浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

空間とは何か? 実体説と関係説

ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』(10)

今回は、第3章 無の小史 の続き(p.86~)である。

 

空間とは何か

哲学者の間では、空間(時空)とは本当は何なのかについて、2つの対立する見方がある。

1) 実体的な見方は、ニュートンに遡る。その見方では、空間は実際に存在するもので、それ固有の構造があり、例え、中に含まれているものがすべて消滅しても、空間は持続すると考える。

2) 関係的な見方は、ニュートンの最大のライバルだったライプニッツに遡る。それによれば、空間は、それ自体ではものではなく、もの同士の複雑な関係に過ぎない。ライプイッツの見方では、空間は、それが関係するものから離れると、もはや存在できない。

空間をめぐるニュートン派とライプニッツ派の存在論的な論争は、今日も続いており、白熱している。時空が物質の振る舞いに影響を及ぼすとする相対性理論は、情勢を実体説側にやや有利なほうに傾けている。

素人感覚では「実体説」である。夜空を見上げれば、星やガスなどの物質が無くなっても「空間」は残ると直観する。ライプニッツのように、「空間」が物質から離れると存在できないというのは直感的に理解できない。

だが、この論争に決着をつけるまでもなく、容器論法*1の有効性のほどは明らかだ。仮に関係説が正しく、空間は単なる便宜的な理論上の虚構だとしよう。その場合は、宇宙の中身が消滅するようなことがあれば、空間もそれとともに消えて絶対無が残るだろう。

「関係説」は、宇宙の中身(もの)が消滅すれば、空間も消滅するという。これは素人には理解できない。しかし、「絶対無が残る」というのも何を言っているのかわからない。

逆に、実体説が正しいとしよう。そして、空間はそれ自体が「存在」である、正真正銘の宇宙の舞台だとしよう。するとこの舞台は、物質的な中身が消えたとしても存続し得る。たとえ、すべてのものが消え去っても、やはり空いた場所が残るだろう。

これは素人感覚に合致する。

しかし、もし空間が紛れもない物質的な実在であるならば、その幾何学的形状も物理的な実在であるということになるだろう。空間は無限大のものかもしれない。だが、果てはなくても有限である、ということもあり得る。(例えば、バスケットボールの表面は、果てが無い有限の二次元空間だ)

空間が存在すると直観しても、それは空間が「紛れもない物質的な実在」であるかどうかはわからない。「空間」が「紛れもない物質的な実在」とするのは、「空間=空間の中に含まれる物質」とすることではないか。これは素人の直観に合致しない。

私は「頭が固い」のかもしれないが、「果てはなくても有限である」という記述が理解できない。「果て」を「無限」と同じ意味であるとすると矛盾するので、「無限」とは異なる意味である。では「果て」とはどういう意味だろうか。球の表面は「果てが無い有限の二次元空間」だという説明はよく聞く。「有限」というのは直観的にわかる。では何故「果てが無い」と言われるのか。球の表面の一点からまっすぐ進んでいけば元の地点に戻るが、それで行き止まりというわけではなく何度でも繰り返すことができる。壁にぶつかって行き止まりになるわけでも、どこかに端があって落ちてしまうということもない。これを指して「果てがない」と言っているのだろうか。そうであれば、少しはわかったような気分になるが、ここから類推して「果てはないが有限な三次元空間」なるものを想像できない。

そのような「閉じた」時空は、まさにアインシュタイン相対性理論が想定するものだ。実際、スティーブン・ホーキングを始めとする宇宙論者は、「私たちの宇宙の時空は、バスケットボールの表面を高次元にしたように、有限で果てのないものだ」という説を述べている。

結局のところ、「相対性理論」を全く理解していないと言われるだろうが、「私たちの宇宙の時空は、バスケットボールの表面を高次元にしたように、有限で果てのないものだ」と言われても、理解できない。球体の表面(2次元)を高次元にするとどのようになるのか。どのように見えるのか。それは実際に存在するものなのか。数学理論の中だけの話ではないのか?

その場合は時空を、中に含まれるすべてのものとともに「考えて追い払う」ことは難しくない。バスケットボールがしぼむ、というよりむしろ縮むことを想像すればいいのだ。心の中で、バスケットボール、つまり宇宙の有限の半径がどんどん小さくなり、最終的にゼロになる。すると、時空の舞台そのもの消滅し、絶対無が残される。

バスケットボールが縮むのは想像できる。しかし何故それが時空が縮むことにつながるのか。それは、時空がバスケットボールの内側の空間と同じだと想定しているからだろう。しかし時空がなぜ「内側」なのか。それは単なる仮説ではないのか。「内側」という言葉を使えば当然「外側」という言葉が思い浮かび、バスケットボールの外側つまり時空の外側はどうなっているのかという問いが生じる。「内側」と「外側」を区分するものは「膜」である。しかし私たちは「膜」の性質について何か知っているのだろうか。内側の物質の動きを解明しても「膜」の性質は解明できないだろう。「膜」は、思考の限界を示しているようでもある。

この思考実験から、無に関する鮮やかな科学的定義が導かれる*2

 ないこと(無の状態)=半径がゼロである球形の閉じた時空 

直前に「時空の舞台が消滅したら、絶対無が残される」とあった。絶対無=ないこと(無の状態)である。

 絶対無=半径がゼロである球形の閉じた時空

これが「絶対無」である。「半径がゼロである球形の閉じた時空」で、イメージできるだろうか? 「想像」してみよう。視点をどこに置くか。球を思い描いて、球の外側から球を視てはならない(球の外側に視点をおいてはならない)。球の内側に視点を置かなければならない。

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風船の内側に身を置き、透明な膜(但し、透明な膜の外側は見えず、外側があるかどうかわからない)が、観測により縮まってきていると想像しよう(観測により、膜が広がっているというなら、その反対を想像すればよい)。

そして膜が縮まり(半径が小さくなり)、点*3になったと想像しよう。…と書いてみたが、「点になる」が想像できない。無限に小さくなっていくというのは何とか想像できる。では「無限小」は「無=0」(?)なのか。*4

ヴィレンキンの定義は、無に関する鮮やかな科学的定義とは思えない。

以上のことから、容器の本質がたとえどのようなものであったとしても、容器論法は崩れる。もし時空が紛れもない実体などではなく、単にもの同士の一連の関係ならば、時空はそれらのものとともに消滅するので、無が実在することの障害たりえない。一方、もし時空が、奇妙な構造と本質を持つ紛れもない実体であるならば、現実の他の中身と同様に、時空を想像によって「消す」ことができる

「以上のことから、容器論法は崩れる」というが、それはどういう意味か。

  • 本記事の冒頭にあったように、「関係説」は、宇宙の中身(もの)が消滅すれば、空間も消滅するという(現在のところ、私には理解不能な主張により)、頭から容器論法を認めず、「絶対無」が存在するという。
  • 「実体説」は、球形の物体の内側を時空とみなし、半径を縮めていくという思考実験により、「容器」を無くすことによって、「絶対無」が存在するという。

私には、球形の物体の内側を時空とみなすという前提が証明不能な定義のように思えるので、容器論法が崩れたとは思えない。とはいえ私は、容器論法が正しいと証明されていると主張しているのではなく、容器論法否定の論理が理解不能だと言っているに過ぎない。

*1:容器論法…宇宙の中身すべてが想像によって消えたとしても、中身が収まっていた抽象的な背景が必ず残される。この背景は空っぽかもしれないが、無ではない。中身が入っていなくても、容器は容器だ。これを、無を否定する「容器論法」と呼ぼう。(p.84)

*2:この定義は、元々は理論物理学者のアレックス・ヴィレンキン(アレキサンダー・ビレンキン)(1949-)が提唱したものだそうである。

*3:ユークリッドの『原論』によれば、「位置をもち、部分を持たないものである」と定義されている。 また、公理からの演繹を重視する現代数学においては、「点とは何か」ということを直接に定義せず、単に幾何学的な集合(空間)の元のことであるとみなされる。 これは、点(または直線など)を実体のない無定義術語として導入しておいて、その性質として幾つかの公理を満たすことを要請するという立場である。(Wikipedia、点)

*4:無限小と0は同値ですか?理由と、そうすることによって生じる不都合も教えてください。 - Quora」(井上尚夫他)参照。(https://jp.quora.com/~