浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「反相対主義」について

富田恭彦「哲学の最前線 ハ-バードより愛をこめて」(2)

前回の記事(「誇張された差異、先入見、観察の理論負荷性」)の最後に、次のように書いた。

興味深いのは、この「観察の理論負荷性」が、次のように拡張されるかもしれないということである。

観察ですらそうだとしたら、自分たちの考え抜きに、人の考えや発言を理解するということは、やはりありえないと考えた方がどうもよさそうだ。

どうなんだろうか?

 

自分勝手な(不当な)解釈をしているのではないか?

繰り返すと、

人の発言や考えを理解しようとするとき、われわれ自身の考えとか知識とかものの見方とかいったものに頼らなければならない。そうすると、その限りにおいて、どんな理解も自分たちの勝手な理解ということになるのか?

「人の発言や考えを理解しようとするとき、われわれ自身の考えとか知識とかものの見方とかいったものに頼らなければならない」というのは確かなこと(当然)だと思うが、だからと言って「勝手な理解」とか「自分の考えを持ちこんでいる」と言うことにはならない(はず)。

ところが、日常のコミュニケーションの場面を振り返ってみると、「私は、そういうことを言ってない。曲解するなよ。きめつけないで欲しい。」と思うことが良くある。なので、人の発言や考えを理解するというのは、「勝手な理解」であることを免れないのかな、とも思う。他人の話を聞く、文章を読む、いずれも「勝手な理解」であることを免れないのかもしれない、とも思う。

富田はこう述べている。

自分の考えを理解に持ち込むことから理解の不当性が必然的に帰結するわけではない。そうして行われる理解が、その内部で整合的かどうか、あるいは他のすでに知られていることと辻褄が合うかどうかが問題になったときに、ある場合には不当な理解、不当な解釈となり、別の場合には、とりあえず現行の理解のままで良い、ということになる。

私は、ある事柄をAと言う。相手は、私のことを「Aなどと馬鹿なことを言っている。話にならない。」という。私は、「Pという前提で」Aと言っているのに、相手はそれがわかっていない。私は、その前提は当然だと思い、省略して話さない(書かない)のであるが、相手はそういう前提に思いが及ばず、決めつける。そういう相手には、丁寧に前提を話す(書く)ことが必要なのであるが、相手のレベルがわからないとつい省略してしまう。相手は、私のことを馬鹿だと思っているようだが、私は逆に相手のことを馬鹿だと思ってしまう。…相手は、自分の知識や考えで私の考えを理解し評価しているわけだが、Pという前提が相手の知識にあれば、私を誤解することはない。私の意見を「勝手に」解釈することはない。…ここでは「前提」の例をあげたが、これは「状況の変化」の場合もあるだろう。私は以前には、ある事柄をBと言っていた。しかし今はAという。相手は「おかしい。矛盾している。」といって私を非難するが、相手は「状況の変化を考慮していない」。先ほどの前提と同じように、私は「状況の変化」を説明しなければならない。相手に「状況の変化」の理解があれば、私の意見を「勝手に」解釈することはない。…私が、ある事柄をAと言っているのは、別の事柄Mが起こっているからである。相手は、その別の事柄Mを考慮していない。相手に、別の事柄が発生していることの理解があれば、私の意見を「勝手に」解釈することはない。…他にもあるかもしれない。このように、私が、ある事柄をAと言うとき、それ単独でAと言っているのではない。このことがわかれば、相手は不当な理解・不当な解釈をしないだろう。

ところが、私が、ある事柄をAと言うとき、私の過去の経験すべて、言葉では表現しがたい経験すべてをもとにして、Aということがある。他人はもとより、自分でもよくわからない経験をもとにAというとき、相手は私を理解できないだろうし、不当な理解をしているかもしれない。これはすべての言説、表現において言えることかもしれない。

 

「反相対主義」について

文化によって、人によって、まったく異なるものの見方がなされているということがあるのではないか。もしかしたら、今自分たちが正しいと思っているものも、自分たちだからそうなんで、それは別の文化や別の人にとっては正しくないかもしれない。あるいは文化によって、すごく異なる世界の見方がなされていることってあるのではないか。そうすると、そうした異なるものの見方を持っている文化どうしで、本当に理解しあうことなどないのではないか。そういう考え方が、相対主義の一種として言われてきた。

「文化によって、世界の見方が異なる」「東洋と西洋とでは、考え方が異なる」「中国人は何を考えているのかよくわからない」などと言う。そして、異文化を排斥したり、あるいはそれぞれの文化を尊重して共存しようと言ったりする。この相対主義の考え方は、「文化によって、人によって、ものの見方が異なる」ということを認める。しかし、

そのような相対主義の立場を支持した人の多くが実例として持ち出したのは、「誇張された差異」の事例だった。確かに、ある点で際立って異なる考え方をする文化というものはあるわけだが、それが際立つということは、背後に広範な共通部分があるということでもある。

「誇張された差異」は、言い換えれば「背後に広範な共通部分がある」ということである。ここは非常に大事なところで、何度でも強調しなければならない。男と女は違う。しかし、それは「誇張された差異」である。同じ人間であるという広範な共通部分がある。人種の違いも同じことである。肌の色は「誇張された差異」である。「思想」の違い、「宗教」の違いでさえ、「誇張された差異」のように思える。「広範な共通部分」を互いに了解しあえれば、「誇張された差異」で争うことはない。もちろん、このことは「同一化」するということではない。「差異」は適切に認めなければならない。…相対主義については、今後取り上げたいテーマの一つである。