浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「価値観の違い」で済まして良いのか?

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(15)

今回は、第4章 「価値観の壁」をどう乗り越えるか 第6節 価値主張のクリティカルシンキングの手法(前回の続き)である。…価値観が対立したらどうしようもないのか? 価値観が多様化しているからといって、相手の価値観がおかしいと思っても尊重しなければならないのか? 

伊勢田は、「全面的に価値主張に関する懐疑主義を採用したり、逆に全面的に懐疑主義を放棄したりしない限りは、価値主張についてもクリティカルシンキング(CT)は可能である」と言い、価値主張のCTに、以下の4つの視点が必要であると言っていた。

(1) 基本的な言葉の意味を明確にする。

(2) 事実関係を確認する。

(3) 同じ理由をいろいろな場面にあてはめる。

(4) 出発点として利用できる一致点を見つける。

価値主張の事例は、「生きる意味」である。

[式4-4](大前提)有意味な生活を送るのは望ましい。(小前提)Xという生き方は有意味である。(結論)Xという生き方をするのは望ましい。

価値前提は、「有意味な生活を送るのは望ましい」である。では、有意味な生活とは何か。(以上、「生きる意味」のクリティカルシンキング 参照)

今回は、(2)以降である。

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(2) 事実関係を確認する

定義がはっきりしている言葉の場合、話は簡単である。「有意味」という言葉の定義が確定すれば、三段論法の小前提、すなわち「Xという生き方は有意味である」という主張が正しいかどうかは、Xがその記述を満たしているかどうか、という事実の問題なる。

価値観の相違とよく言うけれども、一見価値観で対立しているように見える二人が、よく論じあってみると、実は基本的な価値判断については一致していながら、事実の問題について対立していた、ということは良くある話である。 

 伊勢田は、環境問題の例をあげている。

「人間のことだけを考えるのはやめて、自然生態系そのものを大事にするべきだ」といった倫理的主張をよく耳にする。この主張は一見「人間だけを大事にするべきだ」という倫理的主張と対立するように見えるが、よく聞いてみると、「生態系を大事にしないと、人間も滅んでしまうから」という理由で「生態系そのものを大事にしよう」と主張している人も多いようである。この場合、両者の対立は「生態系そのものを大切にする態度を身につけないと本当に人類は滅ぶのか」という、事実に関する問いに還元できることになる。こういう場合、きちんとお互いの主張をつきつめないと何が対立点なのかを見誤ることになる。もちろん、生態系の維持と人類の生存の関係がどうなっているかというのはそう簡単に答えられる問題ではないので、事実に関する対立に還元したからといって調停するのが簡単になるわけではない。しかし、意見の調停に際して見当はずれの努力をするのは避けられるだろう。

倫理問題を事実問題に還元する。…この場合の還元とは、「多様で複雑な物事を何らかの根本的なものに置き直し、帰着させること」(大辞林)の意に近いと思われる。これは、ある倫理的主張とみえるものを、「それはどういう意味ですか? なぜ、そう思うのですか?」と、より詳しく聞くことによって、(価値観の対立/価値前提の違いを強調しようとするのではなく共通の価値前提を導き出し、そこから冷静に事実問題として議論することの重要性を言っているものと考える。

共通の価値前提を導き出すことは難しいことかもしれないが、「なぜ?」と問うことを繰り返さず、すぐに「価値観の多様性」などと言って済ませるべきではないと思う。当面の問題に関する価値前提で合意することが可能ならば、後は「事実問題」となる。事実問題になれば、感情的な議論になることはない*1

 

(3) 同じ理由をいろいろな場面にあてはめる

同じ大前提が当てはまるけれども結論がひっくり返るような場合が存在するのではないか、と考えてみるのは、価値主張や価値的議論を評価するために使われるスタンダードな手法である。大前提として出てくるような一般的価値主張は適用範囲が広い分、思ってもみなかったような事例に適用されて判断を覆さざるをえなくなる、ということもよくある。…こうした分析手法を倫理学普遍化可能性テストという。

 

ここで伊勢田は「美的主張」の例をあげている。

「この絵は美しい」という人になぜそう思うのか理由を聞いて、「なぜなら人物の表情や動きが生き生きと描けているから」と答えたとしよう。これも三段論法の形に直すことができ、その大前提は「人物の表情や動きが生き生きと描けている絵は美しい」という主張になる。この大前提を批判的に検討するには、その人のところに、人物の表情や動きが生き生きと描けている絵をいろいろ持って行って、本当にそれらすべてを美しいと思うかどうか聞いてみるとよい。もしその人が「この絵は確かに人物を生き生きと描いているけど構図がいまいちだから美しくない」とか「描かれているシーンが残虐だから美しくない」と言ったとしたら、その人は実質的に「人物の表情や動きが生き生きと描けている絵は美しい」という大前提を(部分的にであれ)覆したことになる。最終的には、こうした留保条件を大前提に加え、「人物の表情や動きが生き生きと描けていて、構図も整い、題材も好ましい絵は美しい」といったような複雑な大前提を得ることになるであろう。これはクリティカルな検討によって得られる前進である。

この例では、「人物の表情や動き」でもって「美」の判断をしているが、「構図」や「題材」も「美」の判断に影響を及ぼすということを言っている。つまり、「人物の表情や動き」だけでは、普遍化可能性テストにパスしない。

伊勢田のこの例は適切だろうか。…「この絵は美しい」というのは、「(美的)主張」なのだろうか。「この絵を見て、美しいと感じなければならない」ものだろうか、絵画は、事実判断として、「この絵は、美しいものである」と言える性質のものだろうか。何とでも言えるのではないか。絵画は、意見/判断/感覚の一致をみなければならないものだろうか。「私はこの絵は美しいと感じる」とだけ言っておけばよいのではないか。それに対して、「いや、私はこの絵は美しいと感じない」と言っても構わない。一致を見るように話しあわなければならないというものではあるまい。

ただ、一致をみることが望ましい事案に関しては、大前提(価値前提)を普遍化可能性によってテストすることは有効であろう。もちろん、「同じ大前提が当てはまるけれども結論がひっくり返るような場合」があるからといって、その大前提がダメだというわけではなく、より適切なものに改良することができれば前進であると考えるべきだろう。

 

(4) 出発点として利用できる一致点を見つける

しかし、言葉を正しく使っていて、整合的(辻褄が合っていること)であるというだけでは、人々の立場の違いを解消するには弱いように思われる。しかし、違う文化に属する人や違う価値観を持つ人であっても、二人の人間があらゆる面で意見が食い違うということは普通はない。どこかで意見は一致するものである。経験的には、倫理問題について一番一致がとりやすいのは、「人を殺すな」「ものを盗むな」といった、具体的すぎずかといって抽象的すぎもしない中間レベルの主張であることがわかっている。哲学的な倫理学の議論の場合には「道徳的直観」なるものがこの役割を果たす。直観というとなんだか高尚そうだが、煎じ詰めれば「よく考えたうえで、皆が認める(はずの)もの」である。ここで述べているような意見の一致とそれほど性格が違うわけではない。

そうした一致点は、一種の確実性を備えた出発点として扱うことができる。これは先にふれた立証責任の観点からいっても当然である。誰も反対しない主張については、そもそも立証を求める人もおらず、立証責任も発生しないだろう。これは、比較的確実な部分については無闇に疑わない、という程よい懐疑主義ならではの考え方である。

伊勢田がここで述べていることは大事なことである。…違う価値観を持っているようにみえても、意識的に一致点を見いだそうと、「それは、こういうことでしょうか?」と相手の考えの詳細や前提を明確にしていけば、「私も、そう思います」と言えるような一致点を見いだすことができる。それは、具体的すぎず・抽象的すぎもしない中間レベルの主張であろう。そのような一致点をベースに話を進めることができる。

 

但し、場合によってはいろいろ検討していくうちに、出発点となった「人を殺すな」「ものを盗むな」といった判断自体が修正されることもありうる。これはとくに、そうした判断同士が不整合になる場合に発生する。薬を盗む以外に相手を助ける方策がないというような極限状況でも、「ものを盗むな」という規則は守られるべきだろうか。多くの人は「そういう場合は例外だ」と言うだろう。そういうかたちで、みんなが一致して修正が必要だと認めるなら、出発点となった規則も修正が加えられることがあり得るのである。(P190)

いずれにせよ、だんだん一致点を増やしていく方向で整合性を求めていけば、討論の参加者全員にとって納得のいく価値主張の体系を築くことができるだろう。一般的な方針としては、「すでに一致出来ているところにはできるだけ手をつけず、それでも不整合が生じたら、できるだけ無理の少ない方向で修正を加える」ということになる。これは倫理学で反照的均衡というおどろおどろしい名前がついている手法だが、やっていることは非常に単純である。もちろんこの手法がそういつもうまくいくとは限らないし、不整合をどうやって解決するかについて結局意見が一致しないこともままある。しかし、こうした作業が可能であること自体、価値主張が単なる趣味や価値観の問題ではないことを示していると言えるだろう。

基本方針は、「すでに一致出来ているところにはできるだけ手をつけず、それでも不整合が生じたら、できるだけ無理の少ない方向で修正を加える」である。これは忘れないでおきたい。

 

しかし残念ながらうまくいかない場合が多い。…議論の場がない(制度の根幹に関わる部分になるほど)。合意をめざそうというのではなく、相手の主張をつぶすことのみを目的とする。議論内容とは別の「力」が働く。議論を一方的に打ち切る。…この点、少し詳しく述べようとも思ったが、伊勢田がここで言わんとすることと離れるので、別の機会に譲ろう。

*1:事実問題であっても、議論が成り立たないことはある。…「私が確認していない文書、副大臣が確認していない文書がどうして行政文書になるのか。私には理解できない」(義家弘介・文科副大臣)。「行政文書の定義は公文書の管理等に関する法律に書かれておりまして、行政官の職員が職務上作成し、または取得した文書であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして当該行政機関が保有しているもの」(山本幸三内閣府特命担当相)(http://www.huffingtonpost.jp/2017/06/06/yoshiie_n_16978410.html)。…話し合って(議論して)、物事を(社会を)良くしていこうとするのではなく、保身に走ると、事実問題を自分の都合の良いように解釈するもののようだ。「前川さんは記者会見という場で、あれだけ多くのメディアの前で、『行政が歪められた』と発言したわけですから、政府としては『いいえ、歪められておりません。なぜならば、かくかくしかじかで……』と説明すればいいだけの話。きちんとした説明をするのが政府の責任でしょう」(石破茂