大岡は、イヴ・クライン(1928-1962)についてこう述べている。
イヴ・クラインは「単色者イヴ・クライン」とみずから名乗って、明確な物質感に裏付けられた、線や形の枠をもたない青や金一色の世界、無限の眩惑に包まれた「色をもつ物質」の世界に立ち戻ろうとした。絵画というものを画家自身の自己表現だとする考えを否定し、モノクロームという「絵画のもつ無限の可能性」の、神秘で豊饒な世界へ「身を投ずる」この行き方は、アンフォルメル絵画やアクション・ペインティングにおいて不断に問題となる、「瞬間」というものの電荷を最大限に拡充してやろうという、ロマンティックな衝動を秘めていたと私には考えられる。
http://www.yveskleinarchives.org/works/works1_us.html
サム・フランシス(1923-1994)について
サム・フランシスと話していたときのことだ。「作品」すなわちペインティングと、「デッサン」すなわちドローイングの区別をどう考えるかと私がたずねたのに対して、彼は次のように答えた。「第一には空間のつかみ方が全然違うということがあるね。しかし、何よりもまず、意図がまったく違う。というより、ドローイングはすなわち意図にほかならないのに対し、ペインティングには意図がないのだ。ドローイングするときには、あらかじめ意図したことを実現するという意識がつねに目覚めている。だから、多かれ少なかれ頭脳的だ。ところがペインティングにおいては、おれは丸ごと絵の中にまきこまれてしまう。一種の盲目状態になって、体全体で描く。だから、ペインティングはきわめて肉体的なものなんだ。」
この会話をかわしたのは1964年の秋である。その後1971年秋、東京でまた私は彼と似たような話題について話していた。そのとき彼は、自分の絵の新しい変化の予感を語りながら、「原型的なもの」*1への関心を注意深く口にした。「盲目状態」で描くと言っていた画家の中に生じたこのような変化は、一人の画家の中に当然生じる思想的な足どりの深化発展を反映したものであろう。彼はそれ以前からC.G.ユングの思想に深い関心を持ち、ユングの思想を明らかにする映画の製作にも着手しはじめていた。絵画もまた、明らかに画家の世界観の表現なのである。))
ここでは、息子のフランシス真悟(1969-)の作品 《Veil (magenta)》2011年 をみておこう。これは感動的な作品だ。普遍的無意識(集合的無意識)が現前しているようだ。
http://artazamino.jp/artist/shingo-francis/
マーク・ロスコ(1903-1970)について
一方、「色画派」とよばれ、茫漠と広がる瞑想的な画面で知られるロスコが1940年代半ばごろ描いていた絵には、プリミティヴな神話的形態、創世神話風にひしめく雲の気配があった。事実彼は、インディアンの原始芸術の影響を受けているといわれる。
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