気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

事実認識と価値評価(3) 普遍的な価値判断 (キリスト教の黄金律?)

加藤尚武『現代倫理学入門』(14)

今回は、前回に引き続き、本書を離れて、細見論文*1にしたがい、価値判断論争をみていくことにしよう。

価値判断論争とは、

価値判断は客観的に正当化されうるか。事実判断または事実認識は価値判断から中立でありうるか。価値判断をめぐるこれら二つの根本問題は、社会科学的認識の客観性ならびに社会科学的認識と政策策定との関連の問題にとってきわめて重要であり、これまで幾多の議論をよんできた。なかでも、1904年から1913年にかけて、ドイツの社会政策学会を舞台にG・シュモラーとM・ウェーバーとの間でなされた論争は著名であり、一般に「価値判断論争」といわれるとき、それは通常この論争のことをさしている。(日本大百科全書

私は、価値判断論争を学問の問題としてのみ捉えない。

 「どうしたんだ。どうなっているんだ!?」(A)

 「だったら、~したほうが良い。~しない方が良い。」(B)

私は、これらは日常的な会話だと思う。そして(A)は「事実認識(認定)」、(B)は「当為」(~すべき)といってよい。AからBを主張してはいけないのか?

マスコミの報道の場合はどうか。当為を主張してはならないのか? 中立性はどうなるのか?

しかし、事実認識(認定)に求められるものは客観性であることは、学問であろうと日常行動であろうと報道であろうと同様であろう。

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シュモラー https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cb/Gustav_von_Schmoller_1904.jpg

 

G・シュモラー(Gustav von Schmoller、1838―1917)とは、

ドイツの経済学者。後期(新)歴史学派の中心的存在。…1873年、A・ワーグナー、L・ブレンターノらと社会政策学会を設立し、指導的役割を演じた。…有名なC・メンガーとの方法論争や、M・ウェーバーとの価値判断論争の通俗的解説から印象づけられがちなほど理論を排したり、政策論議における倫理の理論や事実に対する優越性を主張したわけではない。経済学は理論のみを偏重することなく、補助科学としての経済史研究や心理学・倫理学の援助をも求めるべきである、というのが彼の中心的主張であったといってよい。(早坂忠、日本大百科全書

抽象的,非現実的な古典派経済学に対し,経済現象の経験的・歴史的研究を提唱。(ブリタニカ国際大百科事典)

経済生活は倫理的価値実現をめざす文化生活であり,経済学は道徳的学問であるべきだとして理論よりも歴史,特に経済史の研究を強調した。(百科事典マイペディア)

 

細見は、次のように書いている。(以下、細見論文より引用)

ウェーバーは]国家によって福祉がばらまかれることよりも、労働者が自らの生活を向上できる、その条件整備に社会政策が向けられるべきであると考え、労働者の団結権ストライキ権の保証をブレンターノと共に要求した。単に恵んでもらうのではなく、自ら獲得しなければならない、というのは、ウェーバーにとって、人間の尊厳がかかっている問題であった。これに対してシュモラーの社会政策は、[ウェーバーの]国民主義に対してあくまでも、社会正義・公共善の立場であった。彼は階級分裂の時代にあっても諸階級の融和を信じ、中立的な政府による社会政策によって、社会正義が実現されると考えた。そして、社会政策学は、客観的に、社会政策を提言できるし、しなければならない、と考えた。国家がこのように階級対立を超越した存在であるから、この国家による社会福祉は、中立的なものであり、何ら問題はないはずである。ましてや国家の介入をもってして、ばらまき福祉と決めつけ、そこに人間の尊厳に悖る[もとる;背く、反する]ものを見るのは、単に個人主義的な偏向に過ぎない、と見たことであろう。

シュモラーとウェーバー社会政策の姿勢の違いは、公共善(という経済重視)に対する国家理性(という政治優先)、国家救済に対する自己救済、とまとめることができる。

国家による社会福祉政策は、ばらまき福祉(どこかで聞いたことのある言葉だ)なのか、そんな福祉よりも、労働者(生活困窮者)の自立を支援するものでなければならないのか。ウェーバーにとっては、乞食のように恵んでもらって生き延びるというのは、人間の尊厳に悖るものであったのだろう。そして現代福祉国家社会福祉政策の基本的考え方は、ウェーバーと同様のものであるように思う。

しかしシュモラーはそんなふうには考えなかった。国家の捉え方が違う。

国家救済の場合、その政策の主体は君主制における政府官僚であり、プロイセン官僚群の職務遂行能力、階級的中立性、道徳的潔癖性に対するシュモラーの評価はつとに有名である。

階級対立が激化し、社会不安が増大することを防止するためには、労働者の保護を図り、極端な不平等をなくすために、国家が経済に介入し(政府官僚の仕事)、資本主義の健全な発達をめざす、というのがシュモラーの考え方であったようだ。現代福祉国家は、この考え方も取り入れているように思う。

では、現代の社会福祉政策は問題がないのか。決してそんなことはない。しかしその評価は、簡単に述べることはできないので、いずれ少しずつ取り上げることにしよう。

私がここで興味深いと思ったのは、政府官僚の「職務遂行能力、階級的中立性、道徳的潔癖性」のフレーズである。(階級的中立性は「公平性」、道徳的潔癖性は「人間性」といっても良いかもしれない)。現実がどうであるかに関わらず、これらは政府官僚(公務員)に求められる資質ではなかろうか。私たちは、公務(公共的な事項に関する業務)に専門的に従事する人をどのように選べばよいのか?

 

結局シュモラーは、価値判断の主張と抑制の間で揺れながら、ウェーバーに対して、問題を次の一点に絞っていく。つまり「主観的な価値判断以外に、客観的な価値判断は存在しないのか。個々人や個々の学者だけではなく、大きな共同体、国民、時代、つまりすべての文化価値が関与するような価値判断は存在しないのか。階級、党派、利害関係者の判断や理想だけを顧慮するならば、ウェーバーの言っていることは正しいと認められるかもしれない。しかし、科学や生活において、一面的な、風習的、政治的理想に対して、客観的な価値判断がますます勝利していくようになることを信じている者は、価値判断が科学に入り込むことを、ウェーバーのように侮蔑的に考えることはないであろう。」

私は、この「客観的な価値判断」という発想は重要だと思う。価値判断がすべて「主観的」なものであり、それで良しとするならば、各自好き放題のことを主張して、それらは相対的なものである(どれか一つが優れた価値判断であるということもなく)ということになり、「社会」が成り立たないだろう。「客観的な価値判断」とまではいかなくとも、大方が合意できる妥当な価値判断を求めるというのは、より良い社会を望む者には必須だろう。

なおここで「風習的」という言葉がでてきたが、これは「(良い意味で)慣習的」という意味に理解しておく。

 

結局、客観的な価値判断、風習的価値判断とは何か、とうことになる。シュモラーによれば、「風習的価値判断は、一種の価値判断であり、そもそも価値判断は価値感情から成り立つ。価値感情は我々の心的生活の全事象に随伴する。それは最初は快・不快の感情であり、ついで承認・否認の感情である。それは生を促進するものを肯定的に、阻害するものを否定的に、示す。この感情は、動物や未開人においては本能として働いている。人間においては何百万年もの生の経験を通じて、基本的な感情と別に、育成されたより高次の感情により、思惟し観察する理性の働きによって、価値感情は価値判断へと高められる。」

シュモラーのこの言葉には考えさせられる。功利主義の説明に「快・不快」が出てきた。後述の「経済人」や「利己心」も、「快・不快」から一歩も出ていないだろう。これでは動物と何ら変わるところがない。「高次の感情」を持つことができず、「理性の働きによる価値判断」ができない者を、「人間」と呼ぶことができるだろうか。

 

「風習的[慣習的]価値判断によって要求された行為は、…個人の繁栄と並んで、家族・共同体・国民の繁栄を図り、つまり同時に国民・国家人類を視野に収める。…あらゆる個人的・社会的な生の主要な内容は、風習的[慣習的]な目的定立であり、判断の風習的[慣習的]、文化的な熟成である。

客観的な(普遍的な)価値判断、つまり大方が合意できる妥当な価値判断は、個人・家族・共同体・国民・人類を視野に収める。…価値判断の「文化的な熟成」はいかにして可能か?

 

「すべての大陸で、すべての国民において、すべての宗教や道徳体系において、僅かの簡単な命題が説かれるようになっている。いわく、汝自身を主張し完成せよ、汝の隣人を自身として愛せよ、汝が属する全体の一員として自らを感ぜよ、神の前では恭順、人の前では自負と謙虚。」

細見は、これに対して、

「大山鳴動して云々」ではないが、結局のところ、シュモラーが普遍的に妥当する価値判断として提示するのは、以上のように極めて抽象的な、「汝の欲するところを人に施せ」というキリスト教の黄金律に類するような警句である。

と述べ、シュモラーは楽天的であると言っている。細見はこの言葉を、否定的なニュアンスをもって使っているようだが、私はこれを肯定的に受け止めたいと思う。理由は後で述べる。

 

「現実主義者と理想主義者の、風習的[慣習的]価値判断が互いに異なるのは、むしろ枝葉末節においてであって、重要な問題においてではない。個性の相違は、必ずしも根本問題における風習的[慣習的]価値判断の共通性を排除するものではない。個々の多くの事柄や、倫理的真理から派生的に出てきたことや、倫理的体系の科学的な構成については争うかもしれないが、極めて重要な実践的な価値判断に関しては、同一の文化時代にある同一の国民の善良で卓越した人々ならば、益々一致するようになる。だからこそ、経済・社会・国家秩序にとって重要な風習的[慣習的]価値判断を探究するのである。」

細見は「大山鳴動して…」と揶揄したが、私たちがシュモラーから受け止めるべきメッセージは、「極めて重要な実践的な価値判断」を「探究」しようとする姿勢にあるだろう。

 

シュモラーは言う。

倫理学と国民経済学とを一緒くたにするつもりでもなく、また後者により高い権威を付与するつもりでもなく、可能な文化的理想のすべてを後者に含ませるつもりでも猶更ない。ましてや特殊経済的な世界観から価値判断をつくり出すつもりは猶更ない。その反対に、私が否定したかったことはただ一つ、経済行為は善悪の彼岸にある、という認識だけである。」

「経済行為は善悪の彼岸にある」とは、経済行為は、善悪(価値)と関係ない事実である。善であるから、この経済行為をする、悪であるからあの経済行為をしない、というものではない、という意味だろう。しかし、抽象的な市場ではなく、「個人・家族・共同体・国民・人類を視野に収め」て、現実の経済行為を考えてみよ。そこには、べったりと価値がくっついているだろう。「価値」だけを、むりやり剥がして、「事実」を捉えられるのか。

 

細見は、次のように述べている。

シュモラーは、ウェーバーの発言「人間の魂を揺さぶる、最も重要な高次のもの、つまり倫理的理想の世界が、技術的・経済的なものと混淆されてはならない」を、「倫理的純粋主義」として非難する。…シュモラーにとっては、ウェーバーは事実と価値の連関を断ち切り、価値の領域を捨象して事実のみを取り上げようとして「M.ウェーバーエピゴーネン[亜流]」と同一視されるか、そうでなければ、事実の媒介なしで価値のみを取り上げようとしたとして「倫理的純粋主義」とけなされるか、どちらにしても両者の連関を無視したとして非難されることとなる。

「倫理的理想の世界(価値判断)が、技術的・経済的なもの(存在認識、事実認識)と混淆されてはならない」が、正当な主張であるためには、「倫理的理想の世界(価値判断)」と「技術的・経済的なもの(存在認識、事実認識)」が「独立」したものでなければならないが、果たしてそうだろうか。両者は、「相互依存」あるいは「表裏一体」にあるのではないか。もしそうなら、シュモラーの言う通り、両者の連関を無視した議論はナンセンスではなかろうか。誰が発言したかに関係なく、その発言内容に即して、そして現実の事象を念頭において(分析して)判断しなければならない。

 

細見は、最後に議論をまとめている。

ウェーバーによれば、存在と当為の混淆は、まずもってマンチェスター学派[一九世紀前半,マンチェスターを中心に自由貿易を主張した古典派経済学の一派大辞林)]において始まった誤りであった。そこでは、現実を分析するための抽象的な概念である「経済人」や「利己心」によって、存在[事実]が説明しつくされ(たと考えられ)、説明しつくされた存在[事実]からは、同時にまた当為を導くことも可能となり、マンチェスター学派の理論は、現実分析であると同時に経済政策でもありうることとなった。その政策の具体的な内容は、資本主義の自律的な運動の尊重であり、経済外の介入は干渉としてできるだけ退けられ、国家は夜警国家を以て充分とされた。

しかしながら、歴史学派及びその学派が拠った社会政策学会にとっては、例えば1873年にヨーロッパに広まった恐慌は、マンチェスター学派の楽天的な見方の破綻を告げるものであった。歴史学派はむしろ、資本主義を自由放任に任せれば、階級分裂は激化し、社会不安は増大するから、積極的に国家と社会の立場から経済に介入して、労働者の保護や富の循環を図り、階級融和に努め、資本主義を健全な形で発展させなければならない、と考えた。そのために、社会政策が必要となったのである。では社会政策を無用視するマンチェスター学派の理論的誤りはどこにあったのか。それは人間を抽象的な「経済人」と捉えたところに求められる。このような抽象的な見方に対して、「人間における他の原因」であるところの、心理的・倫理的な要因を顧慮することにより、存在[事実]を正確に把握することが出来る、正確に把握された存在[事実]から、同時にまた当為、つまり科学的に裏付けられた政策、を導くこともできる、と歴史学派は考えたのである。ここでも、存在[事実]と当為の混淆が生じていることには何の変りもない。ただ、理論の道具立てが、抽象的な「経済人」から、より具体的な「風習[慣習]と法」の中にある人間に変わっただけのことである。

歴史学派(シュモラー)の主張が細見の言う通りであったとしても、私の受けとめ方は違う。理論の道具立てが、「抽象的な「経済人」から、より具体的な「風習[慣習]と法」の中にある人間に変わっただけ」とは考えない。「個人・家族・共同体・国民・人類を視野に収め」て、現実の経済行為を見るならば、「倫理的理想の世界(価値判断)」と「技術的・経済的なもの(存在認識、事実認識)」が、極めて密接な関係にあると考える必要があるのではないか。事実認識が価値判断抜きに可能なのかということである。

マンチェスター学派にとっては、自由主義経済政策を正当化するための理論立てが必要であったのに対して、歴史学派にとっては、国家の介入を正当化するためのそれが必要だったのである。皮肉な言い方をすれば、政治に科学が「出汁(だし)」に使われたのである。しかしそれ自体は、ウェーバーにとっては何ら問題のないことであった。そもそも彼は1895年の就任演説で、経済学は政治に仕えるべきものである、公言しているのである。科学が政治に奉仕することは、ウェーバーにとって何ら問題ではなかった。問題なのは、科学の名において価値判断を下すこと、科学が科学であることを標榜したまま、政治的な決断を導くこと、つまり科学が政治の代わりを務めること、なのである。無節操な科学と、翻って無責任な政治を、彼は批判するのである。

歴史学派にとっては、国家の介入を正当化するためのそれが必要だった」の記述が歴史的事実として正しいかどうか知らない。しかし私は、「国家の介入を正当化する」という言い方が気になる。これは「国家の介入は無条件に悪い」という前提での物言いではないか。労働者の保護政策を打ち出すことが「国家の介入」になるのか、「困窮者」に社会保障を実施することが「国家の介入」になるのか。政治は科学を出汁に使ったのか、それとも科学的知見に基づき、人間が人間らしく生きるための施策を講じたのか。

科学の名において価値判断を下すべきではない、というのは一見当然のように思える。特定集団のエゴイスティックな主張を科学の名において主張すべきでない、というのは一見当然のように思える。しかし私は、これは「科学」をどう考えるかによって答えが違ってくる問題だろうと思う。すなわち「政策科学」を「科学」と認めるならば、価値判断を下すべきではない、とはならない。

また、何の「人間的感情」も持たずに、事実の認識(個人や社会の分析)が可能だろうか。もしそれが可能だとして、そのような分析(事実認識)をした人(社会科学者)に、私たちは問う。「それで?」。件の科学者は答える。「それでもなにもない。私は事実を述べているだけだ」。「ならば、あえて問う。あなたはその事実を明らかにして何も感じないのか。何も問題はないと考えているのか。」…(以下省略)

問題意識は誰でも持っている。しかし誰もが事実認識をできるわけではない。学者は専門家であるから事実認識に長けている。その科学者が事実認識を踏まえて、価値判断を下さなければ、誰が説得力ある議論を展開できるというのか。

事実認識から当為を主張して良いというのではない。事実認識と当為の峻別を強調するものは、事実認識自体の問題性を覆い隠し、なおかつ事実認識にとどまる者は、(意図しなくても)「現状肯定」(特定の価値判断)を促進するだろうということである。

 

さてシュモラーの「キリスト教の黄金律」であるが、私はこれを「現代語」に「翻訳」するならば、次のような宣言になるだろうと思う。

われら連合国の人民は、われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳および価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和および安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サンフランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。(国連憲章前文)

人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権保護することが肝要であるので、諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要であるので、よって、ここに、国際連合総会は、社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。(世界人権宣言前文)

客観的な(普遍的な)価値判断、つまり大方が合意できる妥当な価値判断は、このようなものであると考える。

*1:

細見博志「ウェーバーとシュモラー -価値判断論争の思想史的素描-」(1994)

http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/18845/1/AN00044116-18-81.pdf