浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

オートポイエーシス(自己組織化)理論

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(42)

今回は、第4章 機械としての生命 第4節 さまざまな力学系モデル の続き、「自分以外のシステムがオートポイエーシス・システムだとどうして分かるのか」(p.224~)である。

私が見ているものが、単に心が作り出した夢なのか、外的世界についての知覚なのかを、私の視点から区別することはできない。こうした類の議論は、近代経験論哲学とともに古くからなされてきたが、突き詰めると「存在とは知覚である」というバークリ的な観念論に至る。世界はまさしく私による知覚と一致するということであり、「私の心」は空間の隅々まで浸透し広がっているということである。

バークリ観念論は、いずれとりあげたい。

このように、「私の心」というシステムの視点に立ってみると、システムの外部は存在せず、しかし同時にシステムはシステム自身とシステムでないものを区分するというあり方をしている。それはよいのだが、問題は、どうして「私」以外の生命がこうしたものだと言えるのかということである。

山口は<「私の心」というシステム>と述べているが、これまで「私の心」についての言及はなかったように思う。が、ともかく「私の心」なるものがあり、それがシステムだとしておこう。だとすれば、<「私の心」というシステムの視点に立ってみると、システムの外部は存在せず、しかし同時にシステムはシステム自身とシステムでないものを区分するというあり方をしている>と言えなくもないと思うが、私には、「私」以外の生命のみならず、「私」という生命についても問題だと思う。

マトゥラーナも河本も、神経システムが知覚を生みだすシステムである(あるいは「私の心」を作り出すシステムである)ということを前提としているようだが、そもそもそうした解釈は、神経系を研究する観察者が作り出したものである。神経システムを構成する個々の神経細胞がなしていることを物理的に記述するなら、隣の神経細胞の放電(発火)を受けて自らも放電することだけだ。そうした電気的反応が、「私の心」とどのように対応しているのか、あるいはそもそも対応しているのかといった点については、現代の脳科学をもってしてもよく分からないと言うほかない。逆に、我々自身の心のあり方を振り返ってみれば明らかなように、「私の心」が何かを感じたり考えたりしているときに、「私の心」は神経システムがどのような作動をしているのかを決して意識しない。つまり本来、神経システムと「私の心」というシステムとは別のシステムであって、神経システムが知覚を生みだすシステムだとは一概には言えないということである。

脳の物理・化学的反応(神経システム)=「私の心」であるという論拠が明確でない限り、脳の物理科学的反応(神経システム)が「私の心」というシステム(そのようなものがあるとして)とは別のシステムであると言えよう。

 

Dancing Fluorescent Droplets

https://www.beautifulchemistry.net/reaction

化学反応の美麗なムービーや美しい化学構造を集めて化学の「美」を伝える「Beautiful Chemistry」 https://gigazine.net/news/20141003-beautiful-structures/

 

にもかかわらず我々は、神経システムが「心を生みだすシステム」だと解釈するからこそ、その電気的反応を理解することができる。そうした解釈枠組みを抜きにして、純粋に物理的な現象そして神経システムの作動を記述するだけなら、神経システムが一体何をしているのか、そもそもそれがシステムをなしているのかどうかといったことさえも見失われてしまうだろう。

物理・化学的反応のイメージとして、上記beautifulchemistry.netの動画を参照しよう。

神経システムが物理・化学的反応の一種だとして、そこに「心」を見出すことができるだろうか。…できる! 何故なら、「解釈」すればよいからである。では、そのように解釈することによって、何がどうなるのか? 「心」とは何なのか?

私は「心」という言葉より、「意識」という言葉を使いたいのだが、「意識」の問題は「謎」である。*1

細胞の働きを単に「物理学的な力や原理」によってのみ記述するならば、細胞とは細胞膜や核、各種の細胞内小器官や高分子(核酸やタンパク質や糖や脂質)を生みだす一連の循環的な化学反応系である。…こうした反応系を純粋に原子や分子の運動として考えるなら、細胞膜の内と外も膜自身もすべてがつながっていて、切れ目などありはしない。そうした切れ目ない反応の連続の中から、ある一部分だけを「循環」*2として取り出してくることには客観的な根拠や必然性があるわけではない

オートポイエーシス・システムとは、「自らの構成素を絶えず生みだし続ける循環的なシステム」(p.221)ということであったが、ある一部分を「循環」として取り出すことは、「切れ目」を入れる、「解釈」するということなのだろう。

この世界には循環的な産出関係をなすものが様々なレベルで存在している。そうした多様な循環の内で、どれが「ひとまとまりのシステム」であるか、さらにその中でもどれが「生命システム」と呼ぶにふさわしいものであるかを、循環そのものによって、いかにして決めることができるのかは定かではないということである。

前回示した「台風」の画像や今回の「蛍光液滴」の画像は、「循環」や「ひとまとまりのシステム」のイメージとしてあげたのだが、それは「あるもの(素粒子)の生成と消滅、集合と離散」と見ることもできる。それを「生命(システム)」と解釈することもできるかもしれないが、飛躍があるような気がする。どこを飛び越えたかと言えば、「意識」の問題である。「意識」の解明無くして、「生命」は論じられないと思われる。

*1:「意識のハード・プロブレム」(Wikipedia)参照。

*2:循環については、オートポイエーシス、流体のスナップショット(2023/6/14)、Zをプログラムと呼ぶ観測者(2022/4/20)参照。