浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

非競争的な文化

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(11)

今回は、第2章 競争は避けられないものなのだろうか 第6節 不可避性をめぐる心理学の議論 の続き(p.69~)である。

  • ジェローム・ケーガンは次のように述べている。…「とうもろこし畑で、8歳の息子にトウモロコシの植え方を教えている父親にとって、その目標を達成する状況をつくりだすのは容易である。子供が、30人の子供を1人の先生が担任しているクラスの一員である場合には、なかなか難しい。子供にしてみれば、まずもって自分の行為と仲間の行為との比較に基いて、進歩したという自分なりの評価が行われるのである」。
  • 殆どの人々は、静かなとうもろこし畑よりも、混みあった教室で過ごす時間の方が長い。従って自分の体験した状況が、成長していく上で避けがたいものだと考えるのである。

父親が8歳の息子にトウモロコシの植え方を教えるのと、学校の教師が生徒にトウモロコシの植え方を教えるのとでは何が違うか。父親の場合、息子が以前より上達すれば褒めるだろう。しかし、学校の教師の場合、上達していても、他の子供と比較して「遅れているから、もっと頑張れ」と叱咤激励するだろう(相対評価)。子どもは、他と比較されることを知り、優越感や劣等感を抱く。

 

  • ジョセフ・ベローフは、極めて競争的な学校制度や近所づきあいにおいては、競争が自己確認を行うための最も有力な基盤をなしているのも無理はない、と考えている。

学校が(多くの側面において)「競争的」であることは、恐らく誰もが認める事実だろう。

職場においても(多くの側面において)「競争的」であることは、恐らく誰もが認める事実だろう。

住居や職業や勤務先及びそこでの地位などが、その人を評価する主要素となる。近所づきあいは、これらが背景にある。かかる自己確認は、薄っぺらな「自己」の確認にすぎない。

 

  • ある人間は、重視されている特徴について十分に社会的な比較を行っていくにつれて、社会的な比較に柔軟に対処できるようになり、……熟達についての自分なりの自立した能力を重視する方に揺り戻されていく。
  • 言い換えれば、それなりに健全な自己概念を持ち合わせている大人なら、「どのようにしたらいいのだろう」と呪文のように繰り返す必要はないし、他人と比較してみる必要さえないのである。 

大人なら「健全な自己概念」を持っている。「自分なりの自立した能力を重視」できないようでは大人ではない。いつまでも「社会的な比較」にとらわれ、優越感や劣等感を持っているようでは、大人ではない。

 

  • 南アフリカのトンガ族は、自分たちが採った魚を比べるけれども、「それぞれの人が互いに勝っているかどうかを争うような様子はない」と言われている。
  • 自分が書いたものをシェークスピアが書いたものと(また、同時代のものと)比較して、自分がどれくらい劣っているかを感じるということでも構わないのである。
  • このことによって、自分を改めようという気になるだろうし、また特に敬愛する人が書いたものの特徴をまねてみる気にもなるだろう。どちらの場合にも、自分が他人よりもうまくならなければならないと感じる必要は無いのである。

私が何かを制作する」ということは何を意味するか。(「何か」に何を想定しても良い。上に引用した「魚を採ること」でも、「書きもの」でも良い。一般化すれば「行為」と言えようか)。私は、制作物の優劣を競うようなことはしない。もちろん制作物がどれほどの貨幣価値を持っているかなどと考えない。それでも制作物に何らかの意味を見出す。他者の制作物も見る。私の基準による優劣の価値評価はある。他者には他者の基準による価値評価はある。私は孤立して存在していない。価値基準に優劣はないが、妥当か否かはあるだろう。価値基準の変更を認めた上で、「より良いもの」を目指そうという意思は、競争とは異質なものである

 

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画像:「フィンランド式教育」 なぜレベルが高いのか 小学校:前編(https://note.com/kannaedu/n/n8520f614d0d4

 

  • 能力の差異は常に存在しているのだと主張して競争を支持する人々に対しては、競争を形づくっているのは、そうした[能力の]差異に込められている意義なのであり、差異そのものではないのだと反論できるだろう。状況を競い合いに変化させないままでは、互いに異なった能力を観察することができないというのは、学習によって得られた傾向なのである。

この文章はよくわからない。前段の「能力の差異→競争」のロジックは何か。[能力の]差異に込められている意義とは何か。後段の「競争→異なった能力を観察できる」というのも理解できない。

 

  • ある個人の競争意識がどの程度のものなのかは、このことがどれ位頻繁に起こるのか、そして他人よりも勝れていたいという必要をどれ位強く感じるのかという関数として表現することができる。けれども、このような性向が人間生活の避けられない姿であるという証拠は、少しもないのである。
  • 構造的な競争と意図的な競争とが不可避なものだとするには程遠いのは確かだとしても、それがアメリカの社会に浸透しているとすれば、変化にとっては確実に手強い阻止要因になる。週末までにこの社会を非競争的にしてしまうことは出来ない相談であり、本章がそのように主張しているものとして読まれるのは願い下げである。

「競争」はアメリカ社会だけでなく、中国やロシアや日本やアフリカや中南米やすべての社会において浸透しているように感じる。これが生物学的なものなのか、社会的なものなのか、その複合なのか、ここまで読んできた限りではまだわからない。

 

  • けれども同時に、競争がアメリカの文化に固有のものであるという主張に対しては身構えなければならない。競争が破壊的なものだと断言されると、アメリカ以外の非競争的な文化が存在することなど考えもしないで、お手上げだと言ってしまう人もいるだろう。こうしたやり方が持ち出されてきたのは、社会のいろいろな好ましくない特徴を変えていく可能性があるということに異議を唱えるためだった。それは、我々が出くわした自己実現の予言のもう一つの姿なのである。本章のはじめのところで展開しておいたテーマに戻るなら、それは、意図としてはそうでなくとも、結果としては、全く保守的な姿勢なのである。

非競争的な文化が存在する(あるいは存在した)」という事実が証明されるなら、生物学的な、あるいは社会心理学的な競争の不可避性の反証となるだろう。

 

  • 厳密な言い方をすれば、非競争的に活動している人々の例をあげれば、人間性をめぐる議論に対する反論としては十分だったはずである。けれどもここでは、数学的な証明よりも、むしろ人々そのものを素材にしているのである。そこで、意図的な協力の実践ではないものの、非競争的な指向性がまさに可能性として存在しており、我々の生活の現実的な代替物になりうることを示しておく必要があったのである。本章の課題はこのことだった。

「非競争的な指向性がまさに可能性として存在しており、我々の生活の現実的な代替物になりうる」ことを、コーンが説得力をもって論証しえたかどうかは疑問である。コーンの著述(本書の発行は1986年、改訂版:1992年)以降、数十年を経た現在、個人であれ国家であれ、「競争意識」はますます高まっているように見受けられる。

 

  • さて、そこで、「しうる」から「すべき」へと目を転じるべきだろう。競争は、必然的なものではない。従って、競争が望ましいものなのかどうかについて自由に考えることができるのである。

 

今回で第2章を終わる。第3章以降は、次の通りである。

第3章 競争はより生産的なものなのだろうか-協働の報酬

第4章 競争はもっと楽しいものなのだろうか-スポーツ、遊び、娯楽について

第5章 競争が人格をかたちづくるのだろうか-心理学的な考察

第6章 相互の対立-対人関係の考察

第7章 汚い手をつかう口実

第8章 女性と競争

第9章 競争をこえて-変化をもたらすためのさまざまな考え方

第10章 ともに学ぶ

これからもっと詳しい議論になるか。タイトルを見る限り興味をそそられる。