浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

無の世界

ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』(11)

今回は、第3章 無の小史 の続き(p.90~)である。

https://owlcation.com/humanities/Why-Something-Vs-Nothing

 

引き算論法

「無」を否定する論法に、(1)観察者論法と(2)容器論法があるということだったが*1、ここでは「無」を肯定する「引き算論法の説明がある。

「引き算論法」には、3つの前提がある。①有限性、②偶発性、③独立性である。

有限性…世界は、有限個の事物(人間、テーブル、イス、岩など)を含む。

偶発性…これらの事物は、いずれも偶発的なものである。即ち、その事物は現に存在しているが、存在しなかったかもしれない。

独立性…「あるものが存在しない」という事態が、ほかのものの存在を必然的に伴うことはない。

これら3つの前提が揃えば、全く何も存在しなかったかもしれない、という結論を引き出すのは容易だという。

世界から、その中にある偶発的な事物を一つずつ、ただ差し引いていけばいい。そうすれば、最終的に完全な空っぽ、純粋な空虚に至る。

引き算論法の各段階は、あり得る世界同士の関係について述べるものでもある。即ち、もしn個の事物がある世界があり得るならば、n-1個の事物がある世界もあり得るということだ。引き算プロセスの最後から2番目の段階ともなれば、そこにあるのはわずか一粒の砂からなる世界かもしれない。そんなわびしくて小さな世界があり得るならば、その一粒の砂を消し去った世界もあり得る。それが無の世界だ。

ホルトは、有限性と偶発性の前提は問題なさそうに見えるが、独立性の前提は怪しい、即ち「いくつかの根本的な物理学的原理、つまり一連の保存則に反する」を論拠として、引き算論法は成り立たないと言っている(ようだ)。

しかし、引き算論法が「世界から、その中にある偶発的な事物を一つずつ、ただ差し引いていけばいい。そうすれば、最終的に完全な空っぽ、純粋な空虚に至る」という主張ならば、「世界から、その中にある偶発的な事物」が消去されるだけで、「世界=容器」が残るではないか。容器は引き算論法で消去できないだろう。

 

極限としての絶対無

三つの論法(観察者論法、容器論法、引き算論法)のどれにおいても、絶対無は存在の世界から接近できる、いわば「極限」としてイメージされている。

ベルグソンは、想像力で世界の中身を消滅させることによって絶対無に近づこうとしたが、 結局自分の意識が残ってしまった[観察者論法]。ランドルは同じような想像上の手段を試したが、やはり目標に届かず、がらんとした空間の容器に行き着いた[容器論法]。そして二人とも、絶対無というものはないと結論づけた。

引き算論法は…一連の論理的なステップを踏むことで無に到達しようとしたが、…世界の存在論的な全数調査において、ものの数を一つずつ着実に減らしていって、ゼロまで到達できるかは決して定かではない。

…ということで、次のような教訓らしきものが得られる。「何か」から「無」にたどりつくのは簡単ではない。その取り組みでは、無に限りなく近づいていくのが精いっぱいで、無という極限にはどうしても到達できないし、どうしても何らかの存在の余り物が、「無限小」と言えるほど僅かではあるが残される。だがそれも当然だろう。結局のところ、「何か」から「無」にうまく到達できれば、存在の謎が逆向きに解明されることになる。あるものから別のものへと論理的な橋が架けられたなら、おそらく双方向の行き来が可能になることだろう。

無を極限として観念することには「飛躍」がある気がする。つまり論理的な橋が架けられていない(?)。

なお、容器論法や観察者論法は、引き算で事物をすべて消去できたとしても、容器や観察者を消去できないので、無とは言えないと主張するものである。(容器や観察者を引くことはできない)。

 

絶対無の定義(無の世界)

「何か」と「無」との越えられない概念上の境界線を跨ごうとして四苦八苦するより、存在の世界を忘れて無に神経を集中する方が有意義かもしれない。絶対無は、矛盾に陥ることなく理路整然と記述できるだろうか?もしできるならば、絶対無は正真正銘、形而上学的にありうるものだという私たちの確信を強めてくれるかもしれない。

ホルトはこう述べて、絶対無の定義を試みているようだ。その説明は、私にはよくわからないので、引用&コメントを省略する。

ただその一部だけとりあげてみると、

非常に多くの懐疑的な哲学者が信じてきたことに反して、絶対無は正真正銘、論理的にあり得る事柄なのだ。…論理的に言えば全く何も無かったのかもしれないのだ。このありうる現実を「無の世界」と呼ぶことにしよう。ただし、それはいわばあくまで存在論的な慣例にのっとった「世界」だということを、くれぐれも忘れないように。ほかの可能世界とは違い、「無の世界」には時空もなければ、いかなる容器も場所も舞台もない。

「絶対無の世界」が論理的にあり得るとして、そこには「時空もなければ、いかなる容器も場所も舞台もない」のだとしたら、そこから何が言えるのだろうか。

「無の世界」は、「最も単純であり、最も恣意性がなく、最も対称性が高い」と言う。…全く何も無いのだから、何も言えず、かつ何でも言える奇妙な世界である。

 

本章の最後にホルトはこう述べている。

しかし、もし「無」がそれほど素晴らしいならば、なぜ「無」は現実を賭けた勝負で「存在」を打ち負かさなかったのだろう? 考えてみれば、「無の世界」が持つ長所は多岐にわたり、否定しがたいことがわかるが、そのことはかえって存在の謎を深める。

私にはそんな気がした。と思いきや、2006年のある日、全く思いがけない手紙を受け取った。それはこう告げていた。「存在の謎などない

以下、第4章 偉大なる拒否者 に続く。