浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

クラシック音楽 コース料理 さすらいの楽師

岡田暁生『音楽の聴き方』(11) 

岡田は、多楽章形式の音楽とはコース料理であるという。これは分りやすい喩えだ。

普通に考えれば、四楽章の交響曲といっても、そこには四つの別々の「曲」があるだけである、なのに、どうしてそれらが一つになって、もっと大きな「一つの曲」になるのか? 四つの別の曲を、どうしてその順番で聴いていかなければならないのか? ポピュラー音楽のアルバムなら、そこに入っている曲を自分の好きな順番で聴いていいのに、どうしてクラシックの場合は、「第一、第二、第三〈楽章〉」などと、聴く順番が最初から決定されているのか? 《運命》交響曲の第二楽章を、どうして《第九》の第三楽章と取り換えてはいけないのか?

おそらく多楽章形式の意味は、それを一品料理(ア・ラ・カルト)に対するコース料理、あるいは短編小説(ノヴェッレ)に対する長編小説(ロマーン)に喩えれば、少し分かりやすくなるだろう。短編小説は一つの章だけで終わることができる。それに対して、それ自体が一つの物語を成している章が複数集まり、さらに大きな物語を形成するのが、長編小説だ。また一つの皿だけを食べて、それがおいしければいい一品料理と違って、コース料理の場合は皿を出す順番やまとまりや変化、それらの間の微妙なバランスと起伏の作り方といったことまで問題になってくる。多楽章形式の音楽でも事情は同じである。

コース料理の話が出てきたので、その流れを見ておこう。

日本料理(会席料理)…(1)前菜、(2)吸い物、(3)刺身、(4)焼き物、(5)煮物、(6)揚げ物、(7)蒸し物、(8)酢の物、(9)ご飯・味噌汁・お新香、(10)和菓子・果物・お茶

フランス料理…(1)前菜、(2)サラダ、(3)スープ、(4)パン、(5)魚料理、(6)ソルベ[口直し用氷菓]、(7)肉料理、(8)チーズ、(9)フルーツ、(10)デザート、(11)コーヒー、(12)プチフール

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メイン料理を何にするか(魚、肉、野菜)、アルコール(酒、ワイン)をどう位置づけるかによって、いろんな変化が考えられ、それぞれの店の特徴となる。

料理に詳しければ、交響曲ソナタを聴き、「この焼き物はちょっとね」とか、「ここのソルベは甘すぎる」とか言ってみたいもの。逆もある。コース料理を食べていて、例えば、ブルックナー第八交響曲の第4楽章の第1主題に似ているとか言う。知的スノッブ!…でも先は遠いねえ。

 

交響曲やピアノ・ソナタ弦楽四重奏という「コース」を構成する「皿」の順番には、時代ごとにある程度の暗黙の約束事がある。ハイドンモーツァルトの皿の並べ方は、おおむね次のようなものだ。まず第一楽章で恭しく宮廷に通され(序奏)、サロンで活発な議論が交わされる(主部)。第二楽章でお茶の時間となった後、やがて第三楽章で舞踏会のメヌエット[舞曲]が聴こえてきて、第四楽章で王宮の祝典の喜びが爆発する。つまり第一楽章が一番格式ばっていて、曲の後半ほど打ち解けてくるのである。それに対してベートーヴェン以降の多楽章形式の特徴は、終楽章の内容がどんどん重くなっていくことにある。つまりフィナーレへ向けて昂揚していく右肩上がりの時間表現が、その基本図式となる。…但し、19世紀も中頃を過ぎると、こうした「行け行けノリ」とも言うべき「盛り上がる形式」を避ける試みもなされるようになる。(P105-106)

近代西洋音楽の多くは、言葉の厳密な意味で「構成」(コンポジション)である。…こうしたタイプの音楽は、聴き手に音楽という「時間」を、音の建物という「空間」の中で視ることを、暗黙の裡に求めてくる。時間の中で熟してくるものを瞬間の中に聴き取る能力と言ってもよかろう。

コース料理は日常の食事ではない。そうすると多楽章形式の音楽も日常の音楽ではないのだろう。…「構成」(コンポジション)を理解すれば、コース料理も多楽章形式の音楽も楽しめる。大いに結構。あれかこれかじゃない。あれもこれも。食わず嫌いはよくない。

コース料理の喩えを理解するには、「カネ」がかかりそうだ。庶民には、長編小説の喩えが良いかもしれない。クラシックを聴くことを、「日常の風景」にしようというのならば、なおさら。…でもそうなると、変質するかな。

 

これまで見てきたのは、主として音楽の文法的側面である。音楽をどう分節し、どう抑揚をつけ、どんなロジックで組み立てていくか。こういった主として形式面に関わってくる問題だと言っていい。しかしながら音楽は、意味論的な次元でもまた、しばしば一つの「言語」である。つまり特定の楽器や調性や音型などが、ある具体的な意味内容を指示する記号として機能する。…特定の様式が記号のようにして引用されることも多い。

岡田はこれらの具体例を挙げているので、詳しく見ていけば面白いのかもしれないが省略して、次の様式引用のみ取り上げよう。

シュ-ベルトやマーラーでしばしば現れる、東欧の放浪の楽師(ロマ)たちが奏でるような調子外れの響きの引用も面白い。これはおそらく、さすらい人が象徴する「自由」に対する憧れであると同時に、得体のしれない世界へ堕ちていくことへの、ロマン派芸術家独特の実存的不安の徴でもあっただろうシューベルトの歌曲(例えば、《美しき水車小屋の娘》や《冬の旅》)ではしばしば、市民社会の拘束から逃れて放浪することへの憧れと不安と死の恐怖が歌われる。こうしたアンビバレンスの象徴として、さすらいの楽師の響きが現れるとも考えられるのである。

ロマン派芸術家だけでなく、現代の私たちもまた、「さすらい人が象徴する「自由」に憧れると同時に、得体のしれない世界へ堕ちていくことへの不安」を抱いているのではなかろうか。というより、このような「放浪への憧れと不安」は、時代を問わず、場所を問わず、かなり普遍的な心性ではないかと思う。…それにしても、シュ-ベルトやマーラーが、「さすらいの楽師の響き」を引用しているとは知らなかった。

このような様式引用において、演奏家の責任は極めて大きい。例えばシューベルト《楽興の時》の有名な第三曲のホロヴィッツの演奏を聴けば、これがみすぼらしい放浪の楽師の奏でるアコーディオンであることは、一目瞭然となる。しかし作曲家が「負」の表現を意図していた箇所を素通りして、それを美しくゴージャスな響きで仕上げてしまったなら、作品本来の「意味」はきれいさっぱり拭い消されてしまうだろう。例えばマーラーの第一交響曲の第三楽章冒頭、有名なコントラバス高音のソロは、いかにも哀れっぽく、下手くそに弾かないといけないこれは「交響曲」という上流ブルジョワのための音楽から排除された人々、つまり民衆世界の音風景のシンボルなのである。それを艶やかな響きと正確な音程で弾いたりしたら、ここで意図されているアイロニーはまるで分らなくなってしまう。

 

マーラー 第一交響曲

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ロマ音楽とは、

ロマ音楽は、西アジアやヨーロッパなどで移動型の生活を送る、あるいは送っていたロマ民族(ジプシー)*1を中心に発達してきた音楽。…ロマは各地を放浪し、音楽の演奏やダンスなどを行う旅芸人として生計を立ててきた。彼らによってもたらされた音楽は、現地の音楽に影響を与え、また影響を受け、相互に発展してきた歴史がある。…ロマの音楽はヨーロッパのクラシック音楽にも大きな影響を与えてきた。特にロマン派以降の作曲家にロマの音楽に触発された作品が多く見られる。代表的な作品として以下のようなものがある。

ハンガリー狂詩曲(フランツ・リスト)、ハンガリー舞曲(ヨハネス・ブラームス)、ツィゴイネルワイゼン(パブロ・デ・サラサーテ)、チャールダーシュ(ヴィットーリオ・モンティ)、ツィガーヌ(モーリス・ラヴェル)(Wikipedia)

ツィゴイネルワイゼンを聴いてみよう。

ツィゴイネルワイゼン(独:Zigeunerweisen )作品20は、スペイン生まれのヴァイオリニストであるサラサーテが作曲、1878年に完成した管弦楽伴奏付きのヴァイオリン曲である。非常に派手で劇的なヴァイオリン曲として知られる。題名は「ジプシー(ロマ)の旋律」という意味である。(Wikipedia)

 

ツィゴイネルワイゼン 葉加瀬太郎

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ツィゴイネルワイゼン(流浪者之歌) 二胡:段琳

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 下記(注)を読んだ後、この曲を聴いてみて下さい。

*1:

歴史的現実としてのジプシーはどのような存在だったのか。憧れを抱くことのできる放浪の民だったのだろうか。…放浪民(流浪者)とは、定住者ではない=よそ者=異質な者=排除すべき者であった。

ヨーロッパ全域に広く居住しているロマは、中世紀後半にインド北西部からヨーロッパへの移動を開始したと考えられています。ロマの人びとは歴史的に差別と迫害を受け、ナチス支配の時代には「劣等人種」として、強制収容所に収容、約50万人が虐殺されました。現在もロマに対するステレオタイプな見方と偏見は根強くあり、居住する国々でロマは教育、雇用、住居などにおいて差別的扱いをうけ、厳しい生活環境におかれています。さらには、近年勢力を拡大しているネオナチや極右団体により、ロマは深刻な迫害を受けています。東西冷戦崩壊後、EU統合やグローバル化が進む中、ヨーロッパにおけるロマを取り巻く情況は近年さらに悪化しています。IMADRはロマに対する人種主義的で非人道的な政策や動きに対して抗議と要請を行なっています。1971年4月8日、世界各地のロマがロンドンに集まり、第1回「ロマ国際会議」を開催しました。その会議で人びとはそれまで使われてきた「ジプシー」「ツィゴイナー」などの人種差別的な呼称のすべてを否定し、「今日から我々はロマである」と宣言しました。(http://imadr.net/activity/roma/