浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

林英哲(海の豊饒、宴) 天野正道(シネマ・シメリック) 喜多郎(太鼓 MATSURI)

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https://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/what-we-do/support/program/1683/

 

 1.海の豊饒/林英哲

 

 

 2.シネマ・シメリック/天野正道


 

3. 太鼓 MATSURII/喜多郎


  

4.宴/林英哲


 

林英哲は述べている。(https://www.sotokoto.net/jp/interview/?id=59

太鼓は伝統楽器ですけれど、僕がやってきたことは伝統芸能郷土芸能ではないんですね。能や歌舞伎などの伝統芸能の太鼓は囃子方、つまり、歌や踊りの伴奏、何かメインがあっての脇役です。僕は太鼓だけで成立する、太鼓がメインの音楽をやりたかった。…太鼓で従来と全く違う価値観の表現を創りたかったのです。

太鼓の音は心臓の鼓動の音と近い。特に日本の太鼓は、自然音に近い音になっていて、ドンドンとやる。赤ちゃんはお腹にいる時、お母さんの心臓の音や羊水を通して外界の音も聞いている。それら全部の音の周波数が渾然一体となってガーッと鳴っている中、お母さんの心臓の振動音が聞こえ、赤ちゃんは何の心配もいらず眠っている。そういう記憶が、日本の太鼓から蘇るのだと思います。

以下に、林英哲に対するインタビュー記事からインタビューア(奈良部和美)の言葉を掲載する。林英哲が何と答えているか興味ある方は、http://www.performingarts.jp/J/art_interview/1103/1.html を参照されたい。

  • 多くの人は、太鼓を揃って打つ集団演奏は伝統芸能のひとつの形だと思っていますが、それは誤解というわけですね。
  • 伝統的な演奏だと捉えられている原因はどこにあると思いますか。
  • 林さんがそうしたグループを離れ、ソリストになったのはステージアートとしての太鼓を追求したいと決意されたからですか。
  • ソロになり、集団演奏とは違う音の作り方、打ち方など様々な試行錯誤があったと思いますが、目指す形はあったのですか。
  • それが、ソロになった翌年、1983年7月、新潟県五泉市で行われた「やまもと寛斎パリコレクション」での演奏ですね。正面から太鼓を打つ演奏形式[正対構え]はグループ時代からのものだと思いますが、ソリストの演奏として工夫を加えたのでしょうか。
  • 両手を長時間上げ続けるのさえ辛いのに、その姿勢で太鼓に向かい長時間打ち続ける。しかも一つの太鼓で表現するために、音の構成から何から何まで全部一人で考えなければならない。
  • 林さんがつくり出した和太鼓の独奏という音楽が、世の中に認知されたと思うようになったのはいつ頃ですか。
  • 太鼓は空間に左右される音楽でもある。
  • 太鼓の独奏のためには新しい楽曲を作る必要があったと思います。林さんのコンサートは音だけではなく、所作、いわゆる見せ方が作品ごとに練り上げられていると感じるのですが、作曲するにあたっては演出も含めて考えられるのですか。
  • 動植物の細密描写にたけた江戸時代の画家伊藤若冲をテーマにした2000年の『若冲の翼』や、日本の植民地となった朝鮮半島で朝鮮美術の素晴らしさを説き続けた浅川巧を描いた2002年の『澪の蓮』など、美術家をテーマにした作品も創られています。美術家をモチーフにしようという発想はどこから得たのでしょうか。
  • ジャズピアニストの山下洋輔さんや、現代音楽の作曲家の石井眞木さんなどが、林さんのために作曲されていますが、その場合は所作についてはどのように指定されていますか。
  • オーケストラと共演する時も、日本の太鼓の伝統的な所作や打ち方を意識されますか。
  • 昨年、林さんは11年ぶりにサントリーホーでソロコンサートをされました。1999年が「月山」、2010年が「月山Ⅱ」。…暗い会場にしんしんと降る雪のように大太鼓が一打、また一打と響く中を、温かに光る行灯が左右の舞台袖から運ばれるところからコンサートは始まります。雪のように白い舞台に斜めに差し込む青い光の帯、真言宗豊山派の僧侶の声明が唱えられる中を林さんは舞台後方に一直線に並べられた団扇太鼓を打ちながら摺り足で登場。きっと、1曲目の「四智梵語」で会場は清められたような静謐な空気に染まったのだと思います。太鼓セットを使う2曲目の「峠」から次第に音が躍動し始め、最後に演奏された大太鼓のソロの前には、僧侶たちが声明を唱えながら散華するという、荘厳なステージでした。