気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

「愚かな選好」と「選好のソムリエ」

児玉聡『功利主義入門』(6)

前回(あなたは「衣食住」が満たされれば幸せですか?)は「適応的選好」の話であったが、今回は「愚かな選好」の話である。

なお、「選好(preference)」という言葉であるが、

「選好が充足される」とは、平たく言えば、「望みがかなう」ということだ。そこで幸福を「選好充足」によって理解するとすれば、功利主義的に正しい行為とは、人々の選好や欲求を最大限に充足させる行為になる。この立場を「選好功利主義」という。

現在は、自動車運転時のシートベルト着用は当たり前になっているが、導入当初は「面倒くさい、窮屈だ」として着用しない者が非常に多かった。しかし悲惨な交通事故防止のため、罰則付きで着用が義務付けられるようになってきた。

 1969年(昭和44年)4月1日 : 運転席にシートベルトの設置義務付け。

 1975年(昭和50年)4月1日 : 後部座席にシートベルトの設置義務付け。

 1992年(平成04年)11月1日 : 一般道での運転席・助手席でのシートベルト着用義務化。

 2008年(平成20年)6月1日 : 後部座席でもシートベルト着用義務化。

シートベルト着用を、「設置義務付け」から「着用義務付け」までの間の、「選好充足問題」として考えてみよう。

A.「面倒くさいからシートベルトを締めない」という選択

B.「事故が起きた場合に悲惨なことにならないようにシートベルトを締める」という選択

・Aを選んで現に持っている選好を満たすことは、必ずしも当人の幸福にはつながらないかもしれない。

・Bを選ぶと、当人の幸福にはつながるかもしれないが、実際には抱かれていない選好を満たすことになる

・Bは、「われわれが現に持つ選好を充足する」という元々の発想とは異なる。

・Bは、選好充足に一種の合理性の条件を入れる発想と見ることができる。「一定の教育や情報を受けた場合に持つであろう合理的な選好」を充足することがわれわれの幸福につながるという考え方である。

この「合理的な選好」には2つ問題がある、と児玉は言う。

1)自分が何を幸福と考えているかに関わらず、「これがあなたの幸福になるんだから」と外部から押し付けるパターナリスティックな理論になる危険がある。いわば、「選好のソムリエ」のような人に、人生を決められてしまうことになりかねない。

2)「あなたが合理的だったら持つであろう選好を充足する」という考えは、われわれが現に持つ選好を充足するという元々の発想からは遠く離れてしまっているため、もはや選好という言葉を使う必要すらない。この立場では、個人が現に抱く選好のことは考慮せずに、客観的な「幸福になるために必要なことのリスト」を作って、それを充たすというので十分なはずである。

 パターナリズムについては、2015/5/9 「公共性の再定義」でもふれている(そこでは、パターナリズムの「あんよ紐」という言い方を紹介した)。児玉は「選好のソムリエ」と言っている。なかなかうまい言い方をするものだ。

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http://velkoldin.livejournal.com/368388.html

一定の教育や情報を受けた場合に持つであろう合理的な選好…シートベルトの例では、「一定の教育や情報」で、着用は合理的な選好になるとは思うが、一般的に「一定の教育や情報」で「合理的な選好」になるかどうかは、微妙であると思う。

自分が現に持つ選好ではない「合理的な選好」の充足は、「客観的な幸福リスト」の充足と同じことになるだろう。児玉は次のように述べている。

当人が現に抱いている選好を充足することは、必ずしも幸福にはつながるわけではない。そこで、本人の利益やニーズを満たすことが幸福につながるという考え方が出てきても不思議ではない。この場合の利益やニーズは、本人の意思とは基本的に関わりなく、客観的に決まるものだとされる。この考え方に則るならば、功利主義者がすべきことは、諸個人の快楽や選好を充たすことではなく、諸個人の利益を最大化することになる。この立場は「厚生功利主義」と呼ばれることがある。

 

功利主義に関心のある人なら、「快楽や選好[幸福]の強さが本質的に個人的な経験であるために、その強さを測って比較することができない」(効用[幸福]の個人間比較ができない)ことは誰でも知っているだろう。いや、この程度のことなら、関心がなくても、常識的にわかる。児玉は言う。

この立場の大きな利点は、「効用の個人間比較」の問題を回避できることだ。…「本人の利益」というのは、本人がそれを現に選好するかどうかに関わらないため、こうした問題は生じない。…利益やニーズは、快苦や選好よりも客観的なものであり、人間である限り等しく幸福に役立つものと考えられる。そのため、選好や快苦につきまとう個人間比較の問題が回避できる。

それでは、この立場に問題はないのか。そんなことはない。

この立場の最大の問題は、人々の利益について真に客観的なリストを作るのが難しいということだ。快適な住居や食事、家族や友人、健康や自由や余暇というのは、おそらく誰にとっても当人の利益になると思われる。しかし、美的な経験はどうだろうか。オペラ鑑賞あるいは名画鑑賞は人々の幸福のために必要だろうか。また、政治参加はどうだろうか。…やりがいのある仕事はどうだろうか。…だが、政治参加ややりがいのある仕事までを利益のリストに入れると、合理的な選好の場合と同様、「これがあなたの幸福に必要なのだから」と外部から押し付けるような理論になってしまう危険がある。

利益のリストを作ることは難しい。では不利益のリストはどうか。

病気や貧困、戦争や飢餓などは、まず間違いなく誰の幸福にとってもマイナスだ。…幸福へのこうした障害を取り除くことを政府の主要な目標にする。…これは、「宗教的生活こそが人々の利益になる」と考えて最大幸福を主張するような人に比べれば、穏当な主張で皆が支持しやすいだろう。

これで問題解決なのか。

利益や不利益の客観的リストを作るという発想は、ある程度までは魅力的である。とはいえ、やはり幸福論としては次のような問題が残る。この立場[厚生功利主義不利益のリストを作るという立場?]は,個人が幸福になるための基盤を提供しているだけで、「幸福とは何か」という根本的な問題には答えていないように見えるのだ。言い換えると、健康や住居や安全など、誰にとっても幸福になるために必要なものがあり、それを過不足なくリスト化して提供しようというのがこの考え方であり、ではいったい幸福とは何なのかという最初の問いには、幸福に役立つ事柄のリストを作成した以上には答えていないことになる。(以上、第6章 幸福について)

次回は、現代の「選好のソムリエ」が選ぶワイン(政策)について少し考えてみることにしたい。