浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

とりあえず、今われわれが良しとするものから出発する

富田恭彦「哲学の最前線 ハ-バードより愛をこめて」(完)

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ジョゼフ・フルーリの『ヴァティカンの宗教裁判所に引き出されたガリレオ』(1846)

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「太陽は東からのぼり、西に沈む」…なぜか、答えられますか?

太陽は、毎朝必ず東から上り、夕方西へ沈んでいきます。太陽だけではありません。夜空を観察していると、月も星も同じように東から出て西へ沈んでいくことがわかります。これは日周運動といって、地球が西から東へ 1日に1回自転しているためにおこります。太陽や月や星が動いているのではなく、地球のほうがまわっているためにそのように見えるのです。

ところで、星も東から出て西に沈むといいましたが、なかには沈むことのけっしてない星もあります。地球は北極と南極を結んだ軸、地軸のまわりをまわっています。地軸を北にずっとのばした方向にある星が北極星です。北極星北極星の近くの星は、いくらまわっても地平線まで下がることはありません。このような星を周極星といいます。

 https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/earth/earth04.html

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国立科学博物館の「宇宙の質問箱」では、上のように解答している。

学校でもたぶんこのように教えていると思う。子どもたちはこれで納得するだろうか。子どもに「科学者」になって欲しいと思うのならば、これで納得しないように教える必要があるのではないかと思う。

この解答では「太陽」「東」「西」「月」「星」「地球」「自転」等の言葉が使われている。この言葉の意味がわからないと、この解答は理解できないだろう。

では、例えば「東」とは何ですか、と問われたら、何と答えるか。一つの答えは「太陽の出る方角」であるが、先の答えは「太陽は、毎朝必ず東から上り…」であった。このように循環させないとしたら、どう説明すべきか?

しかしまあこれは良いとしよう。私がこの解答で一番ひっかかるのは、「地球が西から東へ 1日に1回自転している」という部分である。どうしてそんなことが言えるのか? 自転している証拠はあるのか? Wikipediaは、次のように説明している。

地球の自転の証拠…地球の自転の系では、自由に動く物体は、固定系から見かけの経路に従っているように見える。このコリオリ力のため、落下する物体は垂直よりも東方向に曲がって落ち、北半球では発射物は右に曲がって進む。北半球と南半球で台風の回転の方向が異なる等、気象学等の様々な分野でもコリオリ力は表れる。1679年にアイザック・ニュートンからの提案を受け、ロバート・フックは8.2mの高さから落とした物体は東の方向に0.5mm曲がると予測したが、上手くいかなかった。しかし、18世紀末から19世紀初めにかけて、ボローニャのジョヴァンニ・バッティスタ・グリエルミニ、ハンブルクのヨハン・ベンツェンベルク、フライベルクのフェルディナント・ライヒらが高い塔から慎重に重りを落として確証的な証拠が得られた。

「高い塔から慎重に重りを落として確証的な証拠が得られた」と言うが、その実験は何も問題はなかったのか? 「高い塔」というが、どれ位の高さなのか? 「慎重に」というが、どういうふうに落としたのか? 風は吹いていたのか? 計測は正確だったのか? 計測器の精度は? 何回実験したのか? 統計的に有意なのか? あなたはそれを論文で知ったのか? その論文は捏造されていなかったか? …ひとつの説明があるたびに、無数に質問が続く。

 

富田の話を聞こう。

地動説が正解で、天動説は正解ではない。何故そう言えるのか。それはつまり、そう考えるべき理由を、とりあえず、我々は手にしているからである。…我々は既に何らかの考えを持って生きている。何らかの考えを正しいものと信じている。その考えに基づいて、何が正しいか、何が正しくないかを判断している。

天動説ではなく地動説がなぜ正しいと言えるのか。学校の先生がそう言ったから。学校の先生はなぜそう言うのか。科学者がそう言ったから。科学者はなぜそう言うのか。実験による証拠に基づいてそう言っている。その実験は間違いがなく、結果の評価に誤りはないのか。他の科学者によって、間違いや誤りを指摘されていない。…これが「そう考えるべき理由を、とりあえず、我々は手にしている」ということだろう。

これがローティ(1931-2007)の言う意味での自文化中心主義である。自分の文化、自分の民族の考えこそが正しいとするものではない。それは単に、われわれはいま自分たちが良しとするものを、さしあたっては良しとするしかないという立場である。…とりあえず今われわれが良しとするものから出発するしかない。このあまりにも素朴に見えるローティ的な意味での自文化中心主義を肯定できるかどうかが、いかに生きるかを考える場合の核心をなす。

自文化中心主義という言葉に拘らずに、先にいこう。

自分たちはとりあえず、こう考えるのが正しいと思う。だけど、それは本当にそうなのか。絶対に正しいと言えるのか。…そこで、自分たちが正しいと思うことでとりあえずやっていくというのでは不安になる。問題が深刻であればあるほどそうだ。そうすると、どういうことになるのか?

あきらめ気分になるか、それとも、何か絶対に正しい、絶対に確かなものを求めることになる。西洋の歴史を見ると、なんらかの絶対に確かなものを求めようとする試みが、繰り返し行われたことがわかる。…われわれの判断は、そのような絶対に確かなものに基づかなければならない、という考え。

 しかし、そのような絶対に正しい知識、絶対に正しい指針を得ることができるのか。

われわれは具体的状況の中で生きている。だから、その様々な具体的状況の一つ一つに当てはまるような絶対に正しい知識とか指針とかが与えられなければならないとしたら、それはあらゆるケースについてこと細かく規定されたものでなければならない。ところが、具体的状況というのは、無限の可能性がある。だから、そんなふうなものとして、絶対的知識とか絶対的指針とかいったものを得るってことはありえない。

そもそも、これが絶対的知識だとして何かが与えられても、解釈学なんかで言うように、それを解釈するには自分の今の知識とか信念とかを投入して整合的な結論を出そうとするしかない

 

科学主義とはなにか?

科学主義にもいろいろあるが、今問題なのは、「科学というのは絶対だ。なぜなら科学こそがこの世界の真の在り方をあるがままに捉えているからだ」という考えである。

ローティは、このような科学観を、ある宗教的なものの見方の焼き直しだと考えている。ここで宗教的なものの見方とは、人間集団に対して神が絶対的立場に立ち、神の声を忠実に受け取るのが人間の務めというもの。神と人間集団、この二つの関係で人間の義務を考えようとするもので、その人間集団の中が二つに分かれる。一つは、特権的な立場にある者(聖職者)たち。これはなぜ特権的かというと、神の声、神の言葉を直接聞き、理解する立場にあるからである。もう一つの人間集団は、その特権的な立場にある人たちから、神の言葉を受け取る、普通の人たち。

こうした中世的図式の基本線を維持しながらその要素を入れ替えてできるのが、近代の科学主義的な見方だとローティは考える。つまり神の代わりに自然が、人間集団に対置され、自然のあるがままを忠実に受け取るのが人間の務めとなるわけだ。そして、聖職者に代わって、科学者が特権的地位を占めることになる。自然のあるがままを科学者が捉え、他の人々は科学者から自然の在りようを教わる。

 

確かに、科学者は特権的地位を占めているように見える。授権のありかたに問題があるとしても、科学者の知的営為にわれわれの社会は依存しているように見える。

しかし科学者は、さまざまな物の見方、理論を投入する形で自然の在りようを探る。…世界を捉えるのに、数学的な処理法を用いると、興味深い結果がいろいろ出てくる。それで、その結果を投影する形で、世界がそもそも数学的な法則の下にあったんだと信じられるようになる。…世界とか自然とかいったものの「あるがまま」を忠実に受け取る()と言ったような仕方で、科学者は自然を研究しているわけではない

ローティは自然の鏡のごときものとして人間を見ようとする態度を、西洋思想の根幹に認めようとする。それはつまり、人間がすがるべき何らかの、人間とは独立に定まったものを手に入れようとするもので、それはまた、人間の勝手な思いでは困る。なにか絶対的に正しいものを手に入れなければ、という切実な思いでもある。しかしローティは、今やわれわれはそのような思いと訣別しなければならないという。

哲学とはなにか絶対的な真理を見つけてくれるのではないかと思っていた人たちにとっては、そうした期待を捨てるべきではないかというローティの主張は、とんでもないものに映る。

 

自文化中心主義と相対主義

ローティは、とりあえず自分たちが正しいと思うことから出発して、具合が悪ければ取り替えてとみるという立場を、自文化中心主義と呼ぶ。この立場は、何が正しいかは文化によって違うとするもの、つまり文化によって真理が相対的であるというものであるかどうか。

富田はこう書いている。

一見ローティの自文化中心主義は、相対主義を許すものに見える。だけど、本当はそうではない。相対的であっても良いようなものと、そうであっては困るようなものとを区別しておく必要がある。

ローティの場合、相対的であっては困るような話題に関しては、決して人は人、自分は自分にはならない。

あの鏡的人間観においては、人がどう考えようとそれとは関わりなく、それ自体として定まっている真理を映すことが、人間の務めとされた。そうした、人々の考えとは無関係に成り立っていると思われる真理を追求する態度、これをローティは「客観性」を求めるもの(客観性志向)という。

 客観性志向から連帯志向へ

ローティは、われわれの考えとは独立に真理は決まっていて、それを手にし、それに従って生きていくのが人間の務めという考えを、幻想ではないかと考える。これに対して、共に生きたいと思う者どうしで、意見を交換し合って、何をとりあえず良しとするかを考え、それに従って生きていく。これがローティの連帯志向である。(以上、第3章)

あなたは、絶対的真理を探し求めるか。絶対的真理を説く聖職者や科学者の言を信仰するか。

それとも、共に生きたいと思う者どうしで、「私はこう思うが、どうだろうか」と意見を交換しながら、「とりあえず良し」とするものを定め、それに従って生きていく、という途を選ぶか?