浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

個体の行動の目的は、子孫を増やすことなのか?

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(12)

お盆休み(夏休み)で帰省する人は多い。故郷で、家族や友人たちと飲食する機会も増える。ビールと言えば、アサヒとキリンがシェアトップ争いをしているが、キリンビールのラベルには、「麒麟」がデザインされている。

トリビア1)麒麟は中国の神話に登場する伝説の霊獣である。

中国の想像上の動物。西洋のユニコーンに対応する。鳳凰(ほうおう),亀,竜と並ぶ四霊の一。鹿に似て牛尾,一角。一説に雄を,雌をという。仁獣かつ瑞獣(ずいじゅう)で,聖王の代に出現するとされ,その死体を見て孔子は〈我が道窮まれり〉と泣いた。(世界大百科事典)

トリビア2)「麒麟」のデザインには、「キ」「リ」「ン」の文字が隠されている。(見つけられなかったら、下記URLの記事をみてください)

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https://creators.view.cafe/374/

 

今回は、第2章 生物学の成立構造 第1節 「物質と生命」という区分 の続きである。

合目的性についての進化論的理解と日常的理解

キリンの首はなぜ長いのか。

キリンは、高い木の上の葉まで食べられるような長い首をたまたま持って生まれてきた個体の方がそうでない個体よりも生存に有利なので、そうした首の長い個体がより多く生き残り子孫を残した。その結果、キリンは今のように首の長い動物に進化してきた。

たぶん、一度は聞いたことのある説明だろう。

こうした過程において、首の長い個体を誰かが意図的に選択したわけではない。単に首が長い個体が生き残って子孫を残したというだけのことだ。しかし、ある特定の形質を持つ個体だけが繁殖したという結果に着目するなら、人為的な選択による品種改良の場合と同様である。この点において、こうした過程は比喩的に自然選択」と呼ばれた。

「自然選択」といっても、「自然」(神)が選択したのではない。選択とは比喩であることに注意。

要するに、自然によって「選択」されるのは、子供の数を最大化する行動や身体構造なのである。進化論の視点からは、行動や身体構造の適否は「適応度」、即ち生殖年齢に到達した子供の数を尺度として解釈される。どのような行動や身体構造であっても、結果として子孫がたくさん残るのであれば、そうした行動や身体構造は選択される。

「子供の数の最大化」が基準とされる。しかし、何故それが基準となるのか?

ダーウィンは、自然選択という無目的な過程によって、生物の行動や身体構造における合目的性を説明しようとした。…自然選択理論は、生物におけるそうした合目的的な構造の形成を、神による意図的な制作という宗教的な仕方でなしに説明するためのものである。

しかし当の個体は、「子供の数の最大化」を目的としていない。(種としての)「子供の数の最大化」という意識的な目的を掲げて、性行動を行っているわけではない。

こうした進化論的説明の視点が、その行動を行っている当の個体自身に対して外在的なものであることは明らかであろう。そのことは「生物個体」として我々自身について考えてみればよい。我々は常日頃、さまざまな意図や目的をもって行動している。…お腹がすいたからご飯を食べようと思うのであり、部屋が汚いと必要なものがすぐに見つからなくて困るから掃除しようと思うのであって、そうした行動が子孫の数を増やすかどうかなど、夢にも思いはしない。配偶者を選択するという、増殖が直接的にからむように思える場面であっても、眼前の異性が好みだから選択するのであって、子供の数を最大化するという目的で選択する人はたぶんあまりいないだろう。…お腹がすいたことが物を食べることに結びつかないような個体は早晩死に絶えるだろうし、部屋が汚くても気にしない個体は異性にモテず、子孫を残さないかもしれない。(異性に選択されることは「生選択」と呼ばれ進化における大きな動因となるとされている)。このように、進化論においては個々の行動の意図や目的は切り捨てられ、行動はそれをなす本人の意図や目的とは関係のない結果(子孫の数)によってのみ価値づけられるのである。

現代日本社会では少子化が進行している。つまり、「自然選択」に失敗しており、「退化」しているのである!

「子孫の数」ではなく、別の基準を採用した場合、地球型生命はすべて絶滅への道を進んでいると言えるかもしれない。(残っているのは、カスばかり!)

 

目的と行動

子孫の数を増やすというのは、個体の行動の目的なのか? 個々の行動の意図や目的を切り捨ててよいのか? 

反論はある。

  • 人間以外の生物については、意図や目的を論じても意味はなく、進化論が外在的な視点からの説明だとしても問題がない。
  • ドーキンスは、その生物自身の意図や目的ではなく、遺伝子が行動を規定する、としている。

これに対して、山口は次のように述べている。

我々は日常的な理解において、昆虫や細菌についてさえ、それら自身の意図や目的を考えないわけにはいかない。我々が生物を見てそれを生物だと認識するのは、それの運動変化が単なる物理的運動ではなくある意図や目的に基づく行動だと理解するからである。意図や目的の概念なしでは、生物の行動と単なる物体の物理的運動との間の区別がなくなってしまう。それでは生物は単なる物体であり、生命現象という独特の現象は実在しないということになってしまうが、もちろんそれは生物学という学問分野そのものの存立を否定する結論である。

生物と物体の運動の違いをどう認識するのか。通常、「生物の運動」とか「物体の行動」という言い方をしない。「生物の行動」とか「物体の運動」と言う。それは、生物の運動が、何らかの意図や目的を持っているように見えるからであろう。山口によれば、そういうふうに見えるから、「生物」だと認識する。これが「擬人主義」なのかどうかは、いささか微妙なところがあるように思われる。

 

水田に棲む微生物を顕微鏡で観察する

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細菌の運動」は、どういうふうに理解されるか。

細菌の動きは単なる物理的な運動と同一視することはできず、例えば「ブドウ糖に反応するセンサー」と、それによって制御される「鞭毛モーター」などによるものとして、つまり機械の動作に類比する形で理解せざるを得ない。そして機械とは、人間がある目的のために製作したものであり、その動作はその目的に即してのみ理解できる。生物を機械に類比することは、実は隠れた擬人主義だということである。

「擬人主義」とは、

人間でないものに人間と同様な心的活動があると想定する態度。歴史的には神を人間と同様の存在とみなす神人同型説があったが,現在ではもっぱら動物に人間的な心の動きを認める態度や学問的方法に対して批判的に用いられることが多い。(百科事典マイペディア) 

「細菌の動きは、機械の動作[目的がある]に類比する形で理解せざるを得ない」ということは、「動物に人間的な心の動きを認める」ことであり、これは(否定的に評価される)擬人主義と言われても仕方あるまい。

もちろん山口はそんなことは承知している。

我々が細菌のようなものであってもそれを生物だと見做すとき、細菌自身の意図とは言わないまでも、少なくとも「目的」というものを想定してしまわざるを得ない。それは擬人的理解だと言われればその通りなのだが、ここまでの議論で明らかになってきたように、合目的性をその生命自身の目的と関連付けて理解することは、我々が何かを生命だと認識することとほとんど同義なのである(生物学はそうした合目的性を成り立たせているメカニズムを機械論的に説明しようとするが、ここではそもそも研究すべき「生物」がいかにして見てとられるか、という話をしている)。*1 

我々が、Xを目にしたとき、Xは「生命」なのか「物体」なのか。山口は、これをXの動きが「合目的的な行動」と見てとれるか否かにより判別しようとしているようだ。

進化論が外在的な視点からの説明(意図や目的を切り捨てる)だとしたら、Xは当初より「物体」とみなされ、その運動を論じているようにも思われる。「遺伝子が行動を規定する」といっても、「物質Yが、物質Xの運動に影響を与えている」と言っているに過ぎないのではないか。

生物の行動が、物体の物理的運動と異なるのか否かが問題である。常識的にはもちろん異なる。しかし生物が物質(分子-原子-素粒子)から構成されていると考えるならば、物質から構成される物体と何がどのように違うのかが説明されなければならないだろう。意図や目的の観念を生みだす「意識」の生成が問題である。…いささか先走りし過ぎたか。

*1:山口は「植物」についてもふれている。…植物自身の目的を想定するのでなければ、植物が成長する(ex.光のある方向へ向かって成長する)ことと、例えば溶液中で結晶が「成長」することとの区別がなくなってしまう。つまり、植物であってもそれを生命だと理解するためには、それ自身の目的を想定することが必要である。