浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

自分に関わることを自分で決めるなら、何も問題はないのだろうか?

立岩真也『私的所有論』(22)

今回は、第4章 他者 第3節 自己決定 である。

「自己決定」とは、「自分のこと(自分に関わること)は、自分で決める」ということである。他人から強制されて、嫌々〇〇することもあるかもしれないが、たいていは自分の意思で〇〇していると思っている。強制されて何かをすることを肯定する者はいないだろう。では、「自己決定」には何も問題はないのだろうか。

立岩が本節で述べようとしていることは、1.自己決定の位置づけ、2.自己決定の困難、自己決定を巡る困難、3.自己決定に問題はないとする主張に対する反論、4.決定しない存在・決定できない事態について、5.自己決定権と私的所有権との違い、決定が可能であるための条件、6.決定の条件を問題にすることの意味である。

今回は、1.~3.をみていく。

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https://www.girlscout.or.jp/activities/project/stv/gender2018/

 

1 自己決定の位置づけ

ここで立岩が言わんとしていることは、次の2点に要約されるのではないかと思われる。

  • 自己決定とは、「自分に関わること」を決めるのであり、「他者に関わること」を決めるのではない。
  • 他者は、「私が制御できないもの、私が制御しないもの」として在る。…他者の自己決定を尊重する。

2 (1) 自己決定の困難

自己決定(自分で決めること)が難しい人、場面が存在する。

自分で決定して、決定したことを自分でやるなら、そしてそれが誰にも迷惑をかけないことなら、ひとまず誰も困らない。ところが例えば身体に障害がある人の場合、その人は決定できるのだが、(a)その決定の実行は他人が行う、(b)その実行に関わる負担を他人が(他人も)負う、となると、自己決定した人の言うことを聞くのは負担であり、負担であることからする不利益がありうる。だから、自己決定は実現されにくい。

身体障害者というほどでなくとも、足腰が弱ったり、ちょっとした病気になると)決めたことを自分で実行できず、他人の手を借りなければならなくなる。家族がいればまだしも、一人暮らしだと日常生活に支障をきたす。そんな時、「自己決定」云々で済ませられる話ではないことに気づく。

(a)は、すべてを自給自足で済ませようとしないなら、その供給者とその利用者との間のあらゆる場面に現れる。何かを提供する側とそれを受け取る側の利害が対立するのは当然のことである。ここで、提供するものの情報が利用者に与えられていないことは、少なくともよい商品を提供できていない供給者には都合がよい。医療過誤が表に現れにくく、インフォームド・コンセントが実現されにくいのにはこういう事情がある。ただ、市場ではこのそもそも一致しない利害が価格メカニズムによって調停される。お金を十分持っていれば利用者の利害も反映される。競争が働けば、買い手に気に入るものを売り手は提供しようとする。商品情報の提供を求められれば応じざるを得ないし、嘘をつけば、少なくとも長期的には淘汰される。

インフォームド・コンセントとは、

医師が患者に対して、治療を開始する前にこれから始める治療内容について、「なぜこの治療が必要なのか」「どのくらいの期間がかかるのか」「この治療をすることによる効果はどういったものか」「治療にかかる費用」等を、わかりやすく説明をし、その上で患者から同意を得ることを言う。(レーシック関連用語集について) 

例えば、手術に同意(決定)しても、手術を行うのは医師である。情報が的確に与えられるのかは問題である。悪徳医師にかかれば、利益優先の治療方針になるが、患者にはわからない。競争が働けばよくなるかもしれないが、それが唯一の解というわけでもないだろう。

けれども、(b)の条件が加わる。少なくとも当人は払えない、払いきれない場合がある。家族が無償で面倒を見るというかたちであれ、税金や保険料を使うというかたちであれ、周りのものが(周りの者も)負担することになる。これは周りの者にとって面倒なことである。

お金が絡んでくると話がややこしくなるのだが、「自己決定」を具体的に考えていこうとすると、お金が絡んでくることが多い。…自分は自分の生活のあり方を決めたい。しかし、その決定が他人の(国民の)負担になるとき、どう考えれば良いのか。それは権利であるとして要求するのか、あきらめるのか。他人は(国民は)それを権利であるとして認めるのか、無視・放置するのか。「自己決定」する当人だけの問題ではなく、社会の問題である。

ただ一概に自己決定を受け入れることが不利益だとも言い切れない。それは決定がどういう方向を向いたものか、どういう内容の決定であるかによる。消費者の側の不満が供給の「過剰」に対するものである限り(薬漬け医療・「無駄な」延命治療…)、より多く供給することで利益を確保しようとする直接的な供給者の側を除けば、自己決定に委ねることは、公的な保険等でその費用が賄われる場合、直接の消費者以外の負担者の側にとっても悪い話ではない。従ってこの限りで「自己決定」は簡単に流通し得る。そしてこのように流通している間、問題は起こらない。

薬漬け医療・「無駄な」延命治療を拒否する「自己決定」ならば、金儲けをしようとする医療関係者を除き、費用負担面からは支持されるだろう。

 

2 (2) 自己決定を巡る困難

決定というものは、それ自体ある程度の鬱陶しさを伴う。そして決定するとは、決定の結果を背負うということである。その結果どうなるか分からないが、決定した以上はその結果はその人が背負う。このような決定に関わることによる負担がある。例えば、治療を停止するべきか否か。「自己決定」の場合には、それを本人が決めてくれ、供給者は注文を聞いてその通りのことをやればよいのだから、その分周囲は楽になるということもあり得る。少なくとも責任の帰属先ははっきりする。その限りでは利益になる。もちろん、本人の思い通りに事が運ぶのなら当人もそれで構わないのだが、そういう場合ばかりではない。思い通りにならず、そのことにその人はうろたえてしまう。だが、それをともかく本人に委ねてしまう。それで周囲は心理的な負担から逃れられることによる利益を得ることができるかもしれない。

データに基づき、X%(例えば10%)の治癒(回復)の可能性があると説明すれば、X%に賭けたいとする患者(家族)がでてくる。そこで患者が治療に同意する「自己決定」をすれば、医師はそれに従う。問題が生じても、「自己決定」をした患者が責任を負う。医師に責任はない。むしろ、「できる限りのことをした」という満足感がある。めでたし、めでたし。

その人は自分で抱えきれないものを受け止めてしまわなくてはならないことによって、うろたえてしまうのだが、そのうろたえてしまう人を抱え込んでしまう医療関係者なり当人の関係者なりも困ってしまう。その人にとって困難であることによる困難が私たちにかかってくることがある。だからその困難を回避しようとして、例えば死や死の気配を遠ざけようとする。

「自己決定」を迫られる人は困ってしまう。誰も「正解」を知らない。周囲の人は何をなし得るのか。「なるようになる」は、思考停止だろう。

 

立岩は、以上のことをまとめている。

自己決定を認めることは、ひとまず

  1. ①周囲にとって負担だが、②周囲の利害に添う決定だったら利益になる。
  2. ①決定を本人に委ねることによって心理的な負荷を免れることがあり得るが、②その本人にかかった負荷が周囲に波及するなら結局周囲にとっても負担になりうる。

 

3 自己決定は全てを免罪しない

自己決定としてなされることの全てを、自己決定だから認める、そういうことでこの話は終わるのだろうか。

2からもわかるように、そんな単純な話ではない。

AがBには理解しがたい信仰上の理由で、その信仰の成就のための手段として生命を差し出したとしても、そのような他者のあり方をBは認める。Aがaを手段として扱うことができ、それを譲渡してBからbを得ようとする時、それを認める。だがなお抵抗がある。

例えば借金に追われて自殺が「選ばれる」。あるいは腎臓を提供する。性を提供する。確かにその人はそれを選択し、自己決定した。腎臓よりお金を優位においた。死ぬ方が良かった。この事実を否定する必要はない。…

お金よりも腎臓や性が大切なもののはずだと言うのではない。大切さは状況相関的に決まる。その者たちにとっては確かに売って得られた生活、あるいは死んで避けることができたものの方が、売られたものより、死ぬことより価値が大きかった。大抵は生きていくことの方が「本当に」優先される。金が無ければ、金の方が大切だ。

お金と腎臓/性のどちらが大切かは、状況によるのでありどちらとも言えない(状況相関的)。というか。客観的に決めることはできない。お金が何らかの価値の代替物であるとしても、その比較は難しい。

しかし、私たちは、結局のところAの行いを止めることは出来なくても、これらが悲惨なことだと考えるし、Bのすることを非道だと感じる。こうした悲惨さの感覚、非道だという感覚はどこから来ているのか。

悲惨・非道の感覚がどの程度のものかは人によるだろう。

当の者の同意があっても、その者があるものを譲渡することが私たちにとって無残なことだと映るのは、制御の対象として想定していないものが、制御されるもの、比較されるものの範疇に繰り込まれる場合、そこで他者の他者性が剥奪されてしまう場合ではないか。他者が他者であること、自らが他者であることが尊重されるべきだという感覚は、そしてそこに生ずる快楽を得ようとする感覚は、これらを無残なことだと考える。このような場に人を置くべきでないと感じる。そしてそこから利益を得ることを卑怯なことだと感じる。

通常、腎臓や性は、譲渡(制御)の対象ではない。これらをまとめて「他者性が剥奪されるから」、「他者は尊重されるべきであるから」、悲惨・非道・無残の感覚が生ずるというのは果たしてどうか。腎臓移植に関しては、利用可能者が誰かの問題を別にすれば、倫理的に許されないとは言い切れないように思う。性売買は、搾取の問題を別にすれば、通常の労働とどれほどの差異があるのか。

そのような状況をBが、それがBにとってやむにやまれぬものであっても、利用すること。さらにBが、自分の中の何かを変えることなく(=自分から切り放すことのできるbを譲渡することによって)aを得る、あるいはAにこのようなあり方をとらせること自体を目的とすること。このような場合に、確かにBはAを自らの欲望によって制御したのであり、Aが自らに受領されるものとしてあるものをあえて制御し譲渡し失うことによって初めてbを得ることができるのだとすれば、Bのなすことは不当なのである。他者を認める、あるいは他者から快楽を得ようとする感覚は、これらに対して抵抗する。そんな贅沢なことを、と言うかも知れない。だがこれを否定することは、どんな快楽も失われてよいということだ。そしてそのような快楽を得ている他者を認めるという快楽もまた失われる。確かにそれは贅沢なことだと言えば言える。しかし、それを消し去った時にどんな生が残されているか。

立岩は、「制御可能であるとしても、制御しないことにおいて、他者は享受される存在として存在する」と述べていた。そのように他者を規定してしまえば、腎臓や性の具体的な問題状況を離れて、「絶対不可侵」の他者信仰のようにも聞こえる。

問題になるのは「強制」だけではない。「強制がない」から、「自己決定」だから、「同意の上のこと」だから何も問題がないのではない。譲渡を求めるべきではない範囲は、同意がない(強制されている)範囲よりも広い。確かに、最終的にAの決定を認めると述べた。だがそれは当の者の欲望のあり様が自分とは違うものとしてありうることを認めるからであり、単に同意があるならよいということではない。別言すれば、この条件のもとでなお――他の人であったら譲渡をためらうことがあるかもしれないものを――譲渡しようとするのであれば、それの譲渡は認められるということである。その人のもとにあることによって、その人に訪れるものであることによって、その人に享受されるものについては、それが手段として用いられること、用いなければならないことがあるべきではない。この状況で自己決定であるが故に許されるとすることを認めない。

Aの自己決定を認めるのは、「当の者[A]の欲望のあり様が自分とは違うものとしてありうることを認める」からであるという。これはよくわからない。「欲望のあり様」は、人によって皆異なる。とするとAの自己決定をすべて認めることになるだろう。

 

死に対する「自己決定」

私は、他者に対する価値を満たさないから、自らが価値とするものを自らが満たさないから、死を選ぶ。死に対する「自己決定」としての安楽死尊厳死に対する危惧はこういうところから出ている。

安楽死尊厳死について触れようと思っていたのだが、長くなりそうなので、次回に回そう。