浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

ゾンビの姿が見えてきた! 「私」はどこにいるのか?

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(5)

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http://www.theaunicornist.com/2014/02/what-is-gods-mind-like.html

 

ゾンビとは、

元はコンゴで信仰されている神「ンザンビ(Nzambi)」に由来する。「不思議な力を持つもの」はンザンビと呼ばれており、その対象は人や動物、物などにも及ぶ。これがコンゴ出身の奴隷達によって中米・西インド諸島に伝わる過程で「ゾンビ」へ変わっていった。(Wikipedia)

ンザンビについては、次のような解説がある。

アフリカ南部、アンゴラのバコンゴ民族の神。太陽と同一視され、全知全能であるという。貧しい人を世話する神であり、正しく慈悲深い神であるという。また決して邪悪なこと、悪行を行うことのない、宇宙の支配者であり維持者。一人一人の個性、趣味、特性の違いは、ンザンビが人間を創造した時に与えられていると考える。(http://www.jiten.info/dic/nzambi.html)

 ラマチャンドランが言うゾンビは、この意味のゾンビに近いと思われる。邪悪なゾンビではなく、やさしいゾンビ、楽しいゾンビ、知的なゾンビと理解したい。

 

前回(「見ることの不思議、見えることの不思議」)は、視覚に2つの経路がある、という話であった。

一つは系統発生的に「古い経路」で、眼からまっすぐ脳幹の上丘と呼ばれる部位に行き、そこから頭頂葉を中心とする皮質野にいたる。もう一つは「新しい経路」で、眼から外側膝状体を経由して第一次視覚野に行く。視覚情報はここから30ほどの視覚野に送られ、更に処理される。

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新しい経路に入った情報は、再度二つの流れに分かれる。一つは「いかに」経路(行動視覚路)で、対象の空間的な位置を特定するだけでなく、空間視のすべての局面に携わっている。空間視は、生物が起伏のある地形をうまく切り抜け、物にぶつかったり暗い穴に落ちたりせずに歩き回るために必要な能力である。動いている標的の方向を見定めたり、接近あるいは後退している物体との距離を判断したり、飛んでくる物をよけたりできるのも、この経路の働きによる。

もう一つの経路は「」経路で(脳にある30の視覚野がこのシステムに含まれる)、いま見ているものは箱か、梨か、それともバラか。この顔は敵の顔か、友人の顔か、それとも妻の顔か。これは私が気にかけているものか、それとも怖がっているものか。対象物が何かを認知する。

ここでラマチャンドランは、「顔細胞」の話を少ししているが、これは省略しよう。(「おばあさん細胞仮説」というのがあって、これはなかなか面白いのだが、別の機会にしよう。)

「いかに」経路と「何」経路、この二つの流れが脳で何をしているか?

仮にある日あなたが目覚めたら、一つの経路だけが跡形もなく取り去られていた、ということにする。(たとえば悪意に満ちた医師が夜中にあなたの意識を失わせ、側頭葉を摘出したという設定にする)。あえて大胆な予測をするが、目覚めたあなたは、全世界が抽象彫刻の展示室のように、おそらく火星の美術展示室のように見えるだろう。あなたが目にする対象物は、わけのわからないものばかりで、どんな感情も連想も呼び覚まさないだろう。(「何」経路が働いていない)…この場合、あなたが対象物を「意識」したかどうかが、問題の点である。見ているものの情動的な重要性や意味的な連想が認識されないのであれば、意識という言葉は何の意味も持たないと論じることもできるからだ。

シカゴ大学精神科医クルーヴァーとビューシーは、思考実験ではなく、実際に側頭葉を「何」経路もろとも除去したサルで、この種の実験をした。

側頭葉を除去されたサルは(「いかに」経路は損なわれていないので)歩き回ることもできたし、ケージの壁にぶつかることもなかったが、火のついたタバコや剃刀の刃を前に置かれると、それを口の中に入れて食べようとする。オスザルはニワトリやネコなどほかの動物や実験者にまで、交尾の姿勢で乗りかかってくる。性欲が過剰なのではなく、ただ見境がないのだ。

 

セントアンドルーズ大学の神経生理学者ミルナーは、一酸化炭素中毒で失明したダイアンに独創的な実験を行った。

博士はダイアンの前に大小二つの積み木を並べて、どちらが大きいかと尋ねた。正解率は、当然のことながら偶然の水準だった。ところがそれを掴んでほしいと言うと、彼女はまたも的確に手を伸ばし、親指と人差し指を積み木の大きさに丁度あうように開いた。今度も、まるでダイアンの中に無意識のゾンビがいて、手や指を正確に動かせるように複雑な計算をしているようだった

「ゾンビ」は、ほとんど損なわれていない「いかに」経路に対応し、「人」は重度の障害を受けた「何」経路に対応していた。

この話には、もう一つひねりがある。ダイアンの「何」経路は完全には損なわれてはいなかったので、物の形はわからなかったが、色やテクスチャーを見分けることは何の問題もなかった。バナナと黄色いズッキーニをテクスチャーで見分けることができた。この理由は、「何」経路を構成している領域の中に、色やテクスチャーや形態に関与する下位区分があって、「色」や「テクスチャー」の細胞が、「形態」の細胞より一酸化炭素中毒に強いことによるのかもしれない。

 

神経科学は「視覚」を解明したのか。

複数の視覚野と、二つの視覚路の役割分担の発見は、神経科学の際立った業績であるが、視覚の解明ということになると、まだ表面をひっかきはじめたばかりだ。私があなたに向かって赤いボールを投げると、あなたの脳のあちこちにある数か所の視覚野が同時に活性化されるが、あなたが見るのは、一つに統一されたボールの像だ。この統一は、それらすべての情報が後でひとまとめにされる部位(デネットはこれを「デカルト劇場」と呼ぶ)があるから生じるのだろうか? それともこれらの領域が結合されていて、同時の活動から同期的な発火のパターンが直接に導かれ、それが知覚の統一を生み出すのか? このいわゆる「結びつけ問題」は、神経科学の分野に数多くある未解決の謎の一つである。

未解決の謎は、次のような問いになる。

ニューロンの活動性が、どのようにして知覚体験を生み出すのか?

 

ゾンビは盲目のダイアンの手や指を正確に動かしているのだが(ラマチャンドランは、ゾンビの正体は「いかに」経路であるとすることで、これを説明した)、

ゾンビはダイアンのなかだけにいるのではなく、私たちみんなのなかにも存在するということを心に留めておかなくてはいけない。

アグリオティ博士の実験がある。サイズ・コントラストの錯覚[エビングハウス錯視]を利用した実験である。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E9%8C%AF%E8%A6%96

中央にある二つの中くらいの円盤は、大きさが同一である。にもかかわらず、大きい円盤で囲まれた方が、小さい円盤で囲まれた方よりも小さく見える。正常な人が中央の円盤をつかもうとするとき、大きさが違って見えるにもかかわらず、指はどちらも全く同じだけ開くゾンビ頭頂葉のいかに経路]は、錯覚には騙されないらしい。

ラマチャンドランは、次のように述べている。このような科学者らしからぬ論述があることが、本書の魅力である。

存在に関する最も明白な事実は、統一された自己として自分の運命を支配下に置いているという感覚だ。あまりに明白すぎて、あらためて考えることはめったにない。しかし、アグリオティ博士の実験や、ダイアンのような患者の所見は、実はあなたのなかにもう一つ別の存在がいて、あなたの知らないあるいは気づいていないところで、自分のすべきことをしているということを示している。そして、そういうゾンビは一つだけではなく、あなたの脳のなかにたくさん存在する。もしそうなら、自分の脳に単一の「私」あるいは「自己」が存在するというあなたの概念は単なる幻想かもしれないその概念は、あなたの生活をより効率よく組立て、あなたに目的を与え、人との交流を助けるものではあるが、それでも幻想かもしれない

さらに(注)で、次のように述べている。

自己が「幻想」だと私が言うのは、おそらく脳のなかには、自己に相当する単一の存在はないという意味だ。だが実のところ私たちは、脳についてほんの少ししか知らないのであるから、偏見のない心を保つのが一番だ。私は少なくとも2つの可能性を考えている。1つは、精神生活のさまざまな局面やそれを成立させている神経プロセスを、私たちがもっと十分に理解するようになれば、「自己」という言葉が私たちの語彙から消えるのではないかということだ。2つ目は、自己とは、実は特別な脳のメカニズムにもとづく有用な生物学的構築物ではないか(人格に一貫性や連続性や安定性を付加して、より効率よく機能できるようにするための一種の組織原理ではないか)という考えだ。

私の(根拠のない)直感では、ラマチャンドランが言う第2の可能性、即ち「自己とは、人格に一貫性や連続性や安定性を付加して、より効率よく機能できるようにするための一種の組織原理である」という考えに賛成したい気分ではあるが、そうすると、「なぜ、効率よく機能できるようにしなければならないのか?」という疑問がすぐに浮かぶ。この質問に(単純な進化論ではない)科学的な説明が可能であろうか。