気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

クオリア(3) 知識論法

金杉武司『心の哲学入門』(6)

金杉は、「物的一元論」が誤りであることを論証しようとする議論に、「想定可能性論法」と「知識論法」があると言っている。今回は「知識論法」の話である。

まず、心の状態に関する事実を「心的事実」と呼び、物理的状態に関する事実を「物理的事実」と呼ぶことにする。物的一元論によれば、心の状態とは主体の何らかの物理的状態である。したがって、物的一元論によれば、すべての心的事実は何らかの物理的事実にほかならない

 

知識論法

ここで、吾郎というある科学者がいるとする。吾郎は手術によって生まれつき色覚が失われていたとする。それゆえ、吾郎は空の青さを見たことがない。しかし、吾郎はあらゆる自然科学に精通した天才的な科学者であり、物理的事実をすべて知っているとする。例えば、吾郎は、もし自分が青い空を見たとしたら(実際は見たことがないが)、自分がどのような物理的状態になるかといったことに関する事実も完全に知っているのである。

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ここで、吾郎が手術により色覚を回復させ、青い空をはじめて見たとしたらどうなるだろうか。吾郎は、「青のクオリアが意識に現れるとはどのようなことなのかはじめて知った!」と言うはずである。つまり、吾郎はそのとき、青のクオリアに関する心的事実をはじめて知ったのである。

 

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これは、物的一元論の主張に反して、すべての物理的事実を知っていても、すべての心的事実を知っているとは言えないということにほかならない。したがって、物理的事実に尽きない心的事実がある。それゆえ、物的一元論は誤りなのである。

金杉は、この知識論法を以下のようにまとめている。

前提1:物的一元論が正しいならば、すべての心的事実は何らかの物理的事実である。

前提2:吾郎は、すべての物理的事実を知っていたが、青い空を見てはじめて、青のクオリアが意識に現れるとはどのようなことかを知った。

結論1(前提2から):物理的事実ではない心的事実がある。

結論2(前提1と結論1から):物的一元論は誤りである。

この論証は、確かにおかしな気がする。

この論証は、前提2から結論1を導出してしまっている点に誤りがある。というのも、一般に、既に知っていた事実を、異なる仕方で認識するに至るという場合があり、その場合には、既に知っていた事実とは別の事実を知るに至ったことにはならないからである。

青い空を初めて見たとき、吾郎は新たな事実を知ったのではなく、既に知っていたある物理的事実を、これまでとは異なる仕方で認識するに至っただけであると考えることができる。つまり、吾郎は、青い空を見たときどのような物理的状態に(どのような脳状態に)なるかに関する物理的事実を、自然科学的な第三者的な知り方で既に知っていたが、その同一の物理的事実を「実際の体験を通して」という新しい仕方(実際にそれを体験するという知り方)で認識するに至ったということである。

それゆえ、吾郎が青い空を見てはじめて、青のクオリアが意識に現れるとはどのようなことかを知ったからといって、吾郎がそこで物理的事実とは異なる事実を知るに至ったということはできない。つまり、物理的事実ではない心的事実があると結論することはできない。それゆえ、知識論法で物的一元論を反駁することはできない。

 

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物的一元論の立場からのこの知識論法批判は成功しているのだろうか。

既に知っていた事実を、異なる仕方で認識しても、その場合には、既に知っていた事実とは別の事実を知ったことにはならない、というのはその通りだと思う。金杉はこれを説明するのに、「棒がある特定の長さを持っているという事実」に、メートル尺で測定するという知り方とヤード尺で測定するという知り方があるという例をあげている。しかし、この例えは、吾郎の青のクオリアに当てはまるだろうか。「色覚が正常な人が、青い空を見たときの脳状態」を、MRIで測定していたが、これをPETで測定しても別の事実を知ったことにはならない、と言うのならわかるが、「青い空を見たときの脳状態を、MRIで測定していたが、実際に青い空を体験して青のクオリアが意識に現れても、別の事実を知ったことにはならない」というのは無理があるのではないかと思われる。

そもそも、知識論法の主張は、「別の物理的事実がある」というのではなく、「PET等による測定で明らかになった脳の状態でもって、青のクオリア(感じ)が生じてくることを説明しきれないだろう。つまり物理的事実に尽きない心的事実がある」というものだろう。

「既に知っていた事実を、異なる仕方で認識する」というとき、この例では、「既に知っていた事実」とは、「青い空を見たとき、ある脳状態になるという物理的事実」である。そして「自然科学的な第三者的な知り方」とは、吾郎以外の誰かが「青い」と称する空を見たとき、MRIやPET等で脳の状態を見るということだろう。では「実際にそれを体験するという知り方」とは、どういう知り方だろうか。「青い空を見たとき、ある脳状態になるという物理的事実」を実際に体験するとはどういう知り方だろうか。それは吾郎以外の誰かが「青い」と称する空を、吾郎が実際に見てある感じを抱くということだろう。そこで、先ほどのMRI等で見た脳状態とクオリア(あの青い感じ)が同じものとされる。このとき、「吾郎が実際に体験したある感じ(クオリア)」を「物理的事実ではない心的事実」と言うのが知識論法の主張である。

私の読解力不足かもしれないが、どうも議論がかみあっていないように感じられる。簡単に言えば、クオリアを一方は「物理的事実ではない心的事実である」と言い、他方は「同じ物理的事実である」と、言葉を変えて言っているだけのように思われる。