浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

競争社会における自己欺瞞の訓練

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(33)

今回は、第5章 競争が人格をかたちづくるのだろうかー心理学的な考察 第3節 心の傷を否定すること(P.190~)である。

競争は、我々を引きずり倒し、心理的に圧倒してしまい、人間関係を台無しにし、力を発揮するのを妨げる。しかし、このようなことを認めるのは苦痛だろうし、さらに自分の人生を根本的に変えざるを得なくなるかもしれない。だから、その代わりに、競争が「人間性」の一部を成しているのであり、生産性を高めてくれ、人格を鍛え上げてくれるのだと合理化し、それを受け入れていくのである。

人は生まれてから死ぬまで、さまざまな競争にさらされている。マスメディアは競争の勝者を華々しくとりあげるが、競争の敗者に焦点を当てることはほとんどない。しかし、競争の敗者が「自分の人生を根本的に変えざるを得ない」ことは無数にあると思われる。そのとき、その状況をどう受け止めるか*1。多くの人はそれが「運命」だとあきらめる。また一部のプライドの高い人は「人格を鍛え上げる」と「合理化」する(さもなければ人格崩壊する)。

競争が自分にどんな影響を及ぼすのかということについてはっきりと自覚できるにもかかわらず、競争がもたらす影響は建設的なものだと執拗なほど主張している人々もいる。

競争を礼賛する人たちの言動には注意しなければならない。暴力的な指導者だけが問題なのではない。

大谷翔平藤井聡太を礼賛するする人たちの言動には注意しなければならない。彼らは「競争の勝者」を礼賛することによって、(無意識に)「競争社会」を肯定し、そのような社会制度を「保守」しているのである。

オグリヴィとトッコは、「スポーツが人格を鍛え上げるという伝統に対するどのような経験的な根拠」も見いだせなかったし、「実際、スポーツ競技はある面では成長を抑えてしまうという証拠がある」と述べている。彼らは、問題提起的な結論のところで、意気消沈、極度のストレス、うわべだけの人間づきあいといったものになってしまうという調査結果を明らかにしている。

(スポーツに限らず)競争社会においては「意気消沈、極度のストレス、うわべだけの人間づきあい」が日常茶飯であることは、誰もが経験的に知っていよう(一部の鈍感な人を除く)。

大衆紙には、競争によって自信や幸福が増大すると強調する記事が良く掲載されており、そうした確かな証拠もない見解に飛びつく読者もいる。

大衆紙のみならず、学者・評論家・教育者のなかにも、そのように主張する人たちがいるようだ。

競争を支持する人たちの中には、競争は自尊心を傷つけることもあるかもしれないが、いつもこうした影響を与えるわけではないとして、もっと穏健な見解をとる人たちもいる。哲学者のR.W.エッガーマンは、三つの論点を提出している。

少なくとも知的な人なら「穏健な」見解をとるだろう。その物言いは<…であるかもしれないが、常に…であるわけではない>のようになる。このような表現は要注意である。表面的には「穏健」かもしれないが、実は「…であるわけではない」を強硬に主張する意図を隠したものであるかもしれない。そうであるか否かは、話し合い(対話)を続ければわかってくる。

1.競争は、子供たちだけに有害なのかもしれない。

「そのようなスポーツは、子供たちの心理学的な、社会学的な発達、さらに運動能力などの発達を妨げることもあり得る」。…しかしこれは、どんな年齢だろうと、競争によって不幸な結果を被るのだという主張に対する反論にはなっていない。子供たちにとって競争を有害なものにしている自尊心の力学は、成長していくにつれて脱却できるような性質のものではない。

「反論」になっているかどうかの見極めが必要である。競争社会は、大人にも悪影響を及ぼすことは明らかである。パワハラを想起せよ。

2.精神が不安定あるいはノイローゼの競争者に対してだけ、競争が心に傷を負わせる。

「問題は競争そのものにあるわけではなく、一人ひとりの人間の側にある」。…構造化された競争*2は、すべての人から同じレベルの意図的な競争(さらに、それに付随する特性)を引き出すわけではない。…自尊心がしっかりと備わっていたとしても、それは、敗北の影響から魔よけのようにわが身を守ってくれはしないのである。それと同じように、勝利することのむなしさによって生み出される悪循環は、ノイローゼの人だけに認められる症状ではない。もっとも、その循環の速さが心理的な健全さの関数なのかもしれないけれども。

<問題は「競争社会」や「社会制度」にあるのではなく、「個人」の側にある>というのは、体制擁護派の主張するところである。敗者の心の傷を直視し、そのよって来るところを探ろうとしない者が多い。

「問題は競争そのものではなく、競争者の方にある」という考え方は、様々な人々によって、様々な競争の場面において、本質的に同じパターンが繰り返されるのを見るたびに、ますます信じがたいものになっていく。…参加者の一人だけしか成功することができないことになっているシステムが他人を傷つける可能性があることを認識するために、それに参加する一人ひとりの人間については、何か知識を持たなければならないということはない。…「少数者しか達成できない価値が示されているところでは、自分はダメな人間なのだという感覚が広くいきわたってしまう条件は熟している」のである。

競争社会とは、大多数の人がダメ人間である社会である。

3.敗北は失敗として経験されなくても良い。

なぜなら「自分が勝つとそれなりに予想することができる場合にだけ、負けることが失敗を意味する」からである。…勝利することを期待しないで参加する競技もあるのは確かである。勝とうという意欲があまり無い、期待値の低い競争の場合には、即ちナンバー・ワンになることに関心を抱かない場合には、負けることが決定的な打撃を与える可能性は少ないだろう。しかし、このことについて問われるのは、そうした競争が一体どれぐらい必要なのかということである。

<敗北は失敗として経験されなくても良い>との主張の根拠は、「自分が勝つとそれなりに予想することができる場合にだけ、負けることが失敗を意味する」からであるという。これが根拠となり得るとは考えられない。自分に勝算ありと考えられない場合、そもそも競争には参加しない(参加できない)。また競争はナンバー・ワンになることだけが目標ではない。トップ3に入るとか、合格ラインに達することという場合もある。いずれにせよ、かかる競争の場合には目標を達成できなければ失敗なのであり、失敗の心理的ダメージは大きなものだろう。

[競争の後に、敗者が]勝者を称えるときには自分の感情をちゃんと抑えることができる。だが、大抵は義理でそうしているにすぎず、敗北がたいした事ではないというふりをしているだけなのである。…「りっぱな敗者」であるということは、そのような表情をしてみせ、そのような態度を装うということなのである。…敗北は問題ではないと自分に言い聞かせ、また子供たちにも言い聞かせてみたところで、せいぜい自己欺瞞の訓練ぐらいにしかならない。

敗者が勝者を称えるということは「自己欺瞞の訓練」であるという指摘は、まさにそのとおりだろう。もしそうではないというなら、それは「競争」とは言えない。

「大切なのは、試合でどのようなプレーをするかということだ」とか、「努力をすることが大切なのだ」とか、「今日ここにやってきた少年たちみんなが勝者だ」と言ったセリフが口にされるたびに、ナンバー・ワン以外はほめたたえられる権利などないのだということをこれでもかというぐらい思い知らされるのである。

参加することに意義がある」などと称するオリンピックは、商業主義を排したとしても、「競争」である限りはスポーツ(デポルターレ*3とは無縁のものである。

アメリカの文化のいたるところで、こうした二つのレベルの社会化が同時に進行していることについては、昔から明らかにされてきている。1930年代にメイとドゥーブは、「協力という理想には十分に敬意を払うけれども、協力は競争システムと共に歩んでいくのだ」と述べている。50年代には、J.R.シーリィの郊外の生活に関する古典的な研究が、同じ現象を見出している。シーリィによれば、成功するためには、子供は「競争しなければならないが、競争好きであるように見えてはならないのである。学校は、建前としては協力を『促し』、……裏では競争を『大目にみる』というディレンマに直面することになるのである」。70年代には、更に別の社会科学者たちが、「協力的な行動を奨励するのは、道徳的な格言にとどめられ、……アメリカ社会において学校や他の教育機関が競争的な行動を行っていくことに焦点を合わせている」と言う状況が引き起こしている「ひどい精神分裂状況」を描き出している。

今日では、アメリカのみならずすべての国において、学校や他の教育機関が「協力的な行動」と同時に、大っぴらに「競争的な行動」(「勝つ」ことが大事である)を教育しているように見える。ダブルバインド。精神分裂状況!

https://cancam.jp/archives/483989 より、矢印と?を追加。

敗北することは心理的に破壊的な作用を及ぼし、自尊心に対して脅威になる。この脅威は、優雅な敗北と言った見せかけによって取り繕われているに過ぎない。それは、競争者の「現実的な」認識によって和らげることもできず、成人期になれば魔法のように一掃される事もない脅威なのである。それはナンバー・ワンでないものはすべて残酷に弾き飛ばされてしまう文化によって強化される勝利・敗北のモデルにもともと備わっている脅威なのである。

「競争社会」は、気弱な一個人の問題にとどまる話ではない。人類の殺傷の歴史……。

*1:極端なケースでは、殺人や自殺にいたる。ただ、殺人は注目されるが、自殺は注目されない。

*2:構造化された競争…なぜ競争するのか?(2022/2/11) 参照。

*3:

競争を伴わないスポーツ(気晴らし、楽しみ)【デポルターレ】(上)(2021/12/29)

競争を伴わないスポーツ(気晴らし、楽しみ)【デポルターレ】(下)(2021/12/30)参照。