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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

なぜわれわれは援助しないのか?

児玉聡『功利主義入門』(8)

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第7章「道徳心理学と功利主義」は、ルワンダの虐殺を扱った映画「ホテル・ルワンダ」の話から始まる。

主人公のポールは、高級ホテルの副支配人であり、ホテルを解放することで、一人でも多くの人を虐殺の危険から逃れさせようと苦心している。あるとき彼は、ルワンダの惨状を撮影に来た海外メディアのスタッフの一人に感謝して、次のように言う。「虐殺の現場を撮影してくれたことに感謝しています。世界の人々がこのニュース映像を見るでしょう。これこそ、人々に助けに来てもらうための唯一の方法なのです」。すると、そのスタッフは気の毒そうな顔をして、次のように答える。「おそらく、人々はこのニュース映像を見て、「おお神よ、なんてひどいことが起きているのだ」というだろうね。そしてまた夕ご飯を食べ始めるのさ

今日の世界には、飢えや病気に苦しむ大勢の人がいて、先進国に住むわれわれの多くは新聞やテレビの報道を通じてそのことを知っている。しかし多くの人はそれを知りつつ、このスタッフが指摘するように、何もしないしばしば、国内の困っている人に対してさえそうだ

われわれの多くは、このような状況について良心の痛みを感じることがあるだろう。ところが、実際のところわれわれの多くはほとんど何の援助もしない。それは何故なのだろうか。最大多数の最大幸福を信条とする功利主義者にとっては、この問いはとても重要だ。

 これはまさしく、私たちが日々経験していることである。世界には、苦難(貧困、飢え、病気、絶望等)に直面している人々が大勢いることを私たちは知っている。しかし、彼ら・彼女らが身内の人でなければ、私たちのほとんどは何もしない。なぜだろうか。私たちは、「多くの人々が幸福になる社会」を望んでいるのではなかったか。

児玉はどうすべきだと言っているか。児玉はそれに答える前に、私たちはなぜそのような行動をとる(援助も何もせず、夕ご飯を食べ始める)のかについて述べている。

われわれは決して聖人ではない。だが、目の前に困っている人がいれば可能な範囲で助けようとする。犬や猫などの動物を助けることもある。しかし、援助を必要とする人の数が増え、それが統計的な数になると、われわれはしばしば「心理的麻痺」(オレゴン大学心理学教授ポール・スロヴィックの言葉)に陥る。彼は、われわれが大規模な災害や虐殺に対してほとんど何も感じないのは、人間の心理には何か根本的な欠陥があるのではないかと考えたのだ。…スロヴィックの研究が示しているように、現実のわれわれは、統計上の不特定多数の人々よりも、特定の人の死に対してより心を動かされる。われわれは日本あるいは他の国で一人の子どもがネグレクト[育児放棄]で餓死したという記事を読んで大きく胸を痛める。…ユニセフの2008年の世界子供白書によれば、予防可能な病気などの原因で世界中の5歳以下の子どもが毎日26000人以上死んでいる。だが、この話を聞いても、われわれは一人の子どもが死んだと聞いた場合の26000倍どころか、一人の子どもが死んだ場合と同程度にさえ胸を痛めないのではないだろうか。まさにわれわれは、「群集を目にしても、私は決して助けようとしません。それが一人であれば、私は助けようとします

なぜ「心理的麻痺」が起きるのか。特定の人の命が問題になる事例では、われわれの共感に訴える力が大きいが、統計上の人命が問題になる事例では、われわれの共感に訴える力が弱い、というのがスロヴィックの考えであるという。

現在のわれわれにとって問題となるのは、現代の心理学や脳科学といった記述理論(人間はこう考え・行動するという人間の正確な記述を目指す)の知見に照らして、どういう規範理論(倫理学は、人間はこう考え・行動すべきだという当為を問題にする)を作るべきなのか、ということだ。

功利主義は道徳的思考における理性の役割を重視し、情動や感情を道徳の基礎とみなすことを拒否する。例えばベンタムは、彼以前の道徳理論を、好き嫌いの感情で判断する「共感と反感の原理」であると一括りにして退けた。ベンタムは、道徳においては感情よりも帰結の計算を行う理性の方が重要だと考えていた

しかし、今日の道徳心理学の研究が示唆するのは、道徳的思考における感情の役割はそう簡単には退けられないということだ。…大雑把に言えば、功利主義は理性を重視する合理主義的な規範理論であるのに対して、今日、心理学や脳科学などの記述理論が新しい人間理解として示しているには、われわれの行動の多くはわれわれが思うほど理性に基づいてはおらず、往々にして共感その他の情動的な反応に基づいているということだ。その人間理解が正しいとすると、われわれは道徳について考える際、理性だけでなく、必ずしも理性と一致しない感情の役割についても検討しなければ、十分な規範理論を作ることができないことになるだろう。

 

では、私たちはどうすれば苦難に直面している人に手を差し伸べようという気になるだろうか。児玉はこれを「援助義務に対する動機を生み出す方法」という言い方をし、3つの戦略を考えている。

1)直観的思考の強化戦略教育や文化の力によって海外援助に関する直観的思考を強化すること。しかし、われわれの共感は、70億人を超える人々が住むグローバル化されたこの世界の隅々に及ぶほど強いものではない。また、持続的に他人の境遇に共感し続けることも難しい。したがって、「共感能力を高めよ」という教えは、統計上の人命に対する共感能力の限界という壁に突き当たらざるを得ないと思われる。

2)共感能力の特性利用戦略…イメージ・キャラクターを採用したり、メディアによる生々しい映像に訴えたりすることにより、災害や虐殺に対する人々の関心や共感を呼び起こす。しかし、人々の生活を想像しにくい遠い国々よりも、想像しやすい自国や近隣諸国の災害の被災者が優先され、本当に援助が必要なところに関心が向かない可能性がある。またメディアが競って、死に瀕する子どもの姿などの扇情的なイメージを見せる恐れもある。問題を考えるきっかけづくりとしては有効だろうが、情報に対して批判的に考える習慣なしには、合理的思考によって支持される援助活動にはつながらない可能性がある。その意味で、メディア・リテラシー教育への目配りも必要である。

3)理性的思考の義務付け戦略…直観的思考よりも合理的思考を重視し、理性的な判断に従って行為することを自らに義務付ける。直観的思考を極力排除して、合理的思考で寄付先を決める。例えば、費用対効果が最も見込めるところに寄付する。しかし、道徳における合理的思考を発達させるためにどのような教育を施せば良いのかについて検討する必要がある。教育すれば誰もがこのような思考を身につけられるのかも問題になる。

また、直観的思考が合理的思考と一致していれば比較的安心できるが、直観的思考と異なる仕方で行動する場合は、判断を大きく過つ可能性がある。とはいえ、世界の飢餓に苦しむ人々を助けるためには、われわれは共感に基づく直観的思考を強化したり利用したりするだけでは恐らく十分ではない。例えわれわれ一人ひとりがソクラテスのようにはなれないとしても、倫理について合理的な思考をある程度まで陶冶することも重要になると思われる。

 

私たちはニュース映像を見て、「おお神よ、なんてひどいことが起きているのだ」という。そしてまた夕ご飯を食べ始める。この「心理的麻痺」(統計上の人は助けようとはせず、特定の人なら助ける)を治療するのに、3つの手だてが考えられる。これが児玉の本章での論旨だろう。

児玉は、人びとの苦難(貧困、飢え、病気、絶望等)に対していかに援助するかを考える際に、金銭的援助(寄付)を中心に置いているように思われる。(理性的思考の義務付け戦略の説明のなかで、理性的思考に基づいて援助活動をしている例として、ビル・ゲイツ夫妻の例をあげている)。

 

私はそれでは何ら問題の解決にはならないと考えている。火災の発生原因を究明して予防対策を考えるのではなく、被災義捐金をいかに集めようかと考えているだけでは、火災がなくなる(少なくなる)ことはない。同様に、苦難が生じてくる原因を究明し対策を取らなければ、いつまでたっても苦難はなくならない(少なくならない)。苦難に対する援助は、苦難をかかえた人に、カネをめぐみ与えることが中心となるべきではない苦難に対する援助は、苦難が生じてくる原因を究明し、それに対応した予防対策を講ずる施策に対してなされるべきである。

夕ご飯を食べたからといって、またテレビのスイッチを切ったからといって、決して「統計上の人は助けようとはしない」ということにはならない。事実を認定し、原因を究明し、対策案を立案し、合意を得て、対策を実施するには時間がかかる。お腹はすくし、虫歯も痛む。ご飯を食べたり、歯医者に行ったりしたら「統計上の人は助けようとはしない」ということになるのだろうか。ボランティアで現場にはせ参じたり、ビル・ゲイツ孫正義のように気前よく大金を寄付する人のみが、統計上の人を助けようとしている高貴で尊敬すべき人なのであろうか。そんなことはあるまい。

会社で死亡やケガなどの労災事故が発生すると原因が徹底究明され、対策が講じられる。同じような事故が二度と起こらないように手が打たれる。あたりまえの話だろう。同じように、社会で苦難(貧困、飢え、病気、絶望等)にあえぐ人がいるならば、原因を徹底究明し、対策を講じるのはあたりまえの話ではないか。こうみてくれば、現実に国内ではいろいろな社会保障政策が講じられているし、海外援助もしているし、国連での活動もしているのだから、それら具体的な政策内容の是非を論ずることが重要なのであり、「援助義務に対する動機を生み出す」ことを強調することは、いささか的外れではないかとも思われる。…苦難の原因がどれだけ徹底的に究明され、どれだけ有効な対策が打ち出されているかが、具体的に検討されなければならない。理性とか感情とか、そういう抽象的用語で一般論を語っても、何も進展しないような気がする。