気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

「地球温暖化」のウソ?ホント?

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(19)

今回から、第5章 みんなで考え合う技術 である。

合意に達しようとみんなで考えあう際には、少ない情報で判断を下さねばならないことが多い。さらに、事実についてのCTクリティカルシンキング価値についてのCTが複雑にからみあい、単純にCTをすればよいというものではない状況もある。 

 伊勢田は、「地球温暖化をめぐる論争」をとりあげている。ここではこの論争の内容に立ち入るつもりはないが、ごく大まかに、地球温暖化とはどういうことを言うのか、何が問題なのかを見ておく。

世界の年平均気温はこの100年間に約0.6℃、日本では約1℃上昇した。太陽光で暖まった地表から大気中に放出された赤外線が、途中で二酸化炭素などの温室効果ガスに吸収される。その時に出る熱エネルギーが地表を暖める。温室効果ガスがなければ地球の平均気温はマイナス18℃といわれ、微妙な安定の中で地球の生態系が維持されてきた。産業革命以来、化石燃料を大量に使うようになり、温室効果ガスの濃度が高まった。…世界の二酸化炭素の排出量252億tのうち米国が22.8%、EUが13.6%、日本が4.9%、中国は16.4%を占める(2003年)。国際的な専門家で作る気候変動に関する政府間パネル(IPCC:Intergovernmental Panel on Climate Change)が2001年に公表した第3次報告書では、このまま温暖化が進むと2100年頃までに年平均気温は1.4℃から5.8℃上昇し、(1)最高気温の上昇や熱波の増加、(2)干ばつや洪水の増加、(3)生態系の崩壊とサンゴ礁や湿地など沿岸生態系の消失、(4)海面上昇による被害の増大などを予測。(杉本裕明、2007年、知恵蔵)

世界の二酸化炭素の排出量(2016年)は、GLOBAL NOTEによれば、排出量334億トンのうち中国が27.3%、米国が16.0%、EUが10.2%(うちドイツが、2.3%)、インドが6.8%、ロシアが4.5%、日本が3.6%を占める。(https://www.globalnote.jp/p-data-g/?dno=2070&post_no=3235

伊勢田は、地球温暖化論を、次のような実践的三段論法のかたちに整理している。

[式5-1](大前提)急激な温暖化は望ましくない。(小前提)温暖化ガスの排出は急激な温暖化を引き起こす。(結論)温暖化ガスの排出は望ましくない。

研究者の間では、この温暖化の議論の大前提と小前提の両方に疑問が投げかけられている。前者については、現在の地球の気候は地球の歴史のでは比較的寒冷なほうであり少々の温暖化は問題がない、という議論などがある。小前提のほうに関しては、IPCCが挙げるデータに対していろいろな方面からの批判がある

 地球温暖化に対する懐疑論にどのようなものがあるかを知るには、wikipediaが手頃なので興味ある方は参照されたい。

 

両者の論争は、それぞれが相手の裏の意図を勘ぐる中傷合戦までいくこともある。温暖化懐疑論者は、温暖化対策の予算の大半が原子力に費やされていることを指摘して、原子力産業が温暖化騒ぎ全体の裏で糸をひいているのではないか、と勘ぐる。それに対し、温暖化論者は、懐疑論者のほうこそ経済活動を規制されたくない大企業やアメリカ政府の回し者ではないかと言い返す。なお、こうした論争が盛んに行われているのは主にアメリカであり、日本では今のところ[本書は2005年の発行]研究者のコミュニティの外側では温暖化懐疑論者は圧倒的なマイノリティである

温暖化懐疑論者(武田邦彦等)は、「とんでも」だと見做されているようである。

東京大学総長で三菱総研理事長の小宮山宏は、「全てについて反論は用意されている」「温暖化懐疑論が問題になっているのは日本だけ」と述べている。

トンデモ本を批判的に楽しむ「と学会」の会長でSF作家の山本弘は著書において、武田邦彦槌田敦らによる懐疑論に関して、誤った解釈や信頼性の低い論拠などの問題点を指摘した上で、「素人の印象を信じるな。専門家の言うことに耳を傾けろ。」と述べている。(wikipedia地球温暖化に対する懐疑論」)

 「専門家」は、つねに正しいのか? 

と学会」とは、

メンバーのほとんどがオタクで尚且つアスペルガー症候群を患っている。セーラームーンや超常現象など、変なものを好む中二病患者も多い。元々はそうした精神で組織された団体であるから、まあ当然と言えば当然である。メンバーのほとんどは作家や評論家などの言論人である。たいていはそのジャンルにおいて二流あるいは一流半程度、ややもすればキワモノとみなされている。(uncyclopedia

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https://gopthedailydose.com/wp-content/uploads/2014/10/154-bikini-ice-cream-740.png

 

トランプ大統領は今年(2017年)6月、パリ協定(地球温暖化防止の枠組み)離脱を表明、8月に国連に正式通知した(正式離脱はしていない)のだが、米国政府は「とんでも学者」の懐疑論を支持したということだろうか。それとも…?

地球温暖化に限らず、自然科学においては客観的な研究がなされることが理論が成立するための前提であるが、地球温暖化に関しては、政治的な圧力がかけられたり、いわゆる陰謀だとする主張(陰謀論)がある。たとえば下記のようなものである。…地球温暖化説が唱えられるようになった1980年代は、ちょうど軍事産業が低迷した時期と重なっている。軍事ビジネスに変わるものとして環境ビジネスがターゲットとなり、地球温暖化がその理屈作りに利用されたのではないか。…IPCCのパチャウリ議長が温室効果ガスの排出量取引などで儲けている銀行の顧問を務め、その報酬として数十万ドルがパチャウリが理事長を務めるエネルギー資源研究所に振り込まれていると英紙テレグラフのC.Booker記者がコラムに書き、”パチャウリゲート”と呼んだ。…二酸化炭素による地球温暖化説が広まった背景には、原発産業による意向が政府などを通して強く働いていたのではないか、いわゆる陰謀があるのではないか、との見方がある。原発産業による陰謀、とする説が生じてしまう背景には、次のような要因があげられる。チャールズ・デービッド・キーリングによる二酸化炭素の観測は軍事予算や原子力予算の転用による支援によって行われており、さらに原発業界は各国政府に働きかけることによって、CO2温暖化説の科学者に研究費を出させた。…「火力発電所に比べ二酸化炭素の排出量が少ないとの宣伝を行ってきた原発の建設推進派による陰謀である」との主張がある。…一方で、支持派からは懐疑論への石油メジャーなどの関与が指摘されている。(Wikipedia)

陰謀論と言うと語弊があるが、今回のトランプ政権の行動は、科学的に懐疑論を支持するというよりも、アメリカ原子力産業のロビー活動の結果と言えるのかもしれない。

地球温暖化対策の必要性、対策のための諸施策(エネルギー政策、排ガス規制等)が、既存のビジネスや新規のビジネスに大きく関わってくる。そうであれば、様々な政治行動が予想されるところである。これらの分析をすべて「陰謀論」の名のもとに切り捨てるべきではない。「地球温暖化問題」は、自然科学(科学技術)だけで完結する話ではない。

 

いささか脱線したので本書に戻ろう。

この事例には、第1章から第4章までの議論にはあまり出てこなかったさまざまな要素が絡んでいる。少なくとも以下の3つの要素を指摘することができるだろう。これらの要素は、決して温暖化の問題だから出てきたというわけでなく、事実関係をはっきりさせることが難しい政策決定一般にかかわる問題である。

  1. 不確実な状況における推論の問題
  2. 立場の違いに起因する問題
  3. CTそのものの倫理性

以下、これらの一つひとつについて検討していく。

 問題は「事実関係をはっきりさせることが難しい政策決定」をいかに行うべきか、である。こういうふうに問題設定すれば、ほとんどすべての「政策決定」が関係する、極めて現実的な問いである。

 

不確実な状況における推論の問題

第2章で反証主義という考え方を紹介した。反証主義の考え方はツールとして非常に強力なのであるが、現代の科学哲学の中では反証主義の評判はあまりよろしくない。その理由はいろいろあるけれども、主な理由は、模範的な科学者たちでさえも、自分の分野の中心的理論にとって不利な証拠を前にしたときには、言い抜けをしたり無視したりすることがよくあると知られているからである。

第2章での反証主義の説明は、以下のようなものであった。

反証可能とは、大雑把に言うと、データと突き合わせることでその仮説が放棄されることがありうる、ということを意味する。つまり、「こういう実験結果や観察結果が出たらこの仮説は放棄せざるを得ない」という条件がはっきりしているということである。

大辞林によれば、

反証可能性とは、ある言明が観察実験の結果によって否定あるいは反駁される可能性をもつこと。ポパー反証可能性を、言明が科学的である基本条件とみなし、科学と非科学とを分かつ境界設定の基準とした。(大辞林

ところが、「模範的な科学者たちでさえも、自分の分野の中心的理論にとって不利な証拠を前にしたときには、言い抜け[言い逃れ]をしたり無視したりすることがよくある」という。

伊勢田は、ニュートン力学の例を挙げている。

例えば、19世紀には水星の軌道がニュートン力学では説明できないということが知られていたが、科学者たちはこれをニュートン力学への反証とは受け取らず、さまざまな言い抜けを試み、言い抜けに失敗すると今度はこの現象は不可解な現象として放置されるようになった(最終的には一般相対性理論で説明がなされた)。

こうした批判をうけて、科学と疑似科学の区別については単純な反証主義に代わる様々な基準が提案されている。…ここでは一つだけ紹介しよう。その考え方によれば、反証を前にした際の言い抜けの仕方にもいくつかのパターンがあり、新しい実験や観察につながるような生産的な言い抜けならばいいけれども、非生産的な言い抜けばかり繰り返していると疑似科学になる。これはいかなる言い抜けも禁止する反証主義の考え方を少しゆるめたもので、やわらかい反証主義と呼ぶことが出来る。

言い抜け(言い逃れ)について考えてみよう。…ある言明(仮説、理論)が、「実験結果や観察結果」によって否定されるようにみえても、それは想定済みであったかもしれないし、想定外であったとしても、言明(仮説、理論)の基本的な枠組内で整合的に説明できるかもしれないし、また小さな修正で済むかもしれない。このような場合、批判者(反証を提出したと思っている者)は、「言い抜け」などと相手を侮蔑すべきではない。反証を提出された者は、それをいかにうまく取り込めるかを考えるのは当然であろう。批判者は、相手の言い分をよく聞き、議論すれば良いのであり、「言い抜け」などと非難するのは、建設的ではない。反証の提出者は、相手を打ち負かすのではなく、共により良き方向をめざす、という姿勢が望ましいだろう。

 

やわらかい反証主義の考え方は直観にもアピールするものがある。非生産的な言い抜けばかり繰り返すということは、その理論がこれまで何度も予測に失敗し、しかもその失敗から何も学んでこなかったことを意味している。ということは、その理論がこの次の予測にも同じように失敗しないと考える保証はないということである。そういう理論を予測や判断の基礎とするのは非常に危険である。

だが実際には、「非生産的な言い抜け」ばかり繰り返したり、「無視」したりすることがある。それに対しては、いろんな対応策は考えられるが、基本は「我慢強く冷静に話し合う」ということになるだろう。

 

ただやわらかい反証主義は、その基準の性格上、反証されているかいないかという厳格さはなく、程度の問題という側面が強い。では、ある議論がこの基準に照らして疑似科学だと認められた場合、それはその議論を妥当でないとして却下する理由となるだろうか、あるいは科学的だと認められた場合にその議論を妥当だとして受け入れる理由になるだろうか。これは実はそもそもCTをなぜやるのか、どのくらいの覚悟でやるのか、といった問題と関わってくる。

「やわらかい反証主義」を採用し、「程度問題」ということが了解されるならば、あえてこれは「科学」だとか「似非科学」だとか分類する必要はないだろう。「保留」にしておけば良い。そうすれば、かなりの部分で合意できて、ある部分のみ保留という対応が可能になると思われる。

 

もし第3章[疑いの泥沼からどう抜け出すか-哲学的懐疑主義と文脈主義]で見たようなデカルト流の問題設定で、絶対確実な知識を得るためにCTをやるのなら、このチェックリストですら妥当性の基準としてまだ生ぬるいということになるだろう。他方、第4章[「価値観の壁」をどう乗り越えるか-価値主張のクリティカルシンキング]で見たような様々な倫理的目標のためにCTをやるのであれば、目標次第では疑似科学的な議論でも構わないということになるかもしれない。しかし、最善の情報に基づいて信頼できる予測をしたり、対立する主張のどれに一番根拠があるかを判断したりすることに関心があるのなら、科学的か疑似科学的かということは一つの目安として役に立つし、その判断基準としてやわらかい反証主義の考え方を使うのは悪くない

問題は「事実関係をはっきりさせることが難しい政策決定」をいかに行うべきかであり、その1として、「不確実な状況における推論の問題」を考えているのであった。「事実」の把握は難しいものである。いたずらに「証拠」を出せとか、「根拠」を示せと言うのではなく(証拠や根拠は、大事なことなのだが)、「そうかもしれないね」「たぶん、そうなんだろう」という合意がより大切だろう。

 

日常にも非生産的な言い抜けによる議論は登場するので、ここで紹介した考え方はそういう場面にも生かすことが出来る。例えば、よくあるジョークとして、ある人が「九州男児はみんな酒が強い」と主張し、それに対して別の人が「A君は九州男児だけど全然飲めないよ」と指摘したところ、「そんな奴は真の九州男児とは言えない」と答えて平然としている、というものがある。この言い抜けは反証を原理的に不可能にする上に内容が全くないため、非生産的な言い抜けとなっている。これに対して、「いやA君はお母さんが秋田の出身だから例外だよ」というような言い抜けならば、両親とも九州男児で酒に弱い人を探せば反例となるので、まだましである。

「日本人は、みんな中国人が嫌いだ」→「A君は、中国人を嫌ってないよ」→「そんな奴は、真の日本人ではない」。

「日本人は、みんなオリンピックでたくさんのメダルがとれることを望んでいる」→「B君は、メダルの数などどうでもよいと言っている」→「そんな奴は、真の日本人ではない」。(「真の」が省略されることもある)

「この言い抜けは反証を原理的に不可能にする上に内容が全くないため、非生産的な言い抜けとなっている」ことを理解しよう。