイ)

(4) 人間性には真の競争本能が秘められているのであり、この本能は、何かを行おうとする試みがうまくいかなくとも、他の人々よりもうまく行おうと必死になる行為そのものに満足を感じるのである(ジョン・ハーベイ)

ハーベイの主張には、同意する人が多いのではないだろうか。最後の勝敗のみを見て勝者を賛美するマスコミ(最近の例では、将棋の藤井聡太、ゴルフの渋野日向子)、日の丸背負ってメダル獲得に狂奔するオリンピック(国民精神総動員)などに眉をひそめる向きも、「勝つかどうかではなく、競争そのもの、他の人々よりもうまく行おうと必死になる行為そのもの」に価値がある(楽しみがある)と言われれば、「確かに、そうかもしれない」と思うだろう。

 


国歌独唱/第82回選抜高校野球大会

 

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東京オリンピックの金メダル https://www.jiji.com/jc/d4?p=tkm724&d=d4_ftee

 

しかし、コーンは言う。

競争が人間の本性の一部をなしていると信じ込んでいる人々には、競争的ではない遊びがありうることなど全く思いもよらないことだろう。

「競争的ではない遊び」とは何だろうか。他者を蹴落とそうという競争ではなく、「他者と共に、よりうまくやろうとする行為」のことだろうか。

(5) 我々にはある程度の競争意識が必ず備わっているのであり、せいぜいその競争意識の対象をあれからこれへと切り替える(取り換える)ことができるだけだ。(J.S.コールマン) 

 競争意識の対象をあれからこれへと切り替える(取り換える)実例をあげたところで、私たちに「競争意識が必ず備わっている」とか「競争本能が秘められている」ことの証明にはならないであろう。

(6) 競争が人生における免れがたい事実である。われわれ人間は、染色体の中に競争の『コード』を持っているからである。(H.ルーベン)

コーンは言う。

このことは証明されてもいないし、説明すらなされておらず、全く呆れかえってしまうような主張である。明らかにルーベンは、遺伝によって競争をめざすように定められていると信じ込んでおり、競争が広い範囲にわたって目につくことや、とても幼いころから競争し始めることにその根拠を求めている。

競争が広い範囲にわたって目についても、幼いころから競争し始めたところで、「染色体の中に競争の『コード』を持っている」ことの証明にはならない。

この説が正しいものであることを証明するために、レトリックを用いた策略や罵倒さえも広く利用されている。ルーベンの主な手口は、行動のかなりの部分を間接的な競争と定義づけてしまうことにある。そのため、競争を指向しないものなど存在しないとされてしまうのである。

この手口(モードゥス・オペランディ、Modus operandi)は憶えておきたい。自分に都合の良いように「言葉を定義する」方法である。

(7) 殆どといっていいほど競争的なようには見えない人々も、実は他の人々があからさまに獲得しようとするものに対して、もう少し遠まわしな戦略を用いるだけのことなのだ。(H.ルーベン)

ルーベンの手口にかかれば、競争的に見えない人も、実は競争的なのだとされてしまう。そういう可能性もあるかもしれないと思わせるところに手口たる所以がある。だから、これを全否定しては平行線になる。「遠まわしな戦略」とは、具体的にどういうことなのかを確認し、その重要性を判断すべきだろう。

コーンは言う。

こうしたやり方が明らかにしてくれるのは、その人が示そうとした世の中のことというよりも、世の中をつくりだす人間そのものなのである。

ここでコーンの注15がある。

明らかに親しみが込められている行為を敵対的なものだと解釈する傾向は、正常な人々とそうでない人々との違いを表しているということがわかっている。(H.L.Raush)

確かに、「明らかに親しみが込められている行為を敵対的なものだと解釈する」人はいるようで、私はそういう人の心理、そしてその社会的背景に興味がある。

さらに議論の方もわざと反証しづらいように設えられている。非競争的な個人や文化の例を持ち出すだけでも、競争が人間性の一部をなしているという考えに十分に反論することができるはずである。ところが、ルーベンは、そうした例をいくらあげても十分に反証できないように脚色を加えるのである。つまり、彼は、競争的ではない行為が行われる可能性そのものを否定した上で、なおも行為が避けられないものであることを「証明」してみせるのである。

ルーベンの論理はこうであろう。…人の行為は常に競争的である(競争的に見えなくても、遠まわしの戦略を用いているのであり競争的である)。かつその行為は避けられない。それゆえ、競争は人間性の一部をなしている(本性である)。だから、どのように反証をあげようが、反証として認めない。

競争についておざなりにふれるだけの論者の場合には、説得力があるように見えても、実は同じ概念的な小細工にもたれかかっているだけなのである。…人々は、ある時は競争的であり、ある時はそうでないということであるが、競争的なほうが現実であって、競争的でないほうは本性を現わしていないだけだ、という。経験的な証拠をいくら積み上げてみても、競争が避けられないものであるという説に反証することができないようにしてしまう手口が、ここでも立論の根拠になっている。

「競争的でないほうは本性を現わしていないだけだ」というような、何の根拠もない言説に惑わされてはいけない。「競争的なのはそのように見えるだけで、本性は競争的でないのだ」という言説と差異はない。

(8) 我々の本性に含まれている競争的な側面を直視するのを恐がっている。(M.A.オローク)

議論しようという気がなく相手を貶める。コーンは、これを「人身攻撃」だと言っている。

競争が避けられないものであるということに反論しようとする人はみな、厄介だが明白な真理を把握することを恐れており、またそうする勇気がないのだとされてしまっている。

高名な生物学者は言う。

(9) 年長者に必要なものの面倒を見てもらっている若者たちのなかには、競争が避けられないものであることを正しく評価できない者が多いが、例えそうだとしても驚くにはあたらない。だが驚いたことに、集団内における人間の行動を専門に研究している大人たち、つまり社会学者たちも、競争をその程度にしか評価していないのである。(ギャレット・ハーディン)

生物学的な根拠に基いて言っているのかどうか。コーンは述べている。

ハーディンは、競争が避けられないものであるということと望ましいものであるという論点を曖昧にしているだけでなく、鼻持ちならない社会学者たちがそのことをよく承知しているだろうということを渋々認めるのだと述べている。

この表現はわかりにくい。①競争は避けられない、②競争は望ましい、という2つの論点がある。(鼻持ちならない)社会学者は、このことを承知していながら、故意に曖昧にしている。しかし、これを指摘されれば、渋々認める。とハーディンは言っている。…ということか。

ハーディンの論点は、競争する必要がなかった人々が、競争を避けることができると信じているのだ、ということにつきる。

「競争する必要がなかった人々」とは、「年長者に必要なものの面倒を見てもらっている若者たち」のことを言っているのだろうか。しかし、いまどきの「若者」(主に学生?)は「競争は避けられない」と思っているだろう。染色体の中に競争の『コード』を持っているとは信じなくても、社会制度的に「競争は避けられない」と思っている人がほとんどであろうと思われる。

けれども、競争する必要がなかった人々の方が正しいとしたらどうだろうか。「生活必需品の面倒をみてもらう」という意味を一般化してみると、競争が存在するのは、われわれ人間の本性に根差しているからでなく、経済的な、心理的な欠如が原因であり、しかも、その欠如は原理的には埋め合わせすることができるのだという挑発的な示唆がなされているのである。

「働かなければ食えない」という現実があるとすれば、ほとんどの人は「競争は避けられない」と考えるのではないだろうか。しかしそれは本当だろうか? 論理の飛躍がありはしないか?

 

「競争が人間の生活にとって避けられない特徴である」という主張に対する反論

この反論は、大きく2つに分けられ、2.は後で説明される。

1.協力は、人間の生活にとって不可欠のものである。

2.競争は、学習された現象である。

まず、協力が人間の生活において果たしている役割について

A.モンタギューは、「社会は、その成員の協力がなければ生きのびることはできない。そして、成員の協力によって生きのびることができるようになったからこそ、人間の社会は生きのびてきたのである」とかなり長い間主張し続けている。かなり競争的な社会においても、協力的な相互行為が至る所に存在しているということは、十分に論証できる。このことが、人間が生まれつき競争的なものであるとする一般論に対抗できる強力な証拠になりうるのは間違いない。

これまでの人類生存の事実と現代の核兵器による人類絶滅の危機(あるいは他民族の抹殺)とを考え合わせれば、協力的な相互行為の存在を了解できよう。

M.ドイッチュの言葉を借りれば、共に生き、共に働くという事実があるからこそ、我々の生活は「ますます相互依存の度合いを増していく」のである。このことは、すべての社会にあてはまるし、社会という概念そのものにもともと備わっているのである。

共に生き・共に働く「共生社会」は、協力に基づく「相互依存」の社会である。

他者に抗うのではなく、互いに積極的に協力し、積極的に働きかけようというこうした傾向は、幼児や子供たちの間でも見られる。…協力、扶助、共有、充足などいわゆる「社会に適応する行動」は、ほとんどすべての子供にみられるものである。…ある研究者たちは、「社会に適応する行動は、経験に根ざすものであり、学習されるのだ」と述べている。

「競争が人間の生活にとって避けられない特徴である」という主張に対する以上の反論は、おおかた同意できる。

ただ、ここまで読んだ限りでは、

・人間は、協力と競争という2つの特性を有している。

・協力と競争は生物学的な根拠を有しているかもしれない。

・しかし、社会制度のありかた(教育・法等々)が大きな影響を与えている。

というのが、私の暫定的な結論である。