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平等(2) 「機会の平等」と「結果の平等」

平野・亀本・服部『法哲学』(27) 

前回記事の「機会の平等」と「結果の平等」についての引用部分を再掲する。

分配的正義については、財の分配方式に関して、「機会の平等」と「結果の平等」という相異なる考え方がある。前者は、財を獲得するための機会が平等に保障されることを求め、後者は機会ではなく結果における財の平等な分配を求める。比喩的に、機会の平等はスタートラインの平等、結果の平等はゴールの平等といわれることもある。

このような財の分配方式を社会全体にわたってみた場合、「機会の平等」は自由競争を原則とする市場システムを介しての財の分配に、「結果の平等」は再分配を行なう福祉国家のような統治機構を介しての財の分配に多く見られることがわかる。分配的正義と平等をめぐり相対立するさまざまな見解が出てくるのはここからである。市場的分配か、政治的分配か。主として機会の均等によるのがいいのか、結果の平等を基本と考えるべきであるのか。

 

多様な平等論

平等に関わる今日の議論は、「機会の平等」論と、限定された「結果の平等」論を左右の極端とする様々な見解の間で展開されている。近代的平等の原則は、身分階層による区別を取り払ったところから出発した。市場システムにおいては、誰でも基本的に差別されることなく自由に競争に参加できるという意味で、少なくとも機会の平等は保障されなければならない。

現代の様々な平等論は、次の3つに大別できる。

①形式的な機会の平等論

②実質的な機会の平等論

③福利の平等論

 福利の平等論が統治機構による結果の平等の実現を重視するのに対し、形式的にせよ実質的にせよ、機会の平等論は市場システムに基本的に依拠し自由を重んじる。3つの平等論の違いは、統治機構が市民の生活にどの程度厚い公的支援を行なうか、それによってどの程度の差異の補正を行なうかによると見ることもできるであろう。

福利の平等とはあまり聞きなれない言葉だが、あまり詮索しないで、「結果の平等」とほぼ同義だと理解しておこう。ここで留意すべきは、「結果の平等」が「統治機構」と、そして「機会の平等」が「市場システム」と関連付けられて理解されていることである。

 

形式的な機会の平等論

形式的な機会の平等論は、市場競争に参加する機会を平等に保障することを説く。性別・人種・貧富の差によって差別されることなく自由に競争に参加できるという意味で「スタートラインの平等」論、あるいは、競争で成果を競いあう際に、すでに自ら有するいかなる資源をも動員することができるという意味において「自然的平等」論ともいう。

自由な競争の結果すなわち各人の努力の成果が功績として評価され、それに従った財の分配を正義に適った分配とするのであるから、この平等論では、競争からの予めの排除を伴う差別および市場競争へのあらゆる参入規制を原則として妥当なものとはしない。競争によって最大限の真価が発揮されること、及びその真価が市場機構において適切に評価されることを重視する。この平等論の説く統治機構の役割が他の理論に比べて最も少ないのは…平等な機会のみを保障し、市場システムの安全とその障害なき作動の確保に重きを置くからである。

 機会の平等とは何か。それは「市場競争に参加する機会」の平等であるという。では、誰が市場競争に参加するのか。それは基本的に企業である(個人事業者もいるが)。そこでは、性別・人種・宗教・信条・出身地・学歴等は関係ない。「スタートラインの平等」とかは関係ない話である。

通常「機会の平等」というとき、「誰もが自由に起業できる」(自由市場に参入できる。性別・人種・宗教・信条・出身地・学歴等により差別されることはない)ということがイメージされているだろう。そして「努力すれば報われる」。アメリカン・ドリームである。誰もが知っているように、99.9…%の人が実現できない「ドリーム」なのである。…この意味での「機会の平等」は保障されているといえるだろう。しかし、起業という例外的な事象を取り上げて、機会の平等、スタートラインの平等を云々するのは適切ではないと思う。大多数の人は、企業に雇用されるのである。

ここで市場とは「労働市場」のことであるという人がいるかもしれない。労働市場とは、

生産要素としての労働用役が取引される市場をいう。労働市場において企業は一定の期間,一定の労働条件のもとで労働者を生産活動に従事させる権利を獲得し,一方,労働者はその対価として賃金その他の所得を受取る。(ブリタニカ国際大百科事典)

労働者は労働用役を供給し、企業は労働用役を需要する。性別・人種・宗教・信条・出身地・学歴等が問題となるのは、企業の採用においてである。しかし今日においては、かかる差別は表面的(形式的)にはほとんど存在しないといって良いだろう。この意味で、「機会の平等」は保障されている。

形式的な機会の平等を主張する者は、「努力すれば報われる」(その報酬がインセンティブになる)と言い、努力(=競争)しない者にも報酬を与えるような「結果の平等」は、悪平等であると非難する。働きのない者(=成果をあげられない者)は、低報酬とするか、労働市場から排除(解雇)されて当然と考える。

アンサイクロペディアから、一部引用しよう。

9割5分男子の大学の理系学部を出た男子Cは、自企業の自部門が生み出した技術革新で過剰人員となり、肩たたきの対象となった。「機会の平等を活かして、今や不要となった君の習得技術にとらわれず新たな道を切り開きたまえ」と退職時に訓辞された。Cはその言葉を信じて、文系の職域に手を伸ばし、アルバイトで働きつつ3年間の猛勉強を経て資格を取得した。そして、学歴欄だけでいくら落とされても挫けず、何社か面接に挑んだ。どこでも面接官はたずねた。「あなたの退職した会社の新技術の恩恵には、我が社もたっぷり授かっております。ところで、なぜその中核部門にいたはずのあなたは解雇されたのですか?本来なら、求職しなくて良いほどの退職金を受け取れるはずです」。この質問の前には、どんな答えも無効だった。(機会の平等、Uncyclopedia

  

実質的な機会の平等論

実質的な機会の平等論は、機会の形式的な平等ではなく、その実質的な平等の保障が必要であると説く。…

競争が公正に行われるためには、単にスタートラインの平等を保障するだけでは不十分であり、身体能力の差、経済的条件の差など、ハンディとなる有形要因を可能な限り平等にした上で、競争において個人の純粋な真価が発揮されるようにしなければならない、とする。従って、障害者に対する施設補助、経済的に困難な状況にある人に対する経済的援助、倒産した企業や失業した者に対する援助措置、給与上の扶養家族手当て、あるいは場合によっては、従来の差別により社会経済的に不利な条件の下におかれてきた特定集団の人々に対する積極的優遇措置(アファーマティブ・アクションポジティブ・アクション)など、平等なスタンスで競争に臨めるよう、資源の面における一定の公的な援助を是認し、またその限りで財の再分配も正当化する。この平等論が「平等主義的な機会均等論」あるいは「平等主義的な自由主義平等論」と言われるのはそのためである。

但し、機会の実質的な平等をどの程度保障するか、競争のための「資源」としてどこまでを平等化の対象とするかによって、様々に見解は分かれる。代表的な理論として、仮想オークションによる初期格差の是正を1つの狙いとする「資源の平等」論(R.ドゥオーキン)や、初期格差の是正だけでは貧困からの開放に十分でない場合があるとして、更なる実質的平等化を説く「潜在能力の平等」論(A.K.セン)などがある。

 「機会の平等」を、労働市場において性別・人種・宗教・信条・出身地・学歴等によっては差別しないということであると解すると、形式的(表面的)には「機会の平等」は保障されている。しかし実質的には、多かれ少なかれ性別・人種・宗教・信条・出身地・学歴等によって差別があることは否定できない事実であろう。(但しこの差別が絶対に良くないことかと言えば必ずしもそうとは言えず、そうとは言えない場合は「異なる取り扱いをする」ことに合理性があるといわなければならない)。

平野は、「~など、平等なスタンスで競争に臨めるよう」と言っている。私は、この「競争に臨む」が何を意味するのか?から問い直さなければならいと思っている。ここでいう「競争」とはいかなるものなのか。他社との競争において「成果」をあげることなのか。あるいは企業内部の出世競争に勝つことなのか。そのような「競争」を望ましいものとして称揚して良いのか。

平野が例に挙げている「障害者に対する施設補助」、「経済的に困難な状況にある人に対する経済的援助」、「倒産した企業や失業した者に対する援助措置」、「給与上の扶養家族手当て」、これらを一括りにして「機会の平等」といって良いのか。いずれも必要なことではあろうが、「競争のための機会の平等」の政策ということには違和感がある(ここでこれらを個別に検討するということはしない)。

ドゥオーキンの資源の平等論やセンの潜在能力の平等論は、ここでは詳しい説明がないので取り上げない。

 

福利の平等論

福利の平等論は、機会の実質的平等化を図るだけでは格差問題の根本的な解決にはなお不十分であるとして、個々人の権利における平等化を説く。結果の平等を目指すがゆえに、統治機構による公的な配慮と援助は、実質的な機会の平等論よりはるかに厚いものとなる。

この平等論で問題とされるのは、才能ないし資質である。いかに有形要因においてハンディとなる条件を補い、公正に競争がなされるとしても、競争には勝ち負けの結果が伴う。勝敗を分けるのは、才能と努力である。

才能と努力を合わせて広義の才能あるいは資質ということもできるだろう。市場では、持って生まれた資質により、ある人は目覚ましい成果を上げ、ある人は志を遂げられずに満たされない生活を送る。これが社会経済格差の源であるという。例えば、ロールズは論じている。才能は個人的な幸運であり、努力は多くの場合、幸運な家庭環境・社会環境に依存している。それらは自己の選択や同意を超えた偶然的要因であるから、そうした幸運に対して人は権利を主張することはできないのである、と。従って、福利の平等論では結果としての福利を、可能な限り不平等のないようにしようと提言する。

この平等論には、大きく分けて2種類の考え方がある。1つは、格差原理に表れているように、市場システムを重視し、個々人の自由を尊重しながらも、社会の基本構造の「公正」化を図るために、公的資源の許す限り、社会において最も不利な状況にある人々の利益状態を向上させていこうとするもの。もう1つは、社会の基本構造の問題としてではなく、端的に個々人の福利の可能な限りの平等化を求めるもの、である。いずれにしても、一人一人の福利をできるだけ平等にすることをめざす点で、福利の平等論は「民主主義的平等」論とも言われる。

ここで「結果の平等」とは、「結果としての福利(=幸福)の平等」のことである。「市場では、持って生まれた資質により、ある人は目覚ましい成果を上げ(幸福)、ある人は志を遂げられずに満たされない生活を送る(不幸)」のであるが、これを「望ましい状態」と考えるか否か。「結果の平等」論者は、これは望ましい状態ではなく、可能な限り不幸な人がなくなる(少なくなる)ようにすべきであると考える。他者を思いやる心があれば(近しい人が不幸な状態に陥っているのを何とかしてあげたいと思う心があれば)、不幸な人のことなどどうでも良い、とはならないはずである。

この見方では、幸福がいかにして得られる(得られない)のかを問うていない。それは貨幣所得や財産と同義ではない。にも拘らず、大方の議論は(特に経済学は)、それが(貨幣所得や財産)が幸福をもたらす最大要因であるかの如く前提して議論を進めているように思える。

「結果としての福利(=幸福)の平等」というとき、それは何の結果か。それは「市場における競争の結果」であるという。市場競争が前提されているのである。共に生きる社会での活動が、「営利を追求する市場競争」でなければならないのかの論点はさておき、ここでは市場競争を前提として考えてみよう。さらに、市場競争の勝者とは企業内で昇進して役員クラスになった人、敗者とは成績不良で解雇された者(あるいは就職できずに、ニート/無職でいる者)と俗な見方を採用して考えてみよう(なぜ「俗」かというと、「勝者」「敗者」と呼ぶからである)。誰が勝者となり、敗者となるかについては、多くの要因があろう。なかでも「才能」が大きな要因である。その才能とは、市場競争に有利となる才能[ずる賢さ?]であって、「知性」とは異なる。このような才能によって、勝者と敗者が生じ、幸福者と不幸者に引き裂かれることは、「何かがおかしい」と感じないだろうか。

「結果としての福利(=幸福)の平等」といって、再分配=所得移転したところで(無駄だと言っているわけではない)、格差の本質的解決には程遠いように思われる。

 

ふと、東芝のチャレンジや電通の過労死の事例が思い浮かぶ。「機会の平等」や「結果の平等」や「福利(=幸福)の平等」といった言葉が空しく響く…。

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 http://www.1freewallpapers.com/do-not-despair

 

独り言…本書の記述にしたがい、できるだけまとまった考察をしたいと思っているのだが、これでは舌足らずの断片的なメモだねぇ。