浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

私と他者

立岩真也『私的所有論』(15)

今回は、第4章 他者 第1節 他者という存在 第2項 私でないのは私達ではない である。

前項(制御しないという思想)においては、他者や世界は、「私が制御しないもの」、「私ではないもの」として在ると述べられていた。一見、そんなことは当たり前だと思うかも知れない。しかし「自己意識*1」が成立すると、「当たり前」でなくなる。まわりの風景やまわりの人々を、私は「私の目(脳)」で見ている。目を瞑れば、まわりの風景や人々が見えなくなる。見えなくなると、存在しないように思えてくる*2。また、目を開けていても、自分の視界に入らなければ、存在しないように思える。例えば、東京に住んでいると、ロシアの人たちがどういう暮らしをしているか知らないし関心もない。存在しないと同様である。もちろん話をすれば、「知識」はあるので、他者や世界の存在を認める。しかし、思考と行動は、自分中心なのであり、他者や世界は、自分を中心として動いている。他者や世界を「私」を抜きにして語ることができない。これをジコチュウ(自己中)と呼ぶ。しかし、他者や世界は、「私ではないもの」として在る。というのが前項の話であった。この他に、「私」を最初に置く主張と異なること(私中心ではないこと)を述べる言い方が2つあるという。

 

1.他者(たち)によって私が作られているから、私は他者を尊重する

確かに他者のお陰で、私は存在している。そして単に物質的な援助等々によって支えられているというだけでなく、他者の存在は、私が私として在ることができることの条件となっている

私は私一人で生存しているわけではない。なぜ衣食住が可能となっているか。それは衣食住の生産者がいて、取引によりそれを消費しているからである。一人で衣食住すべてを賄うことは出来ない。また私は一人でいることに耐えられない。孤独の状態が続けば、隔離実験で明らかなように、時間感覚が狂い、幻覚・幻聴といった症状が出る。人間は古代から集団生活を送ることで感情を進化させてきたので、恐れや不安、悲しみなどの感情を持った人間を誰も助けないと、自我が崩壊し始め知覚が狂ってしまう、という*3。つまり「他者の存在は、私が私として在ることができることの条件となっている」。

だが、第一に、少なくともある時には、他者は私の生存の必要条件ではなく、むしろそれを阻む存在である。今の私にとっては他者がいなくなることが私を生きさせることがある。第二に、私が作った(から私のものである)という議論を否定して、私は作られた、みんなに作られた(から私一人のものではない)、他人が私を形成してくれたから(その他者を大切にする)という具合に、わざわざ自己に回付する必要、自己を経由させる必要があるだろうか。他者から奪わないのは、他者によって私が存在しているから、他者に対して恩があるからだろうか。

第二点目。「他者の存在は、私が私として在ることができることの条件となっている」を、「他者(たち)によって私が作られている」と言い換えることもできる。しかし、それ故に、私は他者(たち)を尊重するのか。他者に対して恩があるから、他者から奪わないのだろうか。自己を経由せず、私中心にものごとを考えることをせず、端的に「他者」を人間として認めることが必要なのではないか。

 

2.他者との一体感

「近代社会」や「現代社会」における個人の「孤立」が語られ、それに対置されるものとして、隔たりの無さ、一体感、が持ち出される。「みんなのお陰で私が」と言う以前の「みんな」が取り出される。第5章で、あるものが他者としてあることと私がその近くにいることの間に結びつきがあるだろうことを述べる。そのことを「共感」という言葉で言って言えなくはない。また、他者との一体感自然との一体感というものが感じられうることも否定はしない。ただ、それにしても、少なくともそれは、私に他者が近づいてくることではない世界が私(たち)と同じものであるなら、私(たち)の一部としての世界の適宜な部分を捨てることもできる。「一体」は、一体の中の要素、部分を容易に捨て去ることにつながる。そしてまた、この同じという感覚の中にも、同じであるはずがなく実際同じでないものに、あるところで不思議に同じところがあることからくる快楽である部分があるはずであり、それはずるずるとどこまでも同じであることではないはずだ。だから他者が私にとって存在するということは、同じであること、同じであることの程度という階梯の中に、そのものを位置づけることではない

「同じ釜の飯」を食えば(他者と共同で何ごとかを為せば)、他者との一体感が醸成される。だがそれは、私が他者と「同じであること」を意味しない。この物言いには、「私」が欠かせない。しかし、そうではない。「同じ釜の飯」を食わない他者の存在を忘れてはならない。「私」のいない世界があり、「他者」がいる。

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https://withnews.jp/article/f0181208001qq000000000000000W08110101qq000018461A

 

そしてそれ以前にまず、世界は、滑らかな・調和した一体といった世界であるのか。また、そういう世界が望ましい世界なのか。仮に、それもまた心地の良い世界ではあるとしよう。ただ、少なくも明らかなことは、本来世界はそうであって、問題は世界がそうでないことであるという物言いが、異物に否応なく取り囲まれている現実を消去してしまうものであり、その現実から受け取る私たちの苦痛、苦痛と同時に快楽を消去してしまうものであることである。

これは賛成できない。「~消去してしまう」と言うが、なぜ消去してしまうことになるのか。理想と現実を対比し、理想に近づけようとすることは当然ではないか。

例えば、二元論に一元論を対置するという言い方がある。主体と客体、その他いろいろの、とにかく区別されているものが、実は一緒なんだよという類の思考がある。

よく覚えていないが、「実は一緒なんだよ」という話をどこかで聞いたことがあるような気がする。それはレトリックだったように思う。

私たちの現実はそうではないし、仮にある種の前提を置き、一定の手続きを経てそのような一元性の場への論理的な還元が可能であるとして、あるいは「修行」を積んだ上での到達が可能であるとして、そのように還元された場にしか本来の何かはないと何故言わなければならないのか。その理由はない。還元が可能であり、それによりそういう場に到達すること、そういう場を想定することが可能であることは、それ自体で、それが何かより本来的であったり、より望ましいものであることを意味することはない。他者があるという経験は、何かの手前にあるのではなくて、現実の、表層の、そこにある。

一元性の場へ論理的な還元をし、そこにしか「本来の何か」はない、という時、それはレトリックであって、「本来の何か」を言いたいがために、一元化してみせただけにすぎないのではないか。

「他者がある」という経験は、本来の何かを持ち出さなくても、「現実の、表層の、そこに」あると言っておくだけでよいのではないか、というのが立岩の言いたいことだろうか。

*1:「自己意識」がどういうものか、ここでは詮索しない。

*2:ここで「独我論」を論じるつもりはない。

*3:究極の孤独状態が人を狂わすのはなぜなのか?(https://gigazine.net/news/20140815-isolation-drive-people-crazy-reason/)参照。