浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

オートポイエーシス、流体のスナップショット

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(41)

今回は、第4章 機械としての生命 第4節 さまざまな力学系モデル の続き「オートポイエーシス・システム」(p.217~)である。

部品を一つの機械に組み上げる時に、我々はその機械の目的を意識せざるを得ない、機械に目的を与えるのは、製作者である人間である。それに対して、生物がその発生過程において自らの身体の輪郭を構成していくとき、部品を組み合わせて行く目的は外在的な誰かが与えるものではない。「だからといってその生物自身が自分の身体を組み立てるわけではない」と思われるかもしれない。そこで言うべきことは組立途中の機械はまだ機械ではないが、発生途中の生物は既に一個の生物だということである。生物は、発生途中のそのときそのときにおいてひとまとまりのものとして何らかの行動を行うことで、自らの身体を自ら意味づけている。この点において、発生過程であっても生物自身の視点からその合目的性を理解することが必要なのである。

「発生途中の生物は、既に一個の生物である」…発生途中であろうが何であろうが、生物は、既に生物である。

「生物は~何らかの行動を行う」…「行動」という言葉は、生物を前提している。無生物なら、行動という言葉は使わない。

自らの身体を自ら意味づけている」…生物が自他を区別しているとしても、まずは観察者の視点からだろう。意味づけているというのは、「意識」を前提している。「身体を意味づける」というのは、どういう意味だろうか。

機械との対比で「生物」を考える前に、「生命と非生命」について考える必要があるのではないか。

その生命自身に即して生命を理解することがいかにして(果たして)可能か、ということが本書の大きなテーマである。これまでの議論のなかで示唆してきたことは、生命とは、単に増殖するだけではなく、自他の区別や意味づけをすべく、自分自身の目的のもとに行動する主体だということであった。あるシステムが「ひとまとまりのシステム」だと言えるためには、それ自身の主体性を前提とせざるを得ないのである。

この段落では、「生物」ではなく「生命」という言葉が使われている。山口はどういう使い分けをしているのだろうか。

「その生命自身に即して生命を理解する」ということがどういうことなのか、未だよくわからない。

山口は、おそらく上記引用で赤字にした部分が言いたいことなのだろう。「生命とは、単に増殖するだけのものではない」と言うのはその通りだと思う。

しかし、「自分自身の目的のもとに行動する主体」と言うのは果たしてどうだろうか。「目的」という言葉がまず引っ掛かる。「生命」がなぜ「目的」を持っていると言えるのか。「人間」でさえ「生きる目的」がわからない(統一見解はない)にもかかわらず、「人間ではない生命」がなぜ「目的」を持っていると前提できるのだろうか。

「行動」や「主体」という言葉にも引っ掛かる。この言葉には、その生命は「意識」を持っているという前提がある。しかし、「生命」が「意識」を持っているのか否かは、未解決の問題ではないか。

このようにコメントしてきて、私は「ウイルスという存在」について、よく検討しなければならないと強く思う。

台風の基礎知識 https://www.bousai119.or.jp/media/kiji.php?n=359

台風は、自分で自分自身をつくりだすというサイクルを反復している!?

 

山口は、「こうした生命観はオートポイエーシス・システムを思わせる」として、以下オートポイエーシス・システムについて検討している。その前に、吉岡洋のオートポイエーシスの説明を見ておこう。

マトゥラーナ(1928―2021)とバレラ(1946-2001)が提唱した、新しい自己組織化理論。細胞、神経系、生物体などが、自分で自分自身をつくりだすというサイクルを反復することで、自律的に秩序が生成されるようなプロセスをいう。…オートポイエーシス特徴は、システムが閉じていること、つまり外部からの入力も出力もなしに、再生産が行われることである。いいかえればそこでは、自己言及性のもつ積極的・産出的な働きが注目されているといえる。(吉岡洋、日本大百科全書

山口は次のように説明している。

細胞は、自らの構成素である細胞膜や核、各種の細胞内小器官や高分子(核酸やタンパク質や糖や脂質)を絶えず生み出し続けており、細胞は自らの境界をそうした産出活動によって自ら区分していく。産出関係は循環を成しており、核酸からタンパク質が作られ、タンパク質は糖や資質を加工し、また核酸の再生産も行う

この説明は、吉岡の「細胞、神経系、生物体などが、自分で自分自身をつくりだすというサイクルを反復する」という説明のうち、「細胞」に関してより詳しく説明していると見ることができよう。ここで「自分」という言葉は「意識ある主体」を前提しないだろう。「細胞の構成要素が、細胞を生成する。このサイクルが反復する」というところが肝(きも)である。(フラクタルマンデルブロー集合が思い浮かぶ)

このように、自らの構成素を絶えず生みだし続ける循環的なシステムが、オートポイエーシス・システムなのである。こうしたシステムの輪郭は、産出関係の循環によって、システムそのものによって規定されている。細胞を観察すると、明確な輪郭を持った様々な部品(膜や細胞小器官)で構成されているように見えるが、それらの部品は常に新しい原子や分子に置き換えられていくのであって、そうした見え方は、常に作動している動的で循環的なプロセスの一瞬を切り取ったスナップショットのようなものなのである。

細胞ひいては個体や人間も、原子や分子などの流体のスナップショットであるという見方に、私は以前より惹かれている。この見方に関しては、いずれ詳しく検討したい。

こうした生命観は、細胞レベルだけでなく、例えば、我々人間のような複雑な多細胞生物についても当てはまる。…私が少年の日の私と同じ私だと言えるのは、私の同一性が、物質の同一性ではなく、常に物質を代謝し自らを構成し続けるプロセスの同一性だからである。…単なる物体が「同じ」であり続けるのは、変化しないことによってである。それに対して生命の同一性は、変化し続けることで同じであり続けるというものである。オートポイエーシスの生命観はこうした生命の特徴を良くとらえたものである。

「生命の同一性は、変化し続けることで同じであり続ける」…私はこういう(修辞的な?)言い回しに、それはどういう意味か、何を言いたいのかと考えてしまう。

「単なる物体」にしても、原子レベル、素粒子レベルで見た場合、「同じであり続ける」ことは可能なのだろうかと思う。そして「生命」が原子・素粒子で構成されているとしたら、「生命の同一性」とは何か、ますますわからなくなる。

オートポイエティック・マシンは、以下の4つの点において、人間がある目的のために製作する通常の機械とは異なっているとされている(マトゥラーナ&バレラ)。

  1. 自律的である。通常の機械は、その機械自身とは異なる何かを生産するためのものなのに、オートポイエティック・マシンは絶えず自分自身を産出し続けることで自分自身を維持する
  2. 個体性(individuality)。通常の機械の同一性は観察者の視点から見た同一性であるが、オートポイエティック・マシンは観察者とは無関係に自分自身を産出するのだから、それ自身として一つの個体であり、観察者とは独立した同一性(identity)を持つ
  3. オートポイエティック・マシンは単位体(unity、ひとまとまりのもの)であり、自らを産出することで自分の境界を自分で画定する。それに対して通常の機械の場合、その輪郭(どこまでが「ひとまとまりとしての機械」なのか)は観察者が決める。
  4. オートポイエティック・マシンには入力も出力もない。

1)「細胞の構成要素が、細胞を生成するというプロセスが反復する」として、それを「自律的」と呼びうるだろうか。「流体のスナップショットが一定時間相似である」として、それを「自律的」と呼びうるだろうか。

2)仮にオートポイエティック・マシン(自己創出機械[自己創出メカニズム])が「同一性」を持つとして、それを「個体」と呼びうるだろうか。依然として、集団の一部分であるとも言えるのではなかろうか。

3)「ひとまとまり」は山口の強調するところであるが、これは①&②を言い換えただけのように思える。自己創出メカニズム(オートポイエティック・マシン)も、「観察者」(人間)が決めているように思える。

4)山口は、河本英夫を引用して説明している(?)が、何を言っているのかわからない。