気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

デモクラシーとは何か?

平野・亀本・服部『法哲学』(50) 

今回は、第6章 法哲学の現代的課題 第1節 デモクラシーとは何か である。

「デモクラシー」という言葉の原義は、「民衆による支配」である。デモクラシーという言葉は、その制度面に着目するときは「民主制」と訳され、その思想に着目するときは「民主主義」と訳される。…制度面について言えば、今日では、普通選挙制と法の支配が実現されている諸国を民主主義国と呼ぶのが通例である。だが思想としてのデモクラシーの本質を巡っては、しばしば鋭い対立がみられる。本節では、いずれかというと思想のほうに重点を置いて、デモクラシーに関する代表的な考え方をとりあげ、それらの思想史的ならびに理論的背景と基本的な争点について考察する。

普通選挙制」と「法の支配」が実現されていれば民主主義国なのか?という疑問がただちに浮かぶが、このような疑問はデモクラシーの本質を巡る議論になる。また、自由民主党立憲民主党も、同じ「民主」という言葉を使っているが、同じ意味なのか?という疑問も同様である。

 

民主制と独裁制

ポパーは、暴力による他には政権交代が不可能な体制を、暴力以外の手段、通常は選挙によって政権交代が可能な体制を民主制としている。この定義は、普通選挙と法の支配を識別基準とする上述の制度面からの定義と基本的に同じ系統に属する。…この種の定義は、諸国の体制を横断的に比較するためには有効であり、そのような目的に使われる限り問題はない。

亀本(本節担当)は、問題はないと言っているが、果たしてそうだろうか。「普通選挙」と「法の支配」という観点からのみ(しかも、「普通選挙」と「法の支配」の特定の解釈でのみ)、諸国の体制を比較するものであり、それを「問題はない」というのは、「問題がないと受け止める者だけ」だろう。

 

支配の政治学

[プラトンから]…現代にいたるまで、国家体制を分類する際、「誰が支配し、誰が支配されるのか」という観点がしばしば使われてきた。そこでは支配する者の人数と身分、そして場合によっては、支配の倫理的内容が体制の倫理的基準とされた。

支配者の人数と身分による分類は、以下のようにほぼ符合する。  

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「誰が支配し、誰が支配されるのか」という観点に立つ「支配の政治学」は、そこで言う「支配者」と「被支配者」との関係を、主人と奴隷の関係のような全面的な支配服従関係と捉える傾向があり、現実をあまりに単純化する恐れがある。政治の現実においては、たとえ独裁制下の専制君主であっても、臣下や臣民を意のままに動かすことができるわけではない。

 

人民による人民のための統治

デモクラシーの本質について、今日最も広範な一致が得られそうな定義は、「人民による人民のための統治」というものであろう。この定義は、「人民による」統治と、「人民のための」統治という2つの部分からなる。前者は、国政への参加ないし影響力の行使を意味し、後者は、公益とか一般意志と呼ばれる人民全体の利益に資する統治を意味する。デモクラシーを巡る根本問題は、両者が必ずしも一致しないことから生ずる。従って、デモクラシーを巡る最も大きな対立は、「人民による」と「人民のため」とのいずれを重視するかという点にあるといってよい。

現実的なイメージを持つために、人民→国民、統治→政治、と言葉を置き換えてみよう。

デモクラシーの本質について、今日最も広範な一致が得られそうな定義は、「国民による国民のための統治」というものであろう。この定義は、「国民による」政治と、「国民のための」政治という2つの部分からなる。前者は、国政への参加ないし影響力の行使を意味し、後者は、公益とか一般意志と呼ばれる国民全体の利益に資する政治を意味する。デモクラシーを巡る根本問題は、両者が必ずしも一致しないことから生ずる。従って、デモクラシーを巡る最も大きな対立は、「国民による」と「国民のため」とのいずれを重視するかという点にあるといってよい。

「国」という限定詞は問題含みだが、ここではふれないでおこう。

以下の引用はすべて、人民→国民、統治→政治、に置き換えた。

 

ルソーの民主制観と一般意志

しかし、国民による政治と国民のための政治との一致を信じる立場も古くから有力である。…ルソーが想定している制度は、市民全員(外国人、女性、未成年者は入らない)が投票に参加する直接民主制である。なお、ルソーは、デモクラシーという言葉を、市民集会における討議と投票にではなく、一般意志の個別的事情への適用の任にあたる行政の体制に関する一分類として用いているが、ここでは上に述べたような彼の一般意志論をデモクラシーの思想とみなすことにする。勿論ルソーは、結果的に成立した法律すなわち一般意志に反対票を投じる者がいることを否定しない。そして、多数決に敗れたその者たちは、端的に誤っていたとされる。いささか奇妙に思われるが、ルソーは、これについてはほとんど理由を述べることなく「一般意志はつねに正しい」と繰り返すのみである。

どうしてルソーは、「一般意志はつねに正しい」と考えることができたのだろうか。考えられる1つの解釈は、一般意志は、特殊意志(自らが属する集団の利益)を表明する可能性もある市民の実際の投票から一応分離されたところに、本来のあるいは理想的な市民の意志として存在し、多数決による投票はその認識手段に過ぎない、というものであろう。そうだとすれば、国民による投票への参加は便宜的なもので、重点は、国民のための一般意志にあるということになる。「国民による」政治と「国民のための」政治とは、国民全員が普遍化可能な利益を正しく認識した場合に限り一致することになる。そうでない実際の場合には、国民のための一般意志こそがデモクラシーの本質をなすことになる。

ルソーの一般意志の概念はわかりにくい。亀本の説明によれば、「多数意見」ではなく、「本来のあるいは理想的な市民の意志として存在するもの」らしい。そして、「多数決による投票はその認識手段に過ぎない」という。では、誰がいつ、「本来のあるいは理想的な市民の意志」を定めたのか。そしてどこに存在するのか。具体的には、どのようなものが「本来のあるいは理想的な市民の意志」とされたのか。

別の解説を見てみよう。

ルソーによれば、一般意志とは、国家(政治体、政治社会)の全体および各部分の保存と幸福を目ざし、法律の源泉また国家の全成員にとって彼ら相互の間の、および各成員と国家との間における正と不正との規準となる政治原理で、この一般意志は公共の利益と個人の利益を同時に尊重する市民相互の結合によって生じるとされる。(田中浩、日本大百科全書

抽象的な美辞麗句を並べ立てた定義という感じがする。全く、具体的なイメージがわかない。

政治社会内部には大小さまざまな組織が存在し、それぞれに特殊利益の実現を求めて行動している。これに対しルソーは、共同利益を目ざす一般意志による政治の確立を主張し、もっとも一般的な意志がつねにもっとも正しいとし、「人民の声」が真に「神の声」であると述べる。…ではこの一般意志はどのようにして知ることができるか。この点についてはルソーは、一般意志とは「公正」のことだといい、「公正」とはホッブズやロックと同じく、全員の財産・生命および自由を確保することだと述べている。したがってルソーによれば、善い政治とは立法者が一般意志に合致した法律を制定し、政府による行政を法律に適合させること、ということになる。しかし法律は実際政治の詳細について定めているわけではないから、定めてない部分については、政府は、「法の精神」と「一般意志」によって賢明に判断せよ、とルソーは述べている。(同上)

田中の説明によると、「一般意志=公正=全員の財産・生命および自由を確保すること」である。そしてこれらは、立法者により、「法律」として制定される。だとすれば、ほとんどの近代国家は、「共同利益を目ざす一般意志による政治の確立」をなしとげているのではないか。だけれども、これで何も問題はないなどとは誰も考えていないだろう。

ルソーの一般意志には多くの批判がある。

  • ヘーゲル…ルソーが仮定した理想的な理性には何の根拠も無いと論じ、必然的にそれは恐怖による統治につながると論じた。
  • バンジャマン・コンスタン…フランス革命の惨禍を受けてルソーを批判し、人民による一般意志に基づく政治決定(への服従)を拒絶した。
  • ジェイコブ・タルモン…ルソーの一般意志が、国家が理論上は瑕疵がないとする多数派の意志の執行者となって国民を服従させるといった、全体主義的な民主主義を導いた。
  • バートランド・ラッセル…一般意志という思想は、投票箱を必要とせず、指導者に対する国民の不可解な帰属意識を可能にさせた。
  • アイザイア・バーリン…一般意志への服従を前提としたルソーの自由社会は、自由という名のもとで抑圧を正当化する全体主義の指導者の存在を許し、ルソーを「人類の思想の歴史の中で最も邪悪で恐ろしい敵の一つだ」と評した。(Wikipedia)

先ほどの田中は、次のように述べている。

ルソーが全体の利益を尊重し政府の命令に服従することを強調したことによって、彼の思想はファシズム期に全体主義の源流とみなされたこともあったが、彼は、主権の構成者は人民自身であり、立法者や政府は一般意志に基づいて行動するよう義務づけられていると主張しているのだから、ルソーを全体主義者とみることは誤りであろう。(田中、同上)

「一般意志」などというわけの分からない言葉を使うのではなく、「公共の福祉」(私たちが共に生きていく上で、するべきこと、してはならないこと)と言っておけばよいのではないか。そのほうが建設的な議論ができるように思われる。

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https://www.nytimes.com/2017/09/13/opinion/democracy-endangered.html

 

人民のための統治(国民のための政治)

間接民主制、代表民主制の下では、直接民主制に比べると参加の要求が希釈されるし、制限選挙であれば、その傾向はさらに強まる。それでも、それらは国民のための政治でありうる。国民のための政治を民主主義だと解すれば、独裁制すら民主的でありうる。現実の歴史において、君主やプロレタリアートによる独裁体制がデモクラシーを標榜することがあったが、そこでは国民のための政治というデモクラシーの側面が一面的に強調された。

独裁者でも、「国民のための政治」を主張するだろう。間接民主制、代表民主制は、国民の意思を反映できているのか。多数派の政治は、「国民のための政治」なのか。

 

公益の認識可能性

もちろん、国民のための政治と民主制とは概念上区別されたが、「国民のため」という観点が政治学的認識を支配しており、良い政治と民主制との区別は、ともすれば曖昧になりがちであった。この種の政治学的立場の基礎にあるのは、良い政治の内容の客観的存在とその客観的認識可能性である。デモクラシーについて言えば、国民の利益の客観的存在とその客観的認識可能性である。そうした国民の利益を、ルソーは「一般意志」と呼び、18世紀ないし19世紀のイギリスの功利主義者たちは「公益」と呼んだ。同様のものは、キリスト教思想では「共通善」、憲法学などでは「公共の福祉」と呼ばれる。分析の便宜のため、以下では、それらのものの総称として「公益」という言葉を用いることにする。

「公益/共通善/公共の福祉」は客観的に存在すると言えるのか。もし客観的に存在するとして、それを認識することは可能なのか。

 

価値相対主義と多数決

ルソーにせよ、功利主義者にせよ、「国民のための政治」をデモクラシーの本質とみる立場は一般に、公益に関する認識主義公益に関する真理が認識できるとする立場)をとる一方で、公益の認識ないし発見の手段としては、討論と投票を考えていた。討論と投票への参加は、間接民主主義の下では、選挙を通じた間接的なものとなる。

しかし、20世紀に入って価値相対主義的な風潮が優勢になると、公益に関する認識主義は維持し難くなり、いきおい、投票と選挙の要素、とくに多数決が民主制の本質として強調されるようになる。これは、「国民のための政治」よりも、「国民による政治」を重視する民主制観に属する。

例えば、ケルゼンは、デモクラシーは競合する諸利益の妥協を図るための政治の仕組みであり、より多数の意見がより少数の意見よりも優先されるところに民主制の本質があるとしている。妥協の結果成立した法律について、それが本当に国民のためになっているかどうかを問うことは、ケルゼンにとって無意味である。

他方でケルゼンは、民主制と不可分な徳として寛容を強調する。だが、寛容が重視されるのは、客観的な価値がないが故に、多数決が誤っているかもしれないという考慮からにすぎない。

ある価値観に基づき、それなりの根拠を持って、政策(法案)が主張されるとき、価値相対主義の下では、(いかに議論しても)その優劣を決め難いかもしれない。そのような場合に、「多数決」は、決定のためには、有効な手続きのようにも思われる。であれば、それが「民主制」の本質であるという主張にも一理あるようだ。但し、決議に至るまでの議論の重要性は言うまでもない。議論のあり方が、検討されねばならない。

 

新旧功利主義

社会の構成員全員の主観的な選好を何らかの形で集計すると称する現代的な功利主義は、ケルゼンの多数決民主制の考え方に近い。だが、18世紀から19世紀にかけての功利主義者は、公益は、社会に属する全員の効用の増大に資するものとしつつも、公益そのものが客観的なものとして存在すると想定していた。その限りで、古い功利主義は、認識主義に立つだけでなく、公益の実在論にも立っていた。これに対して、現代風功利主義は、選好及びその集計の、事実としての客観的認識可能性を認める認識主義に立っているが、各人の主観的選好を離れて、公益が客観的に実在するとは考えていない。

功利主義についてはこれまで何度かふれてきたが、未だ十分とは言えず、今後も検討することにしたい。