気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

音楽の力(ベートーヴェン、絢香)

岡田暁生『音楽の聴き方』(21)

今回から、第5章 アマチュアの権利 に入る。

岡田は、西洋近代音楽を念頭に置いて話をしているが、ここで述べられていること(考え)は、他分野(芸術全般及びその他の分野)にも拡張可能かもしれないということに留意して読んでいこう。

 

音楽は社会が作る/音楽が社会を作る?

音楽評論家パウル・ベッカー(1882-1937)は、近代音楽とはどのように生まれたのか、それは一体何であったのか、そして来るべき時代の音楽は社会とどういう関係を切り結ぶべきなのかについて、この本(『ドイツの音楽生活』)の中で徹底的な省察を行っている。

「音楽は世俗を超越している」という常識に反して、ベッカーは「音楽は社会が作る」ものだと言う。これはどういう意味か。

音はそれ自体ではただの音(=知覚される素材)に過ぎない。それを音楽として知覚する人々(=周囲世界)、そして枠組(=形式)があって初めて、音は音楽になる。

音はそれ自体では何の意味も持たない音である。その何の意味も持たない音を、あるパターンでもって整序することによって、人間に意味のある音、即ち音楽になる、という意味に解釈する。(パターン=形式=枠組、整序=並べる=組み立てる=秩序立てる)。どのようなパターンが人間に意味あるものと感じられるかは、その時・その場所で暮らす人々(=社会)(歴史を含む)によって異なる。(より基本的には、人間の生理・身体構造に依存するところが大きいのではないかと思う)

 

作り手と聴き手が分離した状況において、聴き手の立場に立った場合どうか。

聴き手にとっても事情は同じだろう。半ば無意識であったとしても、多楽章形式の意味だとか、「旋律は8小節でひとまとまりになることが多い」といった知覚枠をもっているから、交響曲はただ滔々と流れる響きではなく、音楽として聴こえてくる。知覚枠が分からなければ、音楽は音楽に聴こえない。ただのサウンド/シグナルにしか聴こえない。ある音楽を聴いてどうもよく分からない(聴いていて意識が途切れる)というケースの大半は、「音を音楽として知覚するための枠組」を持っていないことに起因する。

岡田はこのように言うが、「知覚枠」とは、「西洋近代音楽[作品]がどのように作られているのかに関する知識」のように聞こえる。そして「知覚枠が分からなければ、音楽は音楽に聴こえない」と言う。果たしてそうだろうか。私は、岡田の言うような「知覚枠」を持ち合わせていない。しかし、単なる雑音ではなく「音楽」に聴こえる(眠たくなったり、退屈に感じることも多いが…)。

「知覚枠」を持っていたら、音楽が「分かる」のだろうか。分かるとは、どういう意味だろうか。どれか一つ好きな楽曲を思い浮かべてみよう。クラシックでもジャズでもポップスでも歌謡曲でも何でもいい。その曲を聴いて、何が分かるのか。何かを感じるかもしれないが、何を分かるというのだろうか。言語に翻訳されなければ、音楽は分かったことにはならない、というのだろうか。

 

音楽を上演する場もまた、一つの形式である。バロック時代からモーツァルトあたりまでの器楽合奏曲の多くは、貴族の祝賀会の類で鳴り響くことを想定して作られた。それと入れ替わるようにして、18世紀末の市民社会の成立と共に生まれたのが、私たちになじみのコンサートホールである。それは新しく生まれた近代市民に、音楽を通して一体感を与える制度であった。対するに連弾[一台のピアノを複数人で弾く演奏法]や弦楽四重奏やリート[古典派以降の音楽家によって作曲された歌曲]は、教養市民の家庭で演奏されるものであったし、ショパンやリストに代表されるサロン音楽は裕福なブルジョワのパーティーで弾かれることが多かっただろう。はたまた第一次世界大戦が終わった1920年代になると、多くの音楽家がキャバレーなどに理想の音楽体験の形式を見出すようになる。音楽はそれ自体として孤立して存在しているのではない。それをまさに「音楽」として体験するにはさまざまな枠があり、それは社会によって生み出されるというのが、…ベッカーの考え方である。

「音楽を演奏する場所」、「音楽が演奏される場所」に着目することは、「社会の中における音楽」を考える場合の重要な着眼点だろう。演奏場所は、誰が聴衆であるかをかなり明瞭に示すようだ。…コンサートホールについて一言すれば、それは「大衆」のものではない。おそらく(時間とカネのある)「教養市民」のものであろう。西洋近代音楽だけでなく、日本の伝統芸能に関しても「教養市民」のものとなっていると考えられる。

私は「サロン音楽」にあこがれのようなものを抱いていて、それを一種の楽園だとみなしている。(ピアノ演奏のあるボタニカルカフェ 参照)

 

彼の論考を何よりユニークなものとしているのは、それが単なる社会反映論――「音楽には時代と社会が映し出される」といった――にとどまっていない点にある。つまりベッカーは音楽を、ただ社会を受け身に反映するだけではなく、自ら社会に働きかけ、社会を批判し、場合によっては新たに社会を作り出す機能を持っているものとして、考えているのである。これなど後のアドルノの考え方そのままと言ってもいいくらいだ。(P179)

ベッカーによれば、「新しい社会を作る」という音楽の力が全面的に解放されたのが、フランス革命以後の近代である。今や音楽は「群衆に呼びかけ、新しい生の価値それ自体を自らのうちに吸収し、前代未聞の規模でもって(社会を)形成し、教化する力を持ち始めた」。近代社会における音楽の使命とは、「この絶えず膨張し、見たところ全く有機性を欠いていると見える群衆に、一体感を喚起すること」である。無秩序の群衆のカオスを、音楽が持つ人々を鼓舞する力によって、有機的な共同体へと統合するのである。

音楽が「新しい社会を作る」とか、「群衆に呼びかけ、新しい生の価値それ自体を自らのうちに吸収し、前代未聞の規模でもって(社会を)形成し、教化する力を持ち始めた」などと言われてもピンとこないだろう。

次の動画を見て下さい。(再生回数7000万回超)

Som Sabadell flashmob - BANCO SABADELL

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この動画の解説は、「音楽の力ってやっぱり凄い! スペインで行われた素敵すぎるサプライズ演奏が世界で話題に」 を参照ください。

 

こうした意味での近代音楽の金字塔は、言うまでもなくベートーヴェン交響曲である。後にベッカーは戦場から戻って執筆した交響曲の歴史についての本で、ベートーヴェンからマーラーに至る近代の交響曲を、「共同体を形成する機能」を持つジャンルだったと書いた。(P179)

コンサートホールで鳴り響く交響曲とは、教会のミサと貴族のサロン、そして大学におけるコレギウム・ムジクム(学生が行う音楽会)を総合した「社会全体が集う空間」、つまり教会と貴族とアカデミーとの境界を取り去って一つの巨大な社会を作り上げる場だったというのである。ベートーヴェンが創り出したのは、「公衆という混沌とした群衆を公共性へ向けて再創造する統一の意識」であった。

 

Ayaka- Power of Music + lyrics

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Beethoven Symphony 9th - Wilhelm Furtwangler (19-4-1942)

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果たして、ベートーヴェンが創り出したのは、「公衆という混沌とした群衆を公共性へ向けて再創造する統一の意識」であったのか?