浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

分類思考と系統樹思考、クロスセクションとタイムシリーズ

積読本の処分メモ - 三中信宏系統樹思考の世界』(上)

積読本を処分するにあたり、ちょっと気になった部分をピックアップしておこう。

三中(みなか)は、系統樹とは「さまざまなもの(生物・無生物)を系譜に沿って体系的に理解するための[図示]手段」である、系統樹思考とは「そのような体系的理解をしようとする思考態度」であると定義している(p.26)。

系譜とは、「時間的な変化のたどった経路」であり、「系統樹の根源には共通祖先が置かれる」、「系統樹の枝は、祖先から子孫へのつながりを表している」(p.22)とされる。

以下は、本書のエピローグ「万物は系統のもとに-クォ・ヴァディス?」からの引用である*1。(なお、「ですます調」は、「である調」に置き換えた)。

系統樹の木の下で-消えるものと残るもの

自然界やこの世の中には離散的な群、即ち互いにバラバラに存在する群が実在するのだという分類思考は、私たちが生まれながらに持っている認知カテゴリー化の性向の反映であると考えられている。…分類思考こそ、私たちにとってまさに「生まれながら」の世界観にふさわしい思考法とみなせるかもしれない。

群(むれ?)がバラバラに存在するとしか考えないならば、そこでは「系譜」は考えられていない。

では、系統樹思考と分類思考とはどのように折り合いをつけるのか。基本的に両者が互いに相容れない二つの世界観を代表していることは明らかである。世界は離散的な群から構成されているという分類思考は、その群がどのように生成してきたのかという系統樹思考からの問いに答えることはない。

系統樹思考と分類思考は、「互いに相容れない二つの世界観を代表している」のだろうか? 三中は「明らか」と述べているが、私にはちっとも明らかではない。「世界観を代表している」というのも「?」である。

生物の系統樹をある時空断面で切断した時に生じる離散的な群のパターンが分類構造である、というなだめすかしの「和解策」を立てることは可能だろう。

しかし、原初的な分類思考には、時空軸ということを考えることすら不可能かもしれない。むしろ、分類とは時間的な流れから超越するパターンを見出すことを旨とすると考えた方が、私はすっきりする。系統樹思考と分類思考とは、なまじっか融和させようなどと考えないほうがいいだろう。

「なだめすかし」とは、「相手の心をやわらげて、こちらの都合の良いように仕向ける」という意味らしい(goo辞書)。しかし、私には三中は「分類思考」を「時間的な流れから超越するパターンを見出すことを旨とする」と決めつけ、「系統樹思考」に固執しているようにみえる。

データには、「時間を一時点に固定して止め、その時点で区切って各地点、場所、グループで起こっているデータを記録したクロスセクション(横断面)データと時間に従って取ったデータをタイムシリーズ(時系列)データがある*2パネルデータは、両方を取り入れたものである。系統樹思考は時系列データを分析することに相当し、分類思考は横断面データを分析することに相当しよう。これらは、他の分析を排斥するものではない。パネルデータ分析が必要だろう。

分類思考が静的かつ離散的な群を世界の中に認知しようとするのは、私たちが多様な対象物を自然界や人間界に見る時、記憶の節約と知識の整理にとって大変有効な手法であると考えられる。そのような認知カテゴリー化は、記憶の効率化を通じて、私たちの祖先たちの生存にきっと有利に作用しただろう。

これに異論はない。ただし、それが正しいとは限らない。「境界付近」のデータ(現象)には注意しなければならない。線引きは恣意的である。

ギリシャ時代以来の分類学博物学、あるいは「存在の学」としての形而上学が、おしなべて、離散的な群の実在とその背後にある本質主義-それぞれの群にはそれを定義するエッセンス即ち本質があるという考え-を長年にわたって強固に掲げ続けることができたのは、他ならない分類思考が、私たち人間の精神に深くしみ込んでいたからだろう。…本質主義と分類思考は、今もなおヒトを支配する生得的教義であると考えられる。

本質主義が生得的教義であるとは思えない。本質主義と(社会)構築主義の話は興味深いが、今後のテーマとしよう。

生物が時空的に進化するのだという進化的思考と系譜に基づく系統樹思考は、このような分類思考とも本質主義とも衝突する考えである。変化する系譜は静的な群からなる世界を根底から破壊する。

中世の形而上学で延々と論争が戦わされた「普遍論争」では、普遍(universal)としての「群」が実在する主張する実念論者(realist)と、群ではなく個のみが存在すると主張する唯名論者(nominalist)が、それぞれ論陣を張った。しかし、もちろん進化という概念そのものが無かった中世にあっては、カテゴリーとしての群が「変化」する(ましてやそれらが「進化」する)という選択肢はもとよりなかったはずである。

普遍論争、実念論唯名論については、今後のテーマとしよう。この論争においては、「群」ではなく、「類、種、個体」という用語が使われている。

*1:

クォ・ヴァディス(Domine)quo vadis ? とはラテン話で「(主よ)いずこへ行き給うぞ」の意昧で、死に赴く前の主キリストに対する聖ペテロの質問や、皇帝ネロの迫害下、ローマを逃れようとしたペテロの前にキリストが現われた際のペテロの質問として有名である。

クォ・ヴァディス(北脇昇、油彩画)→ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/106889 参照。

https://pxcanvasprints.com/featured/quo-vadis-digital-remastered-edition-kitawaki-noboru.html?product=canvas-print

*2:クロスセクション・データ(cross section data)やタイムシリーズデータ(time series data)の他に、パネル・データ(panel data)コーホート・データ(cohort data)もある。

https://www.ier.hit-u.ac.jp/~kitamura/lecture/Hit/01Statsys2_c.pdf

パネル・データについて…Excelの表を思い浮かべれば良いだろう。

コーホート・データについて…1990年に24歳の人は、1991年には25歳、1992年には26歳……である。