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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

水俣病(10) 行政は、水俣病の「負」の主役である

私たち

行政とは、公務員の行為であるが、それは同時に、民主主義の理念を尊重する者にとっては、「私たち」の行為でもある。それゆえ、タイトルの「行政」は、「私たち」とも言い換えることができる。

 

2015年6月、衆議院調査局環境調査室は、「水俣病問題の概要」なる資料を作成公表している。これは、2006年に作成したものの改訂版である。このなかに、「有識者の見解」があり、前回の記事で、畠山武道「水俣病事件と国・県の責任」を取り上げた。今回は、熊本日日新聞社常務取締役の高峰武「「負の歴史」からたどる水俣病」を取り上げよう。

 

昭和34(1959)年11月7日、水俣市の代表が、熊本県知事、県議会議長に陳情に行った。

陳情団は地元市長、市議会議長、商工会議所会頭、地区労代表たち28 団体の代表50 人。陳情団は訴えている。「市の市税総額1億8千余万円の半分を工場に依存し、また工場が一時的にしろ操業を中止すれば、5万市民は何らかの形でその影響を受ける」と。この場面は象徴的な意味を持つ。漁民を除く“オール水俣”が工場の操業継続を陳情したという事実だ。ここには、少数を犠牲に、あるいは少数の被害に「目をつぶって」、多数の側が現状の暮らしを維持していこうという気持ちが表出されてはいないか。その構造は水俣にとどまらず、今も例えば福島で起きてはいないか。水俣病の今日的な意味がここにある。

赤字にしたところをもう一度読み返してみよう。私は、この思考様式というか精神構造は、かなり普遍的なものではないかと思っている。それはどういう事かというと、自己ないし自己の属する集団の利益(幸福)を第一義的に考え、他者ないし他者の属する集団の利益(幸福)を無視ないし軽視するということである。ここで集団とは、家族から国家まで、さまざまである。(なおこの理解では、少数者、多数者の対立は本質的なものではない。少数者が常に正義で、抑圧されていて、抵抗には正当性があるなどと言うことはできない。)

この陳情団のメンバーを確認してみよう。(私が、水俣病の可能性がない集団の一員であるとすると)「現状の暮らしを維持する」(私たちが幸福であればそれで良い)というエゴのみがあり、私たちには水俣病患者(他者)を思いやる心がないということである。それは、私たちの社会には、水俣病患者が存在しないとみなす(排除する)ということを意味する。

 

実はこの時、裁判で確定した事柄から言えば、チッソは昭和34(1959)年10 月、同社付属病院の猫実験で、工場排水を与えた猫400 号が水俣病特有の症状を起こしたことを知っていた。この時、この事実を知り得た人たちが、その結果を市民に広く伝えていたら、“オール水俣”が前記のような行動を取っただろうか。

この「ネコ400号実験」の経緯については、「水俣病問題の概要」Ⅰ概要 第1水俣病問題の背景と経緯 2水俣病問題の経緯 (1)水俣病による被害の発生 カ)ネコ400号実験 で、次のように述べられている。

昭和34(1959)年10月6日、アセトアルデヒド製造工程の排水をかけた餌を食べていたネコ「400 号」が水俣病を発症した。ネコの脳を解剖すると、萎縮などの有機水銀中毒が確認され、細川院長はこれをチッソ水俣工場の幹部に報告したが公表は控えられ、細川院長は実験の継続を禁止されたチッソはネコ400 号の実験結果に反した報告を衆議院の調査団などに配付した水俣病の原因物質であるメチル水銀化合物は、アセトアルデヒド製造工程において副生され、それが排水に含まれて海域に流出したことが後になって明らかになるが、当時の熊大研究班は、チッソ水俣工場内でのネコの実験結果やメチル水銀化合物副生の可能性は知らされないまま、自然界での無機水銀の有機化の立証を迫られることとなった

当時のチッソ水俣工場の幹部が、「人の命」よりも、「会社利益」(自己保身)を優先したことは明白である。(そして、現在でも一部企業にはそのような経営行動が根強く残っているようだ。)

 

もう一つ、チッソの犯罪的な行為がある。それは、シ)サイクレータ-設置 である。

漁民はチッソ水俣工場の排水浄化設備の設置を強く要求し、その結果チッソは、凝集沈殿処理装置(商品名「サイクレーター」)を昭和34(1959)年12 月に設置した。この設置により、地元の住民や行政及びマスコミは、排水は浄化され、水俣病は終息すると思い込むこととなった。しかしこのサイクレーターは、濁った排水の見た目を綺麗にするものであり、水銀を除去処理する機能を有していなかったしかし、チッソは排水は完全に浄化されたと発表し、これを信用した熊大研究斑も、昭和35(1960)年10 月の2名の発症を最後に水俣病は終息したと考えた。そのため、漁師や住民は再び魚を食べるようになり、新たな患者が発生し続けることとなった

なぜチッソ幹部は、このようなウソをついたのだろうか。なぜこの装置を設計開発した技術者は黙っていたのだろうか。このようなモラルなき似非エリートたちの思考と行動はどこからくるものだろうか。

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高峰は、司法の判断について書いている。

昭和48(1973)年3月の水俣病一次訴訟判決。患者勝訴の判決を言い渡した斎藤次郎裁判長は、記者団の質問に文書でコメントした。「水俣病による被害はあまりにも深刻で悲惨だ。(略)現状はともかく、裁判は当該紛争の解決だけを目的とするもので、そこにはおのずから限界がある。(略)企業側と、これを指導監督すべき立場の政治、行政の担当者による誠意ある努力なしには、根本的な公害問題の解決はありえない」。事件史上初めて、司法の立場から水俣病を裁いた裁判長の言葉だが、この時指摘された企業や政治、行政に携わる人たちが本当に「誠意ある努力」を真摯に続けたのだろうか。そんな疑問がどうしても消えない。

裁判ですべてが解決するわけではない。企業や政治・行政に携わる人たちの「誠意ある努力」、裁判後の問題解決の努力がどれだけなされたのだろうか。(カネを払えばそれで良し、というものではない)

 

昭和52(1977)年6月に出された東京高裁判決。患者運動のリーダーだった故川本輝夫さんがチッソとの交渉過程で傷害罪に問われた裁判。一審の有罪に対し東京高裁は公訴を棄却した。検察官の公訴そのものを認めなかった極めて異例の判決はこう指摘する。「(水俣病の)悲惨さに対するとき、我々は語るべき言葉を持たない。(略)果たしてこれを防ぐ手立てはなかっただろうか。(略)その気がありさえすれば加害者を処罰すると共に、被害の拡大を防止することができただろうと考えられるのに、なんらそのような措置に出た事跡が見られないことは真に残念であり、行政、検察の怠慢として非難されてもやむを得ないし、その意味において、国、県は水俣病に対して一半の責任があると言っても過言ではない」。刑事裁判の判決とは思えないようなトーンではあるが、事件史への深い考察がある。

この川本刑事事件について、wikipediaは、次のように述べている。

1年6ヶ月のチッソ本社前での座り込みやチッソ本社重役との自主交渉については、ガードマンらによる暴行があり反撃も十分できないまま、逆に1972年12月27日に傷害罪で起訴され、懲役1年6ヶ月の求刑を受け、一審判決は罰金5万円・執行猶予1年の有罪判決であったが、高等裁判所では被疑事実が認定されつつも、「本件は訴追を猶予することによつて社会的に弊害の認むべきものがなく、むしろ訴追することによつて国家が加害会社に加担するという誤りをおかすものでその弊害が大きいと考えられ、訴追裁量の濫用に当たる事案である」との理由で公訴棄却となり、最高裁で確定している。

なぜ、水俣病が今も未解決なのか。高峰は3点あげている。

  1. 被害の全体像をつかもうとしなかったということがある。昭和31(1956)年に公式確認をされて以降、不知火海一帯の調査がなされたことは一度もない。漁業補償への波及などが懸念されたという指摘があるが、全体調査が行われなかったことが今に続く混乱を生んだ。平成16(2004)年、最高裁で国と県の敗訴が確定した時、当時の潮谷義子熊本県知事が、全体調査をしていなかったことを反省、長年水俣病研究に携わってきた医学者らのプロジェクトチームに検討を依頼した。チームが出した提案は既存のデータを使ったパイロット調査だったが、環境省はこれさえ「科学的でない」、「金がいくらかかるか分からない」などと激しく反対。県の提案は水面下に沈んでしまった。チャンスはここでも潰ついえてしまった。
  2. [調査研究データを]生かそうとしても生かされない、より実態に即して言えば、生かそうとしなかったことがある。昭和35(1960)年から3年間、熊本県衛生研究所が不知火海一帯住民の毛髪水銀調査を行った。…ところがこの調査は水俣病の研究にまったく生かされることはなかった。お蔵入りしていたデータを発見したのは一市民だった。…昭和37(1962)~38(1963)年にかけて水俣病の原因究明で決定打が出る。熊本大学の研究班が工場の製造工程から水俣病の原因物質である有機水銀を抽出したのである。その時、熊本地検の検事正はこう発言している。「これまでは医学的なはっきりした原因が分からず、われわれは手を出そうにも手の付けようがなかったが、もし医学的研究の結論が出れば、結果しだいでは大いに関心をもたねばならない問題だろう」。しかし、結局は検察も警察もまったく動かなかった
  3. 行政全体を貫く姿勢である。行政は事件史の“負”の主役と言ってもいい。…昭和63(1988)年、[国連の活動である]IPCS[化学物質の安全性に関する国際プログラム]が水銀汚染の最新の知見を踏まえて、現行の毛髪水銀の基準50 ㏙が妥当かどうか、世界の研究者に検討を呼びかけた。ところが、環境庁(当時)がやったことは、「(基準が変われば)水俣湾のヘドロ除去基準の見直し、新たな補償問題の発生、訴訟への影響など、行政への甚大な影響が懸念される」として、反対のための委員会を立ち上げたのである。しかも委員の名前は伏せたままであった。…国民の健康と環境を守るべき役所が、どんな方向を向いていたのかが明らかになった事例である。…行政は司法の場では批判され続けている最高裁で確定した水俣病関西訴訟の大阪高裁判決を言い渡した岡部崇明裁判長が、熊本日日新聞のインタビューに答えている。(平成26(2014)年10 月15 日付朝刊)。岡部氏は「40年近くも同じ基準を使っていて、一番最近の新しい知見や研究結果を取り入れていないのはおかしなことで、裁判所は今の時点の新しい最新の知見で今回判断をした」と明快だった。こうした批判を受けたにもかかわらず行政はやはりその姿勢を変えなかった。「やるべきことをやってこなかった」という点では、加害企業のチッソも同じだ。…

こういう話を聞くと、行政(環境省等)とは、一体どういうところなのか、と思う。何も司法(最高裁)が絶対だというわけではないが、司法や学識経験者らの意見に聞く耳を持っているのだろうか。…しかし実は、私たちがそのような行政の行動(作為・不作為)を支持しているということなのであろう。