浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

功利主義(2) その問題点は?

平野・亀本・服部『法哲学』(21) 

功利主義の考え方は、これまで様々に批判されてきたが、平野はこれを整理している。

①個々人の別個独立性に真剣な考慮を払っていない。

功利主義の方法は、公平原則によって個人の善観念に等しい重要性を与えるから、その意味では、個人的善の集積として得られる社会的善も個人主義的な色彩を帯びたものになる。しかし、個人的善は社会的善に移行する過程で、融合されて通約・置換が可能なものとして扱われ、損失を利益で埋め合わせる合理的計算の対象になる。個人的福利の総量あるいは平均値として導き出される社会的福利の増大がそれ自体で望ましいものとされるからである。そこでは、社会的善の享有主体は第一次的には社会全体であり、個々人から独立した抽象的実体としての「社会」が仮定されている。善についての個々人の具体的な選択は、社会的善の導出の素材として形式的に平等な配慮が与えられるに過ぎず、「社会」の側から見れば、それは効用算定の単位でしかない。「社会」のレベルでは、個々人の別個独立性が軽視され、個々人は「効用の単なる受け皿」とみなされることによって、道徳的な自律的主体としての人格の概念がなおざりにされる。

個人的善(幸福)と社会的善(幸福)について、私は前回、次の式で理解した。

TH = H(1) + H(2) + …… + H(n)

社会はn人より構成される。1人目の幸福(効用、快楽)はH(1)である。2人目の幸福はH(2)である。n人目の幸福はH(n)である。社会全体の幸福は、各個人の幸福の合計(TH)である。功利主義とは、THが増大する政策をとることである。THの増大が目的であり、H(i)は測定単位にすぎない。H(i)の質(別個独立性、自律的主体)が考慮されない。

 

②多数者の福利向上のために、少数者を犠牲にすることを正当化する。

功利主義のすすめる合理的選択は、将来のより大きな幸福のためにさしあたっての苦難をすすんで受けようとする個人の合理的選択の場合と同様に、将来における社会全体のより大なる福利実現のために、一部の諸個人の現在の福利を犠牲にすること、あるいは多数の人々の福利を向上させるために少数の人々の福利を犠牲にすることを正当化する。少なくとも、そのような犠牲を許容する。例えば、一部の人々を奴隷として使役する制度が社会全体の福利増進に役立つならば、奴隷制が是認される。…従って「社会的善」とは、結局のところ社会的支配者ないし多数者にとっての善であり、功利主義の理論は民主制の下では政治的多数者の支配を正当化するものに他ならない。

上式で言えば、ある政策(ルール)により、H(i)の一部がマイナスになったとしても、THがプラスになれば、その政策(ルール)は採用される。その意味するところは、社会的支配者ないし多数者にとっての善(幸福)の増大、あるいは被支配者ないし少数者の善(幸福)の減少(不幸の増大)である。

 

③個人的善の無批判的受容

個人的善の選択をそのままに受け入れ、前提とすることによって、個人的善への一定の方向付けないし枠づけを与えるという選択肢が奪われてしまう。(通約・集積が可能なものとして扱える個人的善はどのようなものでなければならないかという問題もある。)

功利主義は、H(i)の内容(幸福の内容)を問わない。例えば、兵器生産や麻薬売買で、誰かの所得が増えH(i)が増大すれば、それはTH(社会全体の幸福)にプラス貢献する。

 

平野は、「第4に、帰結主義的思考の目的論的性格についても、義務論の立場から批判がなされる」という。これについて、「無人島の約束」というよく知られた例をあげて説明しているが、非現実的な例でピンとこない。

功利主義は、「約束を忠実に遵守するよりも約束を破るほうが一般的福利の増進を実現する場合(A)」には、約束を破ることを勧めるというが、現実に、そのような(A)がありうるのだろうか。私には思いつかない。

 

義務論とはなにか。

義務論をわかりやすく言えば、自分が行為したいことが、だれが、いつ、どこで、なぜ、いかに行為しても文句なしと自分が意欲できる行為なら、それを道徳規則とし、その規則に従うこと、である。ここで気を付けることは、あくまで自分が意欲できるから規則とすること、あくまで規則だから行為すること、規則を作る場合「~の場合」を付けるような例外条項にせず、いかなる場合でも指令されることが妥当とすることである。(Wikipedia)

義務論者が、功利主義を批判するのは、「結果(帰結)が良ければ、それで良い」というのではなく、その結果(帰結)をもたらす手段(行為)が「道徳規則」に則ったものでなければならない、というところにあるのだろう。…結果よりも、良き意図(動機)を重視せよということか。

では、意図(動機)が良ければ、結果(帰結)がどうなろうと構わない、というのだろうか。無過失責任という考え方がある。

ある者が他人に損害を生ぜしめた場合に、その者に過失がなくても民事責任(とくに不法行為責任)を負う場合に、これを無過失責任といい、過失責任に対置される。近代法は、資本主義的自由主義のたてまえから過失責任主義を原則とする。日本の民法第709条はその例であり、無過失責任の規定は例外的である(民法717条の所有者の責任など)。しかし、近代産業の発展は、多くの危険(高速度交通機関、電気事業、石油コンビナートなど)と、そのような危険をまき散らしながら膨大な利潤を得る企業を生み出し、過失責任主義の貫徹を不適当なものとした。なぜなら、危険をつくりだした者は、それから生じた損害について賠償責任を負うべきであるし(危険責任主義)、利益をあげる過程で他人に損害を与えたならば、その利益のなかから賠償させる(報償責任主義)のが公平にかなうからである。そこで、種々の特別法で無過失責任が取り入れられるに至っている。鉱業法(109条)、「原子力損害の賠償に関する法律」(3条)などはその例であり、公害についても無過失責任が導入された。(淡路剛久、日本大百科全書

 

ちょっと適切な例ではないかもしれないが、エロ・グロ・ナンセンスで視聴率を稼げればよいとするのが功利主義の考え方であり、そんなものはダメというのが義務論の考え方であるようだ。

ちなみに、エロ・グロ・ナンセンスとは、

エロはエロティック、グロはグロテスクの略で、1930~31年(昭和5~6)を頂点とする退廃的風俗をいう。この時期社会不安が深刻化して多くの人々は刹那的享楽に走った。「ねえねえ愛して頂戴ね」という流行歌がヒットし、エロ物・怪奇物の出版が相次ぎ、盛り場ではエロサービスを売り物にしたカフェーやバーが軒を並べた。レビュー小屋では踊り子が脚を振り上げ、扇情的にズロースを落としてみせた。警視庁が、股下2寸(約6センチメートル)未満あるいは肉色のズロース着用や、腰を前後左右に振る動作の禁止を通達する一幕もあった。昨今のポルノ風俗に比べればその露出度はたわいもないが、ひどい不況、金融恐慌、倒産の続出、失業の増加、凶作による農村の一家心中や娘の身売り、左翼思想家、運動家の徹底的検挙など出口のない暗い絶望と虚無感が背景にあり、当局の取締りは、国民の左翼化よりはましということで手加減された。31年の満州事変以後の軍国主義台頭でこの逃避的流行は消された。(森脇逸男、日本大百科全書

「義務論」の立場からの功利主義批判は、④意図(動機)や手段を軽視している と要約できようか。しかし、これは、功利主義を政策(ルール)に関わるものではなく、行為に関わるものと理解しての批判であろう。

 

平野は、功利主義の問題点のまとめ(?)として、次のように述べている。

以上のように指摘される功利主義理論の問題点は、公共的利益を「最大多数」の人々の利益として捉えることの問題性を示している。個人的選好を出発点とし、方法論的個人主義をとる考え方であるが、個人的選好の集積によって多数者の選好を導き出し、その実現を公共的な利益とみなす。それによって、少数者の選好が無視ないし軽視されるという問題を孕むのである。民主制的な多数決原理の功罪にも関連する点である。法による正義の実現には、こうした多数者の専制を可能にする方途に一定の制約を課す重要な役割がある。それが、個々人の自由であり平等である基本的な権利の問題になる。

もう一度、先の式をみよう。

TH = H(1) + H(2) + …… + H(n)

これは、「個人的選好を出発点とし、…個人的選好の集積によって多数者の選好を導き出し、その実現を公共的な利益とみなす」とほぼ同じであるが、必ずしも「少数者の選好が無視ないし軽視される」だけとは言えない。「多数者の選好が無視ないし軽視される」場合もありうる。…つまり、多数者の専制を可能にするだけでなく、少数者の専制をも可能にする。必ずしも「最大多数」の人々の利益とは限らない。

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なお、土屋は次のように述べている。

「いかなる国家であれ、その構成員の多数者の利益と幸福が国家にかかわる全ての事柄が決定される際の基準となる」(プリーストリ)…ベンサムは、この言葉から「最大多数」を削除し、「最大幸福の原理」という言葉に短縮した。多数者の幸福だけが重視されるという誤解から免れるためであり、時として、多数者の幸福のために少数者の不幸が増大して、ひいては、社会全体の幸福の総量を減少させると考えたからである。ベンサムにとって、社会全体の利益は、個人の幸福の極大化を通してなされるのであって、多数者の利益と社会全体の利益のために、ある個人や少数者が犠牲になることは徹底して排除されている。つまり個人の犠牲を伴う幸福の極大化は排除される。(土屋恵一郎、岩波哲学思想事典)

ベンサムの「最大幸福の原理」は、「少数者の犠牲を排除している」つまり、少数者を犠牲にしないで、社会全体の利益を考えていることに留意すべきである。