気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

チェリビダッケにとって重要なのは、今ここに響いている音だけだ

岡田暁生『音楽の聴き方』(3)

例えば、東京オペラシティのコンサートホールで、オッコ・カム指揮のフィンランド・ラハティ交響楽団によるシベリウス交響曲を聴くということは、何を意味するだろうか。…宗教体験、音楽批評、沈黙の聖化。…私たちは、「語ることの出来ない感動」を求めているのだろうか。

このように見てくると、音楽を宗教なき時代の新たな宗教にしようとする勢力と台頭してきた市民階級の聴衆を相手に音楽でもって商売をしようとする勢力との利害関係がぴったり一致したところに生まれたのが、「音楽は言葉ではない」というレトリックだったことが分かる。ドイツ・ロマン派によって音楽が一種の宗教体験にまで高められていくとともに、音楽における「沈黙」がどんどん聖化されていく。批評もまた、言葉の無力を雄弁に言い立てるというレトリックでもって、黙する聴衆の形成に加担する。…「音楽は語れない…」のレトリックには、多分に19世紀イデオロギー的な側面があったわけである。…言葉を超越した音楽体験は存在する。しかしながら、音楽の中に、ことさらに「語ることの出来ない感動」を求めるとき、ひょっとすると私たちは前々世紀[19世紀]の思想にいまだに呪縛されているのかもしれないのである。

 

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音楽は言葉で作られる?

音楽が摩訶不思議な霊感の力だけで生まれてくるかといえば、もちろんそんなことはない。言葉の役割は極めて大きい。仮に言葉というものがこの世に存在していなかったとしたら、私たちのあらゆる音楽の営みは停止してしまうだろう。「もう少しそこはリズムをたたみかけて」とか「そこはこんなイメージでやってみて」といった具合に、言葉で意思疎通をすることが出来なくなってしまうのだ。これではアンサンブルをすることも、音楽を伝承(教育/学習)することもままなるまい。作曲家にしても同様で、曲を作るプロセスにおいて彼らは、「このメロディはクライマックスにとっておこう」とか「ここがどうも流れていない…」などと、絶え間なしに言葉で試行錯誤を繰り返しているはずだ。言葉を取り上げられたら、彼らの仕事は不可能になってしまうはずである。音楽は言語を超えていると同時に、徹頭徹尾、言語的な営為である

岡田がこのように言うとき、「言葉を超越した音楽体験は存在する」「音楽は言語を超えている」と言っていることを忘れてはならないだろう。そのうえで「音楽は、言語的な営為である」と言っている。「言葉を超越した音」に、「言葉」で迫る。それはいい。でも、岡田は少し言い過ぎてはいないか。「音楽は…徹頭徹尾、言語的な営為である」。こういう言い方をされると。音楽に限らず、「芸術は言語的な営為である」となってしまうように思う。

音楽は言葉によって作られる――一流の指揮者のリハーサルなどを見れば、このことは一目瞭然である。最近ではいろいろ面白い映像がDVDで手に入る。特にチェリビダッケフリッチャイクライバーの練習風景は、観る者すべてに鮮烈な印象を与えるはずである。天衣無縫に音楽をやっていると見える彼らだが、リハーサルでは絶え間なしにオーケストラを止め、詳細極まりない指示を出している。流麗な音楽は、実は言葉によって吟味熟考され、修正され、方向づけられた結果なのだ。こういうものを見ていると、ひょっとすると「音楽を語ること」は「聴くこと」以上に楽しいのではないかとすら、思えてくるはずだ。「音楽は言葉に出来る/音楽は言葉で作られる」ということの意味の、これ以上説得力ある証はあるまい。

「指揮者」については、たぶん岡田の考察が後に出てくるだろう。そのときに「指揮者」の役割について考えてみたい。ここでは上に名前の出たチェリビダッケの面白い動画があったので、紹介しよう。

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日本語字幕が付いていたので、一部抜き書きしておく。アンダーラインを引いた部分が印象に残った。

幻の指揮者セルジウ・チェリビダッケ(1912-96)は、若くしてフルトヴェングラーに見出され、ベルリン・フィル首席指揮者として、第2次大戦後の再建に力を尽くし、天才の名をほしいままにした。しかし、音楽に対する妥協のないひたむきな態度が災いして、カラヤンにその座を奪われ、以来今日までベルリン・フィルとの邂逅は果たされなかった。そして今年[1992年]3月31日、ワイツゼッカー大統領の招待コンサートにおいて、チェリビダッケベルリン・フィルとの実に37年ぶりの再会コンサートが実現した。

それは伝統などではない。むしろ、伝統などないことを学ぶべきだ。作品は存在するものではなく、演奏の度に生まれるものだ。伝統に寄りかかっている者など無能力者だ。そんなコンサートに招かれたら終身刑も同然だ!(笑)。ルーマニア共産党の刑務所に5年間入るのも、ブリディチアヌのコンサートを聴くのも、同じようなものだ(大笑)。笑わないで!君達全員に責任があるのだ!

諸君の我慢強さに感謝するよ。休暇もなく、次から次へとコンサートばかりだ。これは文化を殺すようなものだ。でも私に何ができるだろう。生まれ変わったら、金持ちになって、オーケストラをつくり、すべてを引き受けよう。何の喜びも感じない練習もあるだろう。だが生活もかかっている。音楽は契約で演奏するものではない。本来、金とは無縁なもののはずだが、我々もいい生活がしたい(笑)。人それぞれ趣味は異なる。ハーレムが欲しい人もいれば、女嫌いも、男が趣味の人もいるし…(笑)。

ハイドン交響曲でも現代音楽でも私のすることは同じだ。スコアを最初から読んでいく。初めは何もわからないが、主題や前後関係が少しずつ見えてくる。そして冒頭と末尾との関係がわかる。…冒頭から末尾への音の連なりは、全体の構造に従っている。我々はいつ作品の終わりを理解するのだろうか。それは、作品の冒頭に末尾があるときである。つまり、冒頭に約束されたものが、末尾に現れている時である。関連性とは、単なる前後のつながりではなく、多くの瞬間を通り過ぎたのちに、時間を超えて、冒頭と末尾を同時に体験することである。構造を全体として体験するために必要なのは、冒頭と末尾及び各部分の絶対的関連性を感じとるということである。全体を感じるということは、何を意味するのだろうか。そう統合することだ。それが出来るのは、どういう時だろうか。(各部分が相互に関連性を有している時です)。そうだ。 

メトロノーム92の速さはベルリン、ミュンヘン、ウィーンで、それぞれ異なる。ホールごと、作品ごと、楽章ごとに。その時の状況が作り出す絶対的なテンポがあるのだ。

この曲を聴いて、岡田の言うように「音楽は言葉で作られる」と感じられただろうか。