浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

現実世界の政治・経済体制の根幹に関わる規範的議論

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(26)

今回から、第3章 現代正義論展望 である。その内容は以下の通りである。

 第1節 問題状況

 第2節 正義の概念…1.二重の懐疑、2.形式的正義概念、3.エゴイズムの問題

 第3節 正義理論の諸累計…1.功利としての正義、2.権利としての正義、3.公正としての正義

今回は、第1節 問題状況(p.101~) である。

「正義の問題」は、職業的法哲学者の花園か?

例えば、現在では、社会主義諸国だけでなく自由主義諸国においても、福祉国家思想が普及して社会保障制度が発展し、大規模な所得の再分配が行われている。この状況は配分的正義に関する原理的諸問題に人々の目を向けさせずにはおかない。即ち、適正な分配形態は何か分配的公正の確保と個人の自由の保障とはいかにして調整されるべきか、そもそも何らかの分配形態を実現させるために国家が個人の自由に干渉することが許されるのかといった問題である。

視野を地球全体に拡げてみても、南北格差の拡大、資源保有国と非保有国との間の不平等、資源の枯渇、人口爆発、エネルギー危機など、困難な課題が山積している状況での下で、国家間、地域間での配分的正義の問題や、現在の人類と将来の人類との間での分配に関わる「世代間正義」の問題が人々の関心を集めている。

現在(2023年)、配分的正義(一国内の所得再分配のみならず、国家間の配分や世代間の配分の問題を含む)に関して、原理的諸問題(上記アンダーライン参照)が解決(合意)されたと言い得る状況にあるだろうか。正義論ブームは過ぎたのかもしれないが、問題が解決した(合意が得られた)とは思えない。

このように正義の問題は職業的法哲学者の花園という域を超えて、現実世界の政治・経済体制の根幹に関わっており、重大な実践的意義を持つ。しかしまさにこの実践的性格の故に、今世紀[20世紀]に入って実証主義的・相対主義的精神が思想界を席巻すると、この問題の理性的論議可能性そのものに疑いがもたれるようになった。その結果、正義概念のイデオロギー分析・言語分析が優位に立ち、正義に関する本格的な規範的論議は久しく影を潜めていたと言って良い。

政治経済体制の根幹に関わる規範的議論は、たぶん素人には難しい。反体制的な主張をすることは身の危険を覚悟しなければならないかもしれない。

実証主義者や相対主義者が、「理性的論議可能性」そのものに疑問を呈するならば、それは現状を肯定することになるだろう。*1

このような思想動向に対し、一つの転機をなしたのは1971年に出版されたジョン・ロールズの『正義論』である。この著作は正義に関する一つの体系的な規範的理論を提示して多大の反響を呼び、規範的正義論への関心を再燃させた。以後、現在に至るまで多くの論客を巻き込む活発な正義論議が展開され、すでに膨大な文献が蓄積されている。

言うまでもなく、この問題の哲学的重要性はその時局性に依存しない。本章の目的は正義概念の分析を通じて、規範的正義論の可能性を否定する人びとが立脚する若干の誤謬・誤解を取り除くとともに、この領域で扱われるべき基本問題を明確にすること、および正義理論の主要な諸類型について、多少問題点を指摘しておくことである。この小論は現在の正義論議の詳細・緻密な照会・検討への需要に応えることはできないが、自ら正義の問題を考えようとする人々に一つの手がかりを提供することはできるかもしれない。

「政治経済体制の根幹に関わる規範的議論」の重要性は、その時局性に依存しない

現代社会の諸問題をラディカルに(根本的に)考えようとするなら、それは時局性に依存するものではない。

法と正義

本章第1節は、「様々な道徳的・政治的諸価値のうち、正義ほど法と縁の深いものはない」という一文から始まる。

第1に、法は自己の正しい適用を要求する。

第2に、いかなる法秩序も正義の体現者であることを標榜する

第3に、自由・平等・公共の福祉など、現存法秩序への批判の根拠とされる価値・目的には様々なものがあるが、正義の見地からの批判はなかでも特権的な地位を持つ

第2点について、

法と正義との概念的連関は、しばしば主張されるように、「不正な法は、法ではない」という命題を含意するものではない。むしろそれは「正義要求を持たない法は、法ではない」という命題によって表現されるような性質のものである。

第3点について

正義以外の価値や目的については、それらを公然と否認する法秩序も存在し得る。個人の自由を無秩序と等値してこれを抑圧する全体主義的法秩序や、個人をその属する階級に応じて差別的に取扱う反平等主義的法秩序、あるいは何らかの宗教的価値の実現のために現世的幸福の犠牲を人々に要求する法秩序などに対して、自由平等、あるいは福祉の名における批判を加えても、これらの法秩序を支持する人々はかかる批判を的外れとみなすであろう。しかし、正義の名における批判はいかなる法秩序にとっても的外れではあり得ない。いかなる法秩序も「不正」という批判に対しては自己を弁護しなければならない。これは上述の第2点の裏返しである。法はすべて、客観的に正義に合致しているかどうかに関わりなく、正義という価値には少なくともリップ・サービスを払わなければならないのである。

これはちょっと分かりにくい。「正義」と「自由」「平等」「福祉」はどういう関係にあるのか。ここでは「正義」がどういう意味のものであるかが説明されていないので、「正義の見地からの批判はなかでも特権的な地位を持つ」と言われても分からない。次節「正義の概念」で説明があるのだろう。

*1:勿論、実証主義相対主義の主張をよく検討しないで、それらを否定することはできない。