浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

可能的読者の反論…「それで?」

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(7)

今回は、第1章 正義論は可能か 第4節 相対主義 の続き(p.20~)と第5節 「それで?」である。

第4節の続き(非認識説)はパスして、第5節 「それで?」を読んでもいいだろう。

 

非認識説

価値相対主義の論拠は何だろうか? 井上は、①確証不可能性、②方法二元論、③非認識説 の3つをあげていた。今回は③の非認識説についてである。

  • 非認識説によれば、価値判断が客観的に真でありえないのは、そもそも、それらが「判断」ではないからである。即ち、それは、そもそも真偽が問題になるような「認識」の問題ではない。

それでは何なのか?

  • 古典的な価値相対主義者は、主として当為を念頭に置いた上で、意欲とか意志作用の意味とか答える。
  • しかし当為の概念を説明すべき意志の概念が、結局は当為の概念に訴えずには説明できないという循環を犯している。

当為とは、「~すべきである」という意味である。これは「真偽」とは関係ない。「~すべきである」というのは「意欲」とか「意志」の表明である。これが価値相対論者の言い分である。これに対して、井上は「意志」(~をしようとする意志)の概念が「~すべきである」の概念に訴えずには説明できないという(循環論)。

「非認識説」は「価値判断が客観的に真でありえないのは、それらが判断ではなく、当為(~すべきである)を主張するものであるからである」と言っているようだ。しかし「当為」を主張するものであっても、価値判断の相対性を振りかざして、価値判断の「妥当性」の議論を排除すべきではないだろう。

 

  • 情緒説と呼ばれる立場の人々は、評価言明当為言明など、価値判断を定式化する言明の固有の意味は情緒の表出ないし惹起にあるとする。
  • 指図主義と呼ばれる立場は、それを「推奨すること」とか「指図すること」というような行為の遂行に求めた。

情緒説の詳細は知らないが、「情緒の表出ないし惹起」と言ったところで、言葉を言い換えただけのようにも思える。

指図主義も詳細はしらないが、「推奨」とか「指図」は、当為(~すべきである)の議論とほとんど同じように思える。

 

ここで井上は、非認識説の諸類型の検討は専門的な分析的議論を要するとして、結論だけを述べている。

  • 規範的発話や評価的発話[価値判断]にも、遂行的・結果惹起的意味の外に、陳述的な意味、即ち、世界について何ごとかを述べ、真偽が帰属するような意味の相が属する可能性が認められるようになっている。
  • 当為言明[価値判断]についても「有効性」や「適切性」のごとき語用論的評価次元だけでなく、意味論的な真理概念が適用可能であることが示されている。
  • 価値判断が真偽を問い得るような意味論的構造を持つことを示したからと言って、客観主義の正しさが証明されたことにはならない。しかし、それは、価値相対主義を論理分析や言語分析の名において正当化しようとする非認識説からの議論を、反駁するには充分である。

専門的な分析的議論は、別途である。(赤字の部分を頭の片隅においておけば良いだろう)

 

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THE FLOW OF TIME (full ver.) より

 

一人の顔なき可能的読者の反論…「それで?」

井上は、相対主義の主たる論拠(確証不可能性、方法二元論、非認識説)を検討し、相対主義による「正解」の不存在証明は成功していないとする。即ち、相対主義が正解だとする論拠は論拠たりえない、と。

ここで、一人の顔なき可能的読者が反論する。

この結論が正しいことを一応認めてもいい。[相対主義を認めない者にとっては]どこかにきっと『正解』は存在することだろう。しかし、それでどうだというのか。どこかにあるはずだとしても、どこにあるか。我々にはしかと知る手立てがなく、遇々(たまたま)僥倖(ぎょうこう)を得て、手につかんでいたとしても、自分が手につかんでいるそれが、まさにそれであると確知することもできないような『正解』など、存在するとは言っても、神のごとき超越者にとって存在するのであって、我々にとっては存在しないのだ。こういう『正解』は『神のみぞ知る』であって、我々のごとき有限者がムキになってそれを探そうとするのは、全く倒錯した試みである。

井上は、悪戯っ気を起こして、これに反問している。

我々にとって確知できないものは我々にとって存在しないと言うのなら、我々の人格的同一性さえ我々にとって存在しないということになるだろう。君は、今この瞬間の君と一分前の君とが同一であるということを確信しているようだが、その信念には君や他者がそう信じているということ以外にどんな理由があるのか。我々の人格的同一性が確証できないがゆえに存在しないとするならば、『我々にとって』という限定詞は果たして意味を持ち得るだろうか。

「私が見ることができない世界は存在しない」対「私が見ることはできなくても世界は存在する」。…お馴染みの議論のようだが、これまた別途としよう。

 

相対主義批判者の対応

我々は、現実に提出されている答案のうち、他と比べて相対的にもっともらしさの度合いが一番高いものを、暫定的に、即ち、よりもっともらしい答案が現れるまで受容すべきである。これは答案(例えば正義理論)の受容可能性・信頼可能性の基準を、確証可能性よりもはるかに緩やかに解釈することにより、独断か破壊的懐疑か、という呪われた二者択一を免れようとするもので、その基本的志向は健全である。

対立・対抗・競争を志向する者は、確証可能性を要求し(粗探しをし、ケチをつける)、独断に近づく。穏健になれば、相対主義(そういう考え方もある)-現状維持となる。

「もっともらしい」という言葉には否定的な意味合いもあるので、私は「妥当」という言葉を使うようにしている。その言葉には「暫定」を含む。(暫定1位とかよく言う)。

妥当である=現時点では、諸事情を鑑みるに、これがもっとも良さそうだ。

まあ、当たり前のようだが、極端に走ると、「独断」となり、「破壊的懐疑」となる。

 

可能的読者への答え

正義真理もそうであるが)のような論争的な「理念」は、彼が想定するように「正解」としてどこか永遠の世界に待機しているのではない。それはむしろ、「問い」として我々の前に突き付けられているのである。正義の理念にコミットするということは、「何が正義か」について超越者が知っている正解にコミットすることではなくこの問いそのものにコミットすることである。それは、かかる正解を手に入れて(手に入れたつもりになって)それをこの世に性急に実現しようとする哲学者王[哲人王]の野心ではなく、この問いを問い続け、解答を異にしながらも同じ問いを問う他者との緊張を孕んだ対話を生き抜こうとする決意である。正解がどこかにあるから問うのではない。逆である。問いを真正の問いとして認めるからこそ、その正解の存在を想定せざるを得ないのである。正解が確知できないから理念(問い)を放棄せよという発想は、理念への帰依という、すぐれて人間的な企ての本質に対する完全な誤解に根差している

Wikipediaは、哲人王について、次のように述べている。

19世紀イギリスでは哲人王の思想はエリート主義的な国家運営のモデルとして見られた。20世紀に入ってからは独裁国家イデオロギーの源泉のように見られるようになり、特にポパーの『開かれた社会とその敵』において哲人王はレーニンヒトラーに直結するものとして批判された(内山勝利)。

井上は言う。

正義の理念がこのような性格をもつとするならば、この理念に依拠する社会とは、人々が解答を共有することによってではなく、問いを共有することによって結合する社会であり、終わることのない自由な対話を通じて、動的な連帯が維持されるような社会である。一つの解答が正解の名のもとにあらゆる批判の声を圧殺し、人々の上に専制的に君臨する社会ほどこの理念を裏切るものはない。

哲人王という言葉を使わずとも、良い意味でも悪い意味でもエリートによる国家運営(政治)が実態であるとするならば、井上が「問いを共有する。終わることのない自由な対話」と言っても、ただ「時が過ぎゆく」という感じもする。