読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

平等(1) Suum cuique 各人に各人のものを!

私たち 読書ノート

平野・亀本・服部『法哲学』(26) 

今回は、第4章 法と正義の基本問題 第4節 平等である。*1

 

平等の理念

私たちは平等ではない。容貌が違い、性格が異なり、体力、知力、芸術的才能、いずれにおいても十人十様である。人種が異なり、性別が異なり、信条も、価値観も、決して同じとは言えない。職業、地位、収入、家族関係、暮らし向きについても、人それぞれに異なり、さまざまな境遇にあるのが実情であろう。このような違いがある中で、なぜ法の下では基本的に平等な取り扱いがめざされているのか。

自由の場合と同様、封建制の下で行われていた身分階層による差別的取り扱いから人々を解放し、特権的身分を廃して市民として平等化を図ること、それが近代的平等原則の始まりであった。それがめざすところは完全な平等化ではない。今日に至るまで、さまざまな平等問題が論議の対象となってきているが、共通して含まれているのは差別である。差別が問題であるのは、それが人の尊厳を傷つけるからである。したがって、尊厳を傷つけるような差別をなくし、等しい者として扱うところに平等原則の主旨がある。

 「平等」という抽象的理念が先行するのではない。私たちが社会生活を営む中で、「それについては、差別せずに同じように扱ってくれ/扱おう」という現実的な要請があったとみるべきだろう。

人種の差異、男女の差異、思想・信条の差異、資産や収入の差異、学歴の差異、知能の差異、体力の差異、等々無数の「差異」がある。これらは「差異」であって、「差別」ではない。これらの差異が「差別」となるのは、例えば人種により差をつけるべきではないと考えられる事柄に関して差を設ける場合である(黒人はバスに乗せないなど)。

「差別が問題であるのは、それが人の尊厳を傷つけるからである」と、平野は言うが、果たしてどうか。「人の尊厳」などと言うと、「人の尊厳とは何か」という哲学的(?)議論になってしまう。そうではなく、「黒人だと、なぜバスに乗せてはだめなの? たいした理由がなければ、乗せてもいいでしょう」と言えばよいのではないかと思う。

 

等しいものとして扱うことの哲学的根拠については、①人間の自然的条件の平等を挙げる見解がある。みな概ね同じような身体的・精神的機能を持っている。あるいは少なくとも、みな同じように傷つきやすく、みな同じように有限な環境条件の下で生活している。自然的条件においては平等なのであるから、法によって平等に保護する必要があるとされる。また,②人間の道徳的人格価値の平等を主張する議論もある。身体的・精神的機能や社会的・文化的環境において差異はあるとしても、人格的存在として(場合によっては、神によって創られた人間として)、みな等しい道徳的価値を有している(神の前では平等)。それゆえに、人間として平等な権利を各人が主張しうるのである。さらに③平等な取り扱いの根拠を何らかの等しい属性に求めるのではなく、社会的目的の共有に求めるものもある。すなわち、共同社会の成員として、その形成・発展に等しい資格で参加しうる協働の条件を創り出していくためにこそ、法による平等な配慮が必要とされるのである。

別に「哲学的」根拠は必要ない。根拠、即ち私たちが納得できる理由があればそれでよいだろう。①は「根拠」というよりは、単なる事実認識であるように思われる。②は意味不明である。「人格的存在として、みな等しい道徳的価値を有している」とは、何を言っているのか分からない。「神の前では平等」と言っても、「神」は意味不明である。…等しいものとして扱くことの根拠は、③の社会的目的にあるだろう。「共同社会の成員として生きているのであれば、その件に関しては、等しいものとして扱うべきである」という当為の主張である。「その件」に関する価値判断を明示的に表現すれば合意が得られやすいかもしれない。

f:id:shoyo3:20170206201829j:plain

http://study.com/cimages/videopreview/capture_113994.jpg

 

法の下の平等

では、法の下で平等な者として取り扱うというのはどのようなことか。完全な平等化は不可能であるし実際的でもないがゆえに、法的平等の要請は、古くから「等しきものは、等しく」という形式的正義の観念によって捉えられてきた。「等しい」といえる場合は、「等しく」扱うということである。どのような点において「等しい」とするか、またどのような取り扱いを「等しい」取り扱いとするかが問題となる。3つの次元を区別することが必要であろう。

第1に、法の公平な適用という意味での平等化がある。公共的規準としての法が適用されたり適用されなかったり、あるいは法に規定された要件事実が認められるのに規定された法的効果が付与されなかったりすれば、法の支配に反する。したがって、法規に当てはまる場合には、法規に定められた通り平等に扱うということである。この意味での平等は、法の支配の要請に本来的に含まれている。

第2に、矯正的正義の概念が意味する平等がある。ある人の不法行為によって他の人に損害をきたしたり、契約関係にある当事者間の一方の債務不履行によって他方が損害をこうむったりするようなことがあれば、損害を生じさせた側に損害の賠償が命じられる。つまり、利益・不利益のバランスを回復させるという意味での平等化である。

 こまかい議論はあるかもしれないが、この通りだろう。

 

次の「分配的正義」が、いろいろ議論のあるところだ。

第3に、法の下での平等には分配的正義の求める平等もある。「各人に彼のものを」という定式で語られる分配的正義は、法制度の下で、各人に「彼のもの」といえる権利なり、義務なり、機会、資産、サービスなりをその人に付与することを要請する。「彼のもの」を彼が得るようにすることが、等しく扱うということになる。多くの場合、差別がそうしたものの分配をめぐって問題になるところからすれば、この分配的正義こそ、法による平等化の最も実質的な部分をなすといってもいいかもしれない。

問題は、「彼のもの」とは何なのかである。「彼のもの」をどのように確定するかである。

分配の対象は、…権利や義務、機会、資源、サービスなどである。厳密に言えば、権利、機会、サービスなどの正財と、義務、刑罰、租税などの負財が分配の対象になる。どのような財がそうした分配の対象になるかは、分配の種類により、あるいはまた問題となる分配の状況により、異なってくるであろう。

問題となるのは、「彼のもの」をどのように確定するか、である。これが最も争われる点であるが、基本的な考え方は、アリストテレスの言う「幾何学的均等」の要請が手掛かりになる。即ち比例的に「彼のもの」を定めるのである。

分配の基準としては、地位に応じて・年齢に応じて・功績に応じて・働きに応じて・必要に応じてなど、様々な考え方がある。例えば共同農地で共同して作った穀物の分配を考えてみればよい。収穫分を子どもと大人、良く働いた人と働かなかった人を区別することなく、頭割りで一律平等に分ける分け方もある。しかし多くの場合には、何らかの実質的な考慮を入れ、分相応になるような分け方をするであろう。共同体内の地位に応じて高い地位の人からより多くを分配する仕方、良く働き収穫に最も貢献した人からより多くを分配する仕方、あるいはまた、必要に応じて例えば大人には多く、子どもには少なく、大家族には多く小家族には少なく、他に糧を得る手段のない病弱な者には多く、そうでない健康な者には少なく、などというように。しかし、「地位」はそれ自体功績によって割り当てられることが多く、「年齢」も年功というように功績に関係する概念であり、また「働き」も一種の功績とみなされうるところからすれば、大きな違いは、「功績」による分配と「必要」による分配の間にあるということになる。これら2つが、一般的に最も多く見られる分配方式の原型であり、例えば、コンクールの優勝や資格試験・入試の合格などは功績による分配であり、生活保護補助金、研究助成金などは必要に応じた分配の例になる。

 分配的正義の求める「各人に彼のものを」が、実際には決して明確なものではない、つまりどのような平等を求めるのか(求められているのか)明確ではない。

 

「各人に彼のものを」は、wikipediaでは「各人に各人のものを」(ラテン語:Suum cuique、スウム・クィークゥェ、ドイツ語: Jedem das Seine、英語:to each according to his merits)としている。

もともとのラテン語の表現は、古代ギリシアにおける正義の理念にまで遡るもので、「各人に各人の所有すべきもの」、「各人それぞれにふさわしいものを」といった意味で了解される。(Wikipedia)

平野が「彼のもの」と言っていたのは、「彼の所有すべきもの(ふさわしいもの)」と理解すれば分かりやすい。

橋本茂は、非常に分かりやすい例を挙げている。

コンビニで二人のアルバイトが同じ販売の仕事をしており、そのうち一人は時給850円を、他の一人は時給800円を店長から貰っている。私たちの見るところ、現時点では、この時給は公正と認められているようである。その理由は、多分、前者が年上の大学生であり、後者が年下の高校生であるからであろう。それを式で表わせば下記のようになろう。(Pは人の値打ち、Rは配分されるもの)

P1(大学生)/P2(高校生)=R1(850円)/R2(800円)

ここでは、P1>P2 故に、R1>R2 であり、したがって、この不平等な分配が公正である

しかし、高校生の中には、時給800円は不公正であり、自分たちも時給850円を支給されるべきと抗議する者もいるであろう。なぜなら大学生であろうが高校生であろうが、している仕事は同じであるから。しかし、この主張は少数意見であり、受け入れられていないようである。この主張を公正の式で表わせば下記のようになろう。

P1(同じ仕事)/P2(同じ仕事)=R1(850円)/R2(850円)

ここでは、P1=P2 故に、R1=R2 である。したがって、平等な分配が公正である

結局、問題は、人の値打ちをいかに測るかである。前者は学歴(教育的投資)と年齢によって、後者は仕事によって、人の値打ちを測っている。(http://www5b.biglobe.ne.jp/~geru/page014.html

高校生の言い分は「同一労働同一賃金」の主張とみてよいだろう。

同一労働同一賃金とは、同一の仕事(職種)に従事する労働者は皆、同一水準の賃金が支払われるべきだという概念。性別、雇用形態、人種、宗教、国籍などに関係なく、労働の種類と量に基づいて賃金を支払う賃金政策のこと。…国際労働機関(ILO)では、同原則をILO憲章の前文に挙げており、基本的人権の一つとされている。また世界人権宣言の第23条において「すべての人は、いかなる差別をも受けることなく、同等の勤労に対し、同等の報酬を受ける権利を有する」と規定されている。(Wikipedia)

 

しかし、この「同一労働同一賃金」を、「同一労働であれば、同一賃金であるべきだ」と単純に受け取っても、決してうまく機能しないだろう。「同一労働」あるいは「同じ労働の種類と量」の定義は簡単ではないし、そもそも「同一労働同一賃金」が本当に望ましいことなのかどうかを検討しなければならない。

上のアルバイトの例で言えば、一見同じような仕事をしていても、「例外事項への対処能力」が、一般的に大学生の方が高いと認められるので、その点を考慮して(つまり同じ仕事をしているのではない)、時給に差をつけているのであるという店長の言い分に対抗できるか。

同一労働同一賃金」が望ましくないという理由は、いろいろな手当て(家族手当、子ども手当通勤手当、住宅手当、技能手当等々)がついていることを考えれば了解されよう。大企業と中小企業の格差、公務員と民間企業の格差、専門職業や個人事業者との格差等々…何が問題なのか、「各人に各人のものを」とか、「彼の所有すべきもの(ふさわしいもの)」とか、などと言っていて、問題は解決するのだろうか。

 

分配的正義については、財(正財)の分配方式に関して、「機会の平等」と「結果の平等」という相異なる考え方がある。前者は、財を獲得するための機会が平等に保障されることを求め、後者は機会ではなく結果における財の平等な分配を求める。比喩的に、機会の平等スタートラインの平等、結果の平等はゴールの平等といわれることもある。(P159)

機会の平等と結果の平等は必ずしも両立しないというわけではない。なぜなら、まずは競争させて、ゴールしたあと平等に扱うということもできるからである(しかしその場合には、何のための競争だったのかという疑問が生じるが)。しかし多くの場合には、財の分配方式として、機会の平等によるのか、結果の平等によるのかが選択される。そしてその場合には、機会の平等功績に応じた分配につながり、結果の平等は必要に応じた分配に結びつく。「結果」はしばしば、最終的な満足なり利益状態なりを意味するからである。

このような財の分配方式を社会全体にわたってみた場合、「機会の平等」は自由競争を原則とする市場システムを介しての財の分配に、「結果の平等」は再分配を行なう福祉国家のような統治機構を介しての財の分配に多く見られることがわかる。分配的正義と平等をめぐり相対立するさまざまな見解が出てくるのはここからである。市場的分配か、政治的分配か。主として機会の均等によるのがいいのか、結果の平等を基本と考えるべきであるのか。

私は「まずは競争させて、ゴールしたあと平等に扱う」という考え方を発展させたら面白いのではないかと思う。それは何かというと、「競争する。結果に応じて、複数の報酬を与える」という仕組みである。報酬は金銭に限らない。大きな報酬は名誉である。インセンティブは金銭に限らないということにもっと注目して良いのではないかと思う。

私は、「機会の平等」も「結果の平等」も必要だと思うが、ルール制定/改定のためには詳細検討が必要だろう。

 

先ほどのSuum cuiqueの話であるが、橋本茂によると、

Suum cuique は、ドイツ語では、Jedem das Seine と訳されると上に書いた。1998年、この言葉を用いて、ノキアが、ドイツで、携帯電話販売の宣伝をした時、その使用に対し、ユダヤ人団体が強く反対した。実は、この言葉はユダヤ人にとって、忌むべき言葉のひとつである。この言葉 JEDEM DAS SEINE は、ユダヤ人を多く含む56,000人以上の人が殺されたブーヘンヴァルト強制収容所の鉄格子の正門に刻みこまれていた。この言葉「各人に各人のものを」は、「《優秀なる》ドイツ 民族には繁栄を、《寄生虫である》ユダヤ民族には死を」を意味していた。そして、ナチス・ドイツではこれが正義であった。当然、ユダヤ人にとっては最大の不正義であった。まさに、「力は正義なり」(Might makes right.)である。(http://www5b.biglobe.ne.jp/~geru/page014.html

「各人に各人のものを」は、このように解釈される余地があるということである。

 

Gate of the KZ Buchenwald ("Jedem das Seine")/Pascal Rehfeldt

f:id:shoyo3:20170206202818j:plain

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6a/Gate_KZ_Buchenwald.jpg

*1:「市場の失敗」の関連で、「外部性」と「公共財」について詳しくみていこうと思っていたのですが、本書から離れすぎるので、別の機会に譲ることにします。