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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

哲学ではなく、自然学の対象として「心の問題」に取り組む

リアリティ 読書ノート

木下清一郎『心の起源』(5)

心とどう取り組むか

不用意に心の問題に足を踏み入れても道を踏み迷うばかりであろう。道を進むには何らかの知恵が必要になる。いまここで探ろうとしているのは、「心とは何であるか」を理解するというよりも、「心をつくり上げる」という道である。これはちょうど、私たちが持っていた数の概念をいったん脇に置いて、数学基礎論が数を新たに構成していったのと同じように、心の概念をいったん脇に置いて、心を新たに構成し直してみようとする立場である。但し、数学基礎論における数の構成が、すでにあった数体系との整合性も考慮しつうなされたように、心の構成も現実の心を無視することはできないのはいうまでもない。

心の問題に取り組むのに、「心とは何であるか」を問うのではなく、「心をつくり上げる」という発想は面白い。数学の哲学において、「構成主義とは、数学的対象はわれわれの思考活動から独立に存在するものではなく、一定の証明手続きによって構成されたものであると考える立場」(大辞林)とされるが、類比的に、「心は、一定の証明手続きによって構成されたもの」と考えてみようというわけである。

 

心の問題に入ろうとして、自然科学は心を扱えないし、心が心を扱うことは自家撞着であるという困難に直面した時、心を一つの公理系としてうち立ててみようとする意味はここにある。公理系として発展させてみたときの心のふるまいの中に、自然科学として実証可能なものがあらわれたとき、それは一種の「露頭」[岩石や鉱脈の一部が地表に現れている所]であって、そこでは心の自然科学が成り立つであろう。しかし、実証できない部分もまた地下の鉱脈として連なっていると考えてはどうであろう。

公理系とは、どういう意味か。

一つの理論体系の出発点となっている公理の集まり。それぞれの公理は互いに独立し、かつ矛盾のないことが必要。公理群。(デジタル大辞泉

公理系とは,公理的体系の略称であって,とくに自然科学的学問を体系づける方法のひとつである。そのもっとも古い,しかも有名な例はユークリッド幾何学の体系であるが,20世紀に入って,いっそう明確な性格づけが与えられるようになった。その基本的な着想はつぎのようなものである。まず,一定の学問体系において基本的前提と考えられる命題の一定の組を選び出して,それらを公理 axiomとよぶ公理から一定の推理(推論)方法によって得られる結論を定理 theoremとよぶ。(世界大百科事典)

 心を「公理系として構成する」というのは、心に関する基本的前提を公理とし、そこから推論によって得られる結論を自然科学として実証する、ということだろうか。いずれにせよ、「実証できない部分もまた地下の鉱脈として連なっている」ことを忘れてはならないだろう。これは「意識/無意識」の解明と同じことのように思える。

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https://dsx.weather.com//util/image/w/observablecropped.jpg?v=ap&w=980&h=551&api=7db9fe61-7414-47b5-9871-e17d87b8b6a0

 

木下は、これからの議論を概観している。まずは、3つの世界の仮説である。

物質世界と生物世界のほかに、もう一つ心の世界があって、それらは順々に入れ子構造をなしてはめ込まれているというのが、これから検証しようとしている仮説である。私たちは生物世界というものが、物質世界のなかに開かれたことを知っている。生物世界は物質世界の支配則に従いながら、生物世界独自の法則性をつくり上げた。もし、心の世界というものが、生物世界のなかに開かれるとするなら、それは生物世界の支配則に従いながらも、心の世界独自の法則性をつくり上げねばならない。その法則性を知るのが私たちの課題になる。

木下の言う3つの世界は、<物質世界⊃生物世界⊃心の世界>と表記すれば覚えやすいだろう。私は以前、次のイメージ図をあげた。(心とは何か 瓢箪鯰 参照) 

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http://ulliroyal.deviantart.com/art/ICE-FLOWER-67718994

 

木下の言う「入れ子」とは、同形物の反復ではなく、物質世界から生物世界が「析出」され、生物世界から心の世界が「析出」されるイメージではなかろうか(まだ分からないが)。

 

いま新しい世界を開くといった。ある一つの世界が開かれるときには、その始まりには必ずある種の特異点、もしくは不連続点がおかれるということがある。物質世界の始まりにはビッグ・バンと呼ばれる特異点があったことや、生物世界の始まりに高分子(つまり遺伝子)の自己触媒による自己複製能の出現という特異点があったことが、これをよく示している。

木下の言う「特異点」は、「不連続点」の意味に理解しておこう。この意味では、何であれ「物事の始まり」は特異点である。「高分子(つまり遺伝子)の自己触媒による自己複製能の出現という特異点があった」という表現は、そういう客観的事実があったということではなく、「高分子の自己触媒による自己複製能の出現」という事実を、生物世界の始まりとみなす(解釈する)ということだろう。「特異点があった」というのは、修辞的表現である。

 

もし、心が一つの世界をなしているならば、その世界もまた他の世界と同じく、ある特異点をもってはじまらなくてはならないし、それを原点として心の世界が自己発展を遂げねばならない。それでは心の世界を開くべき特異点とは何であろうか。

心の世界の出現を、生物世界の出現と類比的に考えるというのは、面白い。(それが納得できる説明になっているかどうかは未だ分からないが)

 

「記憶」の自己複製が心の世界を開く特異点となっているであろうというのが、これから主張しようとしていることである。…様々な心の働きを遡っていくと、その源流には必ず記憶が現れてくること、また記憶を出発点においてみると、そこから心のその後の将来の展開が糸のほぐれるように見えてくること、の二つが主な理由になっている。意識や主体ということさえ、記憶がなければ成り立たなかったのではなかろうか。

右に挙げた仮説のもとに、これからの考察で挑もうとしているのは、こういうことになる。

第一に、心の世界を開く特異点を見いだすこと

第二に、その特異点から新たに心を構成すること

である。それはつまり、心の世界を一つの公理系として開こうとしていることに他ならない。

 

「記憶」の自己複製が心の世界を開く特異点となっているというのは、記憶の自己複製をもって、心の世界の起源とみなす(解釈する)という意味だろう。

 

木下は、この章(第1章 問題のありか)をまとめている。

生物学から見ると、生命とは遺伝子の複製を最優先の目的としてあらわれたもの、としかいいようがないところがある。この見方をひた押しに押していくと、生命の活動のすべてはこの目的に奉仕するためということになってしまう。生命活動の一つである心の働きもまた、遺伝子の奉仕者に過ぎなくなる。

意識なき物質の集合体が、自己複製をはじめたところで、それが「目的」を持つとは言えない。自然科学としての生物学は、そんなことを主張できないだろう。「目的」という言葉の使い方には注意が必要だ。

 

自然科学の推論では何よりも客観を重視せざるを得ない。…自然科学による限り、生命の活動を因果関係をたぐって物質反応にまで還元することはできても、心の働きというものは主観にほかならないとして、因果関係の外に置かれるほかはない。それでは心の問題は始めから自然科学に入ってこない。…この困難から抜け出すには、生物の世界と心の世界を、いままで見えていなかった新しい関係におくほかないように思う。そこで一つの仮説を立てた。それは、生物世界とは別個の世界として心の世界がある、としてみようという仮説である。つまり、物質世界の中に生物世界という次元を異にする世界があって、そこでは物質世界とは別の働きがあらわれているように、生物世界のなかにはもうひとつ心の世界というものがあって、その次元では生物世界とは違って遺伝子の支配とは別個の働きがあらわれていると考えるのである。但し、これは同時に生物学をも超え出てしまうという問題を抱えたことになるもっとも一面では、これで自然科学の制約から自由になったということでもある。

生物世界とは次元を異にする心の世界を定位してその解明を試みようとすることは、生物学/自然科学を超え出てしまうかもしれない。しかし私にとっては、心の世界が説得力をもって解明されればよいのであり、自然科学にとどまらなければならないというものではない。

 

その他にもまだ問題がある。たとえ自然科学の制約から自由になれたとしても、心とは何であるかを知ろうとするのが心自身であるという自己言及の矛盾からは、なお私たちは自由ではない。しかし、ここに数の世界という一つのモデルがあって、それにならって心の世界をつくり上げることができる。数の世界では、数とは何であるかをいったん脇に置いて、自然数から数の体系をつくり上げることが出来た。数学とは自然科学を超えた次元にある学問領域であることは、心の探索が自然科学を超えた次元の領域をも含まざるを得ないという先の問題と、恐らく無関係ではないであろう。こういう考え方で心の体系をつくりあげようとするには、心の原点が何であるかをまず見出さねばならない。こうして次の探索は、心の原点を求めることはできるのか、に向けられることになった。

自己言及の矛盾がどういうものかはよく分かっていないのだが、人間が人間のことを知ろうとしても悪くはないだろう、その解明の中で「矛盾」が生じてくれば、それについて考えればよい、といった程度に考えておけば良いのではないかと思われる。

木下は、先ほど「心の世界を開く特異点」と言っていた。ここで言う「心の原点」とは、この特異点のことだろうか。