浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「たんなる作文」と「論理的な文章」

野矢茂樹『新版 論理トレーニング』(15)

今回は、最終章の 第11章 論文を書く である。

野矢は「論文」すなわち「論理的な文章」とは次のようなものではないと述べている。

論文とは、「あるテーマについて、自分の考えを、あるまとまりをもった明快な叙述で表現すること」ではない。

明快な叙述や的確な構成といった表現上の巧拙は、論文の本質ではない。それは良い論文と悪い論文を分けるひとつの重要な基準ではある。しかし、論文と論文でないものとを分ける基準ではない。

「明快な叙述や的確な構成」は、表現上のテクニックであって、論理的な文章であるか否かを区分する基準ではない、という。(野矢は、論理的でない文章を「たんなる作文」と呼んでいる)。

「文」だけでなく「話」についても同様だろう。論理的な話であるか否かを区分する基準は何か? ちなみに、「論文」という言葉があるなら、「論話」という言葉があっても良さそうな…。「議論」「対話」は、「論話」でなければならない。(雑談やおしゃべりとは違う)

世の中に見られる文章の多くは埋草的文章である。

埋草(うめくさ)とは

1 空いたところや、欠けた部分を埋め補うもの。雑誌・新聞などの余白を埋めるために使う短い記事。「埋め草原稿」

2 城攻めのとき、堀や溝を埋めるために用いる草やその他の雑物。(デジタル大辞泉)

埋草的文章とは、所定のスペースを埋めるための(本筋とはあまり関係のない)付加的な文章である。「話」の場合は、所定の時間を埋めるための(本筋とはあまり関係のない)付加的な話である。

「世の中に見られる文章の多くは埋草的文章である」というのは、非論理的な「決めつけ」と「装飾」の文章であるということだろう。

るということだろう。

小論文試験の弊害は、「なぜそれを言いたいのか」という動機を持たないまま、書いてしまうということである。言いたいことがあるから書く、というのは一面の真理であるが、なぜ自分がそれを言いたいのかを自覚しなければならない。

野矢は「小論文試験」と言っているが、新聞、雑誌、書籍、WEB記事、TVニュース等においても、一定程度あてはまると思われる。(逆に、何を言いたいのかを隠して、客観性を装う場合もある)。

何故ある事柄を言いたくなるのだろうか。論文という脈絡におけるその最も大きな動機は、異なる意見があるからである。全員が自分と同意見ならば、それについては主張する動機を持たない。あるいは、自分と同意見の人しか読者に想定しないならば、主張する動機は失われる。自分と異なる意見の人が想定され、その人に向けて、その人と異なる自分の主張を展開する。これが何ごとかを主張することの基本にある。論文を書くということのトレーニングの第一歩は、なによりもまずこうした自分と異なる他者への感受性を開くことにほかならない。

自分と異なる意見、聞けるかな?(霧島市立国分小学校ブログ)

小学校4年生の道徳の時間(https://blog.canpan.info/kokubusho/archive/744

 

「自分と異なる意見の人がいること」を認めること。世の中には、これを認められない人がいる。自分の考えが絶対に正しく、他者の意見に聞く耳を持たない。こういう人たちには「論理的な」文章や話は通じない。では、どう対処すべきか。それは本書の対象外の問題である。

論理的な文章や話は、自分と異なる意見の論理的な文章や話が通じる人に向けて、自分の主張を展開することである。(義務教育を終えた人なら、論理的な文章や話が通じるはずだが…)。

[自分の主張が]、「何であるか」を一方的に叙述しているだけでは、それが実際に何であるかも明確にはならない。主張の輪郭をはっきりさせるためには、それが「何でないのか」もある程度書かねばならない。他の主張との対比においてははじめて、主張はその意味内容を明示し得るのである。

ポイント1 自分の言いたいことが何でないのかを明確にする。

この指摘は重要であると思う。ある論理的な文章が、「自分の主張が何でないのか」を書いているかどうか、ある論理的な話が、「自分の主張が何でないのか」を話しているかどうか。

もちろん「何(A)である」は、「何(B)でない」とイコールではない。AとBが近接している、あるいは重なっている場合には、特に重要だろう。

何について書くかが決まっただけでは、まだ論文の出発点に至っていない。論文とは、単にあるテーマについて書くものではない。あるテーマのもとで問題を見出し、その問題を巡って書くこと。それゆえ最初の目標は、まずそのテーマのもとで問題を見出すことにある。

例えば、

何の問題も見出せないままに自然保護について思うところを書くと、例えば、いかに自然破壊が進んでいるかを訴え、次にどれほど我々が自然保護に反したことを行っているかを指摘して、最後に「自然保護を進めていかねば人間自身の自殺行為ともなりかねない」とかなんとか結論して終わる、という何とも気のない「たんなる作文」が出来上がるだろう。(文末の※参照)

問題意識のない文章というのは全く面白くない。「虚しい正論をほとんど論証の構造をもたないままに並べ立て、最後に鼻白むような結論をとってつけて終わる」(p.166)ような「たんなる作文」を読むのは時間のムダである。

論文を書くということは、自分と異なる見方の可能性を、自分自身に向かって投げかけることに他ならない。

野矢は、「自然保護」というテーマを例にして述べている。

課題1…自然保護について論じよ

最初の目標…「自然保護」というテーマのもとで問題を見出す。

課題2…「自然保護は大切ではない」という趣旨の意見の可能性を想像してみよ。

課題3…「自然に人間の手を加えるな」という意見を支持するような論証の可能性を考えてみよ。

ポイント2 なぜそう言えるのかを書く。

このポイントは、第1のポイントに応じて少なくとも二重に適用される、という。

  1. 自分自身の言いたいことに関して論拠を示さなければならない。
  2. あなたの言いたいことではないことに関して、なぜそれが言えないと考えるのか、批判を書かなければならない。

以下、自然保護に関して、この2点の説明があるが省略する。

最後に「論文設計図」が示されている。

  1. 「自然保護」という概念の怪しさ=「人間が自然を保護する」という発想の危険性
  2. 人間が自然を保護するという発想を完全否定するものとしての「自然保護反対論」=人間は手を引け、自然の自浄作用にまかせよ。…この意味での「自然保護反対論」の行き過ぎ
  3. 自然保護反対論の正しさ=人間が自然を治すという考え方の危険性→むしろ人間は人間の活動を監視し、規制しなければならない=「自然破壊防止運動」
  4. 結論:「自然を保護する」という態度から、むしろ「人間の活動を規制する」という態度への転換

 

今回で、野矢茂樹『新版 論理トレーニング』の読書ノートを終了する。

 

※ この箇所に対する門脇俊介の意見と野矢の応答がある(注104)。

自然保護のような問題に関しては、誰もが分かっているはずの正論を、凡庸を承知で繰り返し発言しなければならない、というのである。これを聞いて私は、いささか調子に乗って書いていた私の叙述を恥じた。つまり「たんなる作文=気のないもの」という図式は適当ではない。気合の入ったたんなる作文もあるし、あるべきなのである。ただ、本文の叙述との関連で言えば、それはやはり「論文」ではない。誰もが分かっているはずの正論がどうして浸透しないのかという「問題」を巡って考察するならば、それは論文となるだろう。しかし、その正論をそのままに繰り返すのであれば、それは論文ではなく、シュプレヒコール[スローガンの連呼]である。

「反戦平和」というような「誰もが分かっているはずの正論を、凡庸を承知で繰り返し発言しなければならない」というのはその通りだと思う。但し、その発言には「論拠」や「批判」が含まれなければならない。であれば「シュプレヒコール」ではなく「論文」となるだろう。「正論がどうして浸透しないのか」というのは別の重要問題である。