浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「国家」を主語にするということは…… (軍事大国への道)

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(20)

今回は、第4章 国家論の禁じ手を破る 第2節 国家の存在理由 である。

なぜ国家があるのか

例の如く、稲葉の話はわけが分からないので、省略しようかとも思ったのだが、「わけの分からなさ」を書きとめておくのも少しは意味があるかなと思い直したので、あまり気が進まないが省略しないことにしよう。

稲葉 「なぜ国家があるのか」という問いには、規範レベルでも注意が必要である。

規範レベルで「なぜ国家があるのか」という問いを発するだろうか。規範レベルなら、「国家はどうあるべきか」という問いになるだろう。

稲葉 少なくとも、単純素朴に現にある国家の秩序、国家権力があるからこそ、われわれはすでに生まれて生存しているのだ、という現実がある。(A)

意味不明。「国家権力」がないと、「われわれ」は生まれず、生存することができない? 「国家権力」は、我々を生み育てる「親」なのだろうか。 

稲葉 認識の問題として、「なぜ国家があるの」と問われたときに、「別にあなたを生まれさせて生きさせるために、国家が出てきたわけじゃないけれども、事実問題として、今あなたが生きているということを可能にせしめる条件の中に、ほとんど必要不可欠の条件の一つとして国家の存在という契機が含まれています」と遡る議論ですね。ダーウィン的な、人間原理的な遡りをする議論をしていくというのがまず一つ。

いまアンダーラインを引いた部分と、(A)は同じ意味だろう。そうすると、稲葉は「ダーウィン的な、人間原理的な遡り」をする議論をしていることになる。「ダーウィン的な、人間原理的な遡り」、何これ?

稲葉 だからといって、では「これからも生きていくために、国家がどうしても必要か」というと、また別問題である。現に生きている人が生まれてくるためには国家は必要だったとしても、これからの人間が個人としても集団としても国家を必要とするかどうか、ということとはこれはまた全然別の問題です。

個人として必要とする国家とは? 集団として必要とする国家とは? 「現に生きている人が生まれてくるために必要だった」国家とは? 稲葉は、何か独特の国家観をもっているような気もするが、どうなんだろうか。

 

稲葉 規範理論の主たる関心は、未来に向けての方にあるのであって、過去の話は別である。ただ、まっさらなゼロから未来が始まるわけではなくて、過去は常に現在を、そして未来を規定する、というふうに話は立てられる。だから国家の自明性は解除できるとしても、不可避性もはっきり出てきちゃう。

「国家の自明性を解除する」とは、「国家は必要ではないかもしれない」と疑うということだろう。しかし稲葉は「不可避性もはっきり出てきちゃう」と、「国家は不可避である」と言っている。

稲葉の発言を読み直してみよう。「われわれは、国家権力のおかげで、生きていることができる」と、根拠なく述べているように聞こえる。…わからない。

 

立岩 具体的な課題として社会的な分配を考えたときに、社会の構成員、少なくとも十分な数の構成員に、選好の関数の形状として自発的な贈与とかの契機が見込めたり、起こり得るフリーライドの回避の可能性とかも含めて、取り決めというか強制的なルールを仕掛けなくてもうまく回るということは、最初の条件の設定の仕方によってはありうるだろう。

これは分からない。「選好の関数の形状として」とはどういう意味だろうか。「取り決めというか強制的なルールを仕掛けなくてもうまく回るということは、最初の条件の設定の仕方によってはありうるだろう」と言うが、どのような条件設定を考えているのか、全く分からない。社会的な分配が、「取り決め」あるいは「強制的なルール」なしに可能であるなど、およそ考えられない。それに「最初の条件設定」というのは、まさに「取り決め」なのではないか。

 

立岩 それはそうなったらいいなとは言えるかもしれないし、人がそうなるということをどこまで良いものとして考えるかも論点だけれど、いずれにせよそれは可能であるかもしれない。この場合に国家は積極的には要らないことになる。だけど、現状としてどうなるかもあるし、人間がどうなったとしてもやはりそうはうまくいかないものかもなという、諦念まではいかないけれど、見限りみたいなものはあったりして、それを込みにして考えると、強制の存在する域は存続するのだろうなと思う。

話を具体的にしないと何とも言えないところはあるが、「強制」を全く無しにすることなどありえないだろう。但し「強制」が必要だからといって、「国家」が必然的に要請されるものではない。

 

立岩 ただ、そこで一つの問題は、単に一人一人の行為の集積としては実現しないようなもの、実現しないから強制力を介して仕掛けられるものを、なぜ自発性の水準では積極的でないかもしれない人たちが承認するのかということである。…①分配については自発的な贈与でない方がかえって良い。②贈与にかかわるフリーライドが良くない結果をもたらす。また不正と考えることができる。

①は、例えば、東日本大震災の復興を贈与(慈善)に頼るのではなく、「復興特別所得税」とするのが望ましいというようなことだろうか。②は分からない。「贈与にかかわるフリーライド」とはどういう意味なのだろうか。

 

稲葉 規範理論としての国家理論のありようだが、やはりリベラルな国家論のメインストリームもそうだし、マルクス主義も実はそれを共有してきたと思うが、「自然状態」論的な発想がある。人間があって、人間のニーズがあって、時と場合によっては国家が要求されるかもしれないけれど、拒絶されるかもしれないという可能性の範囲の中で国家を位置づける。そうやって、国家の必然性まではいかなくても、蓋然性くらいまでは言わざるを得ないという議論のラインが一つある。それはフーコーの問題提起とうまく折り合うのか。人はまっさらではなくて、権力の配置の中で生まれ出てきているし、「自然状態」も実は自然状態ではない。

「社会契約論」のことを言っているのだろうか。「自然状態」が「思考実験にもとづく仮定・想定」であるなら、通常の意味での自然状態ではないのであって、稲葉はここで何を言わんとしているのだろうか。

 

稲葉 現に国家というのはその中に、不可欠に輩出して含んできた権力の流れというものがあって、その所産として国家がない状態のことも想像できてしまう人間が現にいると。それをうまく踏まえた上で、国家の規範理論ができないものかというのはどうしても気になっている。一つの極端な考え方としては、主役を国家にする。その国家の目標というのは自己の維持と、両立する範囲でもって自由な主体としての人々を生みだし育成し続けていくことだとしてみたときに、国家はどういう自己抑制をしなくてはならないのかというふうに逆向きから考えていく議論もできなくはない。

意味不明。以前にも出てきたが「権力の流れ」が分からない。「その所産として国家がない状態のことも想像できてしまう人間」、どの所産? 国家がない状態とは? それをうまく踏まえる?

「主役を国家にする」とは、「国家=人格(人間)として想定してみる」ということだろう。だとすると、国家の維持は、大前提となる。「両立する範囲でもって」とは、国家の維持を妨げる(国家権力に反抗する)ような人々ではなく、国家の維持を促進する(国家権力を支える)ような人々のみを、「自由な主体」として認めようと主張しているように聞こえる。国家がどういう「自己抑制」をしなければならないのか意味不明であるが、「自己抑制」という言葉を持ち出して、中和させようとしているかのような印象を受ける。

 

立岩 できなくはないんだろうけれど、ぼくにはそのへんのリアリティが欠けている。そういう議論の立て方があるのはわかるんだけれども、そこから議論を始めるモチベーションが端からかけている。…国家を主語にして語る、そういう語り口とか枠組みがわれわれのリアリティのどこかにあって、それが現時点にある国家を作動させている、あるいは維持させているということはあると思う。そのことの興味を持ち、不思議で大切なことだと思う人はいていいし、いるべきだと思うが、ぼくはそういうスタンスはなんか取りにくい。

「ぼくにはそのへんのリアリティが欠けている。そういう議論の立て方があるのはわかるんだけれども、そこから議論を始めるモチベーションが端からかけている」、この言い回しには感心する。相手の議論を尊重しつつ同意しない。

国家を主語にして語る語り口、それは最も警戒すべき言葉遣いである。「我が国」「国益(我が国の利益)」「日本文化(我が国の文化)」「愛国心(我が国を愛する心)」「祖国(先祖代々の我が国)」「富国強兵(我が国を豊かにし、強くする)」などといった言葉を聞いたら、要注意である。…東京オリンピックに向けて、ますます声高く「ニッポン」を叫ぶことになるのだろうか。そしてその後に来るものは…。軍事大国への道?

 

(A)軍歌

軍歌は、人心を鼓舞する(音楽の力)。それは「我が国」の「平和と安全」を確保するために献身する軍人の士気を高め、また彼らを称えるものである。 

出征兵士を送る歌(1)

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出征兵士を送る歌(2)

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栄光の旗の下に (歌詞に注目)

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分列行進曲 (観閲式、観艦式、富士総合火力演習の模様)

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(B)戦争の真実

ベトナム戦争の実録映画「ハーツ・アンド・マインズ 」(HEARTS AND MINDS、1974)は、1975年アカデミー賞ドキュメンタリー賞を受賞。日本では、戦後70年にあたる2015年に再上映された。

ハーツ・アンド・マインズ 映画で見るベトナム戦争の真実

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あの映画を見て、自分が見るだけでなくて、子どもに戦争を伝えて、戦争をきちっと説明できないといけない。(報道カメラマン 石川文洋

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https://www.youtube.com/watch?v=DPO2MI_Xlkw

立岩 そういう意味では、ぼくはある意味の原子論というか、個人から見ていくところがある。そういう意味で言うと契約論の系譜に近いところもある。だけど、みんなオッケーって言った途端に何かが成立するという合意モデルは採らない、合意だとか契約だとかを必須のエレメントというかモメントとして組み込まなくてはならないかというと、そうではないだろうという距離感はやはりある。…一定の同意は実現の必要条件ではある。しかし実現されるべきことの理由ではない。現実には、社会は人々の社会だから、人々が思うようにしか動かないというのはある程度事実だ。そんなこともあって、それ以外の理由もあるが、民主制という政体を私は基本的に支持する。しかし、そこで決定されたことが決定されたがゆえに正しいかとなったら、私はそういう立場ではない

立岩は国家を主語にして語ることをしない。個人から出発する。しかし、みんなが合意すればそれで良し、というような無思慮な判断をしない。たとえ多数決で決めたとしても、それ故にその決定したことが「正しい」とはならない。多数決で、他国に「効果的な防衛」と称し、先制攻撃をかけること(拠点への攻撃は最大の防御なり)を決定したら、それは「正しい」と言えるのか