浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

哲学的文化

北川東子ジンメル-生の形式』(10)

世界の物的性格と多次元の混在

ジンメルの「椅子の哲学」は、マイネッケにとって「すぐに消えてしまう花火」であったのに対し、ズスマンにとって、それは絶対的なものが放つ「きらめきであった。はかない一瞬の思想なのか、それとも瞬間のなかに永遠を秘めた思想なのか。それを決定するのは、ジンメルが「椅子」の背後になにを――椅子のイデアか、それともブルジョワジーの生活習慣を――見たかではない。そうではなく、哲学者としてのジンメルが、なぜ「椅子」というありきたりの物を主題化しなければならなかったかという問題である。もっと一般的に言えば、哲学が私たちの生の凡庸でありきたりな部分、日常性の部分にどのように関わるかという問題である。

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角文平 椅子の木 http://deco-design.biz/chaise-design-tree-of-chai-art-kado-bunpei/7482/

 

多元性に休らう「物」たち

椅子に限らず、日本の古い茶碗、瓶の取っ手、扉、額縁といったように、実用的な工芸品に対する愛着は、ジンメルの生涯を貫いて見られる傾向であった。いやそればかりでなく、意匠をこらした額縁や、古い瓶の取っ手といった形象は、それなしにはおよそジンメル哲学が不可能となってしまう形象である。

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クラインの壺 http://www.core77.com/posts/25087/bottle-design-brain-melter-the-handle-is-the-spout-the-opening-is-on-the-bottom-the-inside-and-the-outside-are-the-same-surface-25087

 

例えば、瓶の「取っ手」。取っ手は、日常的な用にために瓶につけられた物でありながら、その優美な曲線がこのうえもなく美しいこの事実は、ジンメルにはひとつの思想的な驚きなのだ。…取っ手は道具でありながら、同時に美しい。端的に美しい。丸い瓶の腹に、あるときには細い茎のように簡素なかたちで、あるときには竜の凝ったかたちでつけられた取っ手は、瓶の実用性のなかにあって、きわだった装飾性を示している。取っ手が持つ美的装飾性は、「それがそもそもつけられたときの秩序とは全く別の秩序に属すること」を私たちに教えてくれる。…取っ手は、実用性と装飾性を兼ね備えた物である。それでいながら、そのどちらか一方に傾くことはない。…工芸品は、「目に見えるかたちで」現実的な道具と自足的な芸術美との交差関係を実現している。この交差のなかに、ジンメルは思想への誘いというか、哲学の欲望を感じる

ジンメルは、「橋」や「扉」についても取り上げている。

「橋」において、結合と分離をめぐる連想がはじまる。橋は、離れているがゆえに結合可能なふたつの岸を結ぶ、移動の手段である。橋は、結合と分離の同時性を実現している。橋は、結合への意志の記念碑である。橋において、分かたれたものを結合しようとする意志が「目に見える永続的なもの」となる。

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http://orig10.deviantart.net/5c8b/f/2007/157/7/a/aztec_bridge_two_by_clarabox.jpg

 

あるいは「扉」。家の内と外との境にあって開閉される扉は、内部を区切り閉じることが、同時に外部を創出する行為であることを示す。扉と言う境界的な装置こそが、内部と外部とを成立させているジンメルは扉のイメージを最大限に利用することで、孤立した閉塞性が不可能であることを指摘する。閉じこもるために閉められた扉は、また人が出ていくために開けられもするのだ。

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「事物のまったき感性的現実」を語らせることにおいて思想を構築していくジンメルのスタイルを、ズスマンは、物のあいだを彷徨する「旅」にたとえている。それは「一切の物たちのあいだをせわしなく横断していくこと」であり、ジンメルは「彷徨するうちに、たえず新しい物、たえず貴重な物が現れ出てきて、なにかに到達して休らうことを禁じるような」旅を続ける「旅人」である。この旅人には、「この旅が決して終わることはない」のがわかっている。せわしない終わりのない「旅」。哲学はジンメルにとって壮大な建造物の外観をまったく脱ぎ捨ててしまったのだ。

 

過剰へのセンシビリティ

近代国家の成立史という壮大な問題に取り組んでいたマイネッケをわざわざ訪ねて行って、あきれるほどの多弁で「椅子の哲学」を語る。哲学を日常的なイメージにゆだねる。思考は行き当たりばったりの対象に耽溺する。「あれよあれよという間」に「椅子の哲学」が生まれ、「取っ手」がおよそ「芸術」と「現実社会」との関係を示すようになる。明らかにこのやり方こそが、アドルノルカーチをはじめとした多くの生真面目で深刻な思想家を激怒させた当のものである

しかし、そうすることで、ジンメルはみずからひとつの「ずらし」を演じて見せたことを見逃してはならない。哲学を「あえて」卑近でブルジョワ的な形象にことよせて語ることで、ジンメルは思考の流れに、ある種の放埓さと、そしてある種のセンシビリティを要求する。「椅子」や「取っ手」や「橋」に拘泥することで、饒舌が、おそらくはひとつの「過剰」が生まれる。

ジンメルは、みずからの時代に次のような診断を下したという。

手段が目的化する。財の質的消費ではなく、貨幣の量的獲得が経済的関心となる。…「人格」は、さまざまな社会関係の「交差点」へとなり下がる。「個性」は「典型」にとって代わられる。歴史は、歴史認識へとおとしめられ、単なる心理法則の応用領域となる。歴史にはなにも新しいことは起こらない。「過去」という不可知の領域に、多大な解釈が積み重ねられるだけである。

戯画としての哲学

過剰としての哲学を、ジンメル自身のことばで特徴づけるとするならば、それは現実の「戯画」である。戯画」とは、ある対象を捉えるのに、その一部分を過度に誇張することによって、全体を見えるようにする技法である。しかし、「個々の誇張それ自体が戯画となるのではない」。「バランスの欠如」、「全体像の破壊」、「極端の固定・確定」が戯画である。戯画が戯画であるためには、効果的な「誇張」が必要だ。全体を歪め、全体をゆるがすような侵犯の仕掛けが必要だ。

トータルなかたちで哲学理論を構築しようとしたすべての人が、ジンメルの哲学的戯画が行う侵犯を感じている。侵してはならないことが、侵されてしまったのだ。ただ一人ベンヤミンだけが、みずからの構想する「弁証法的イメージ」の原型を感じとる。…「戯画的な誇張」は、全面的不透明さのただなかにあって、なにかを目に見えるようにする

 戯画というテクニックは興味深い。意図した戯画であれば、自信をもって応答できるだろう。