浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

分子機械

積読本の処分メモ - 野田晴彦「分子機械の化学」

積読本を処分するにあたり、ちょっと気になった部分をピックアップしておこう。(情報が古いかもしれない)

遺伝の基本の物質が核酸であるあることが確立すると、生物学は化学と地続きになった。生物を構成する物質は特別なものではあるが他の物質と連続のもので、全く別のものでないことは多くの研究の結果徐々に確立されてきたことであるが、最も不思議な現象である遺伝を担当する物質が核酸であることが証明されると考え方の流れは大きく変わった。化学は既に物理学と連続になっていたから、自然界を一貫して捉える視野が持てることになった

生命論は、精神世界(宗教/哲学)の議論から物質世界(自然科学)の議論に大きく軸足を移したということである。ただ、「自然界を一貫して捉える視野が持てることになった」というのは言い過ぎだろう。「自然界」に「生命」を含めれば、そのように断言することはできない。

全く不思議と思われていた現象に対して、それを担当する物質が発見されると、その物質がどんな方式で働いているかという詳細がまだ分からなくても神秘ではなくなってしまう。それが何回かあると生物は分子機械であるということにもなる。

「ある現象を担当する物質」というが、「担当する」という言葉の意味が不明確である。当該現象を十全に説明する物質であるのかどうか。せいぜいが「ある現象に関連する物質」と言った程度のものではないか。

「その物質がどんな方式で働いているかという詳細」が分らなくても「神秘ではなくなる」というが、私はその「物質の働き方の詳細に神秘が宿る」と考える。これは野田の言葉を使った言い方で、私ならこれを「物質の働き方をどのような観点から捉えるかによって理解の程度は異なる。私たちにはまだまだ分からないことが多い」と言うだろう。「それが何回かあると、生物は分子機械であるということにもなる」というのも、非論理的な文章のように思える。生物が分子機械であるということの論拠が不明である。

最も基本的な問題…例えば、物質をどのように組み合わせれば生命と呼べるものになるかということは分からない。

物質の組み合わせ方の問題だろうか? 現在は不明だが、何らかの形で物質を組み合わせれば、「生命」と呼べるものになるという、前提そのものが要検討事項だろう。

http://www.futureconverged.com/Home/articleType/ArticleView/articleId/497/Self-Replicating-Machines.aspx

遺伝の情報を具体化する機構があって初めて遺伝の情報は意味を持つので、具体化されなければ単なる形の多様性に過ぎない。現在の遺伝情報翻訳機構はあまりに複雑で偶然に発生することなどとても考えられない。ここでも最初は簡単なものが時間とともに進化したという議論は安易に行われるが、現在地球上の生物が全部同じ機構を使っているということは進化があまりなかったことだし、変更の可能性を否定しているようにも思われる。

私は「生命の起源から現在の生命のあり方までの変遷の歴史」について無知であるので、上の文章にコメントしようがない。(進化とか退化とではなく「変遷」)

こんなにもわからないことだらけなのに生命現象は物質の集合の示す性質に過ぎないと考えて差し支えない。…そうだとすると、生物の一種であるヒトの生理的機能の一つである脳の働きも物質の性質に過ぎまいと考えても不思議ではない。

「生命現象は物質の集合の示す性質に過ぎない」という考えは興味深いが、その論拠は何だろうか?

生命とか精神を物質に直接結びつけることにはまだ反対の人が多いが、物質的な基礎に関する知識が増してゆくことには誰も反論しない。でも、何か物質以外のものが残るのか、残らないのか

結局のところ、「生命」とか「精神」が何であるかは、まだ分からないということではないか?