浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

種論争

積読本の処分メモ - 三中信宏系統樹思考の世界』(下)

分類思考と系統樹思考、クロスセクションとタイムシリーズ」(2023/5/17)の続きである。

いつもの通りコメントしようと思って書き始めたのだが、中途半端な文章となってしまったので、一言コメントにする。

 

形而上学アゲイン-「種」論争の教訓、そして内面的葛藤

進化学や分類学の近年の哲学的論議では、例えば「ダーウィン唯名論者だったのか?」とか「種(species)は実在するのか?」というような、言葉の正しい意味での形而上学的な問題が繰り返し論じられている。様々な対象物の進化や系統を論じる上では、適切な形而上学の設問は今なお論じる価値があると言うことである。

ダーウィンは、種(個体群)を、実体ではなく概念と捉えていたのかもしれない。

種の実在云々は、形而上学の問題か科学哲学の問題か。

進化学や系統学にとって、「存在」を論じることは極めて重要だと私は考えている。例えば、「種」が実在すると言い切っていいのかどうかという問題は、まさに形而上学の問題である。この「種問題」は、それが生物学の問題であることを超越して、形而上学の問題だったからこそ、未だに解決していないわけである。ある問題が個別科学としての生物学のレベルで未解決のまま放置されているとき、そこには生物学哲学が取り組むべき興味深い問題が潜んでいると見るのが自然だろう。

種問題を「存在」の問題とするなら「形而上学の問題」、「実在」の問題(抽象のレベルの問題)とするなら「科学哲学の問題」か。(区分する必要なし?)

進化する実体、伝承される系譜、そして変化する系統が、存在論的にどのように意味付けできるのかという問題設定は、新しい形而上学を求めている。進化的思潮が登場する以前の旧来の形而上学を補足する形で、進化的な形而上学を構築するのは十分に可能なことだろう。種問題もまた、マイケル・T・ギゼリンが数十年かけて論じてきたように、新しい形而上学の構築を必要としていた。長年にわたる種論争の集大成である彼の著書『形而上学種の起源』(1997年)は、タイトルそのものがすべてを物語っている。

進化の「進」は時間を意味し、「化」は変化を意味するなら、「進化」とは「時間とともに変化する」という意味となり、「優秀なもの、劣ったもの」という意味はない。

新しい形而上学? 進化的な形而上学

種問題を巡る論争の錯綜ぶりを見るにつけ、「肉体化」した形而上学が科学者の意識に及ぼす深い影響を考えないわけにはいかない。上述のように、「種」・「属」・「科」といった様々なレベルの分類カテゴリーが認知心理的なルーツを持つとき、「種は実在する」という言明がいかなる意味で発せられているのかは、注意深く論じる必要がある。それは必ずしも、データに基づく経験的言明として提示されているとは限らない。むしろ、分類学者の信念ないし願望がそこにある可能性も否定できない。

肉体化した形而上学

種・属・科といった様々なレベルの分類カテゴリーが認知心理的なルーツを持つということは憶えておきたい。

「種」の実在性を支持する心情とは何か-それは時間的に変化する「もの」が、なお同一性(identity)を保持し続けるだろうという、本質主義の再来である。進化的思考以前の形而上学実念論的立場に従えば、ある「本質」を共有する群は強い意味で同一性を保つと主張する。しかし、進化的な思考をする限り、本質を仮定することはご法度だから、現代進化学の舞台台本からは本質という言葉は消え失せる。ただ、ディヴィッド・ウィギンズらによる現代の分析哲学的な存在論論議が示している通り、ある群が時空的に「同一」であるという主張は、どうあがいても本質主義的な結論に到達してしまうようである。つまり、ある群が時空的な同一性を維持するためには、何らかの「本質的属性」を共有し続けなければならないと言うことである。これは進化的思考と正面衝突する。

本質(主義)という言葉は紛らわしい。同一性を保持すると考えるか否か、が論点である。「意識」の問題が絡んでくる。

進化的な思考を「時間とともに変化するもの」という意味に捉えれば、「同一性を保持しない」というのはトートロジー(同語反復)である。

無意識のうちに時空軸を貫く群の同一性を希求する思考は、ジョージ・レイコフがいう「心理的本質主義」の発現と言えるだろう。たとえ、進化的思考が理屈の上で本質主義は間違いである(「種は実在しない」)と主張したとしても、肉体化された心理的本質主義はその逆(「種は実在する」)を心情的に支持しているからである。

「肉体化された心理的本質主義」とは、先ほどの「認知心理的なルーツを持つ」というのと同じ意味か?

私たちは、生物としての人間であり、進化の過程で様々な肉体的特性と心理的特性を獲得してきた。だから、心理的本質主義者としてのヒトと進化的思考者としてのヒトとは、表層的には矛盾するのだが、深層的には各自がそれぞれ折り合いをつけていくしかないのだろうと私は思う。

むしろ、自らが心理的本質主義者であることに気づかずに、さまざまな形而上学的主張を経験的事実(あるいは原始仮定)として言い続けることにこそ問題があるのだろう。私たちは本質主義に関してナイーヴであってはならない。

「折り合いをつける」というのは、思考放棄のような気がする。

心理的本質主義」や「形而上学的主張」も、もっと科学的な言葉で明晰な分析が可能なのではないか?

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