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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

市民社会と公共性 (1) 啓蒙=公共性のプロジェクト

齊藤純一「公共性」(2)

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http://item.rakuten.co.jp/oyasumi/526750/ (この画像の意味は、記事を読んでいただければわかります)

齊藤は、Ⅱ 公共性の再定義 第1章 市民社会と公共性において、ハーバーマス(独の社会哲学者、1929-)の「公共性」の概念を検討している。

1 公共性のプロジェクト

ハーバーマスは、公共性の現実をけっして肯定的に眺めていたわけではない。ハーバーマスが同時代に見てとったのは、「操作的な公開性」であった。

操作的な公開性とは何か。

マスメディアは特権的な利害の顕示のための機会を提供し、大衆はその操作的な力に曝されている。彼らは、「文化産業」(アドルノ)が繰り出すシンボルを唯々諾々と受容しているにすぎない。

現在はハーバーマスが見ていた風景とは違うかもしれないが、現代日本の状況を頭においてハーバーマス(斉藤)の文章を読んでいこう。…マスメディアとりわけテレビが、営利追求の行動を取る(視聴率競争にあらわれる)限りは、「特権的な利害の顕示のための機会を提供」し(特権的な利害に反するものには機会を提供せず)、「大衆をその操作的な力に曝す」(視聴者はあくまで受身の存在であり、視聴者が言説を公開する場ではない)。視聴者は、シンボルを「唯々諾々と」受容しているかどうかわからないが、少なくとも受容せざるをえない。

文化の領域で批評の空間が失われるのと同様、政治の領域においても議論と批判は空洞化する。経済的影響力は地下の水路を通じて政治の場に流れ込み、人びとは多彩に演出される政治的シンボルの前で、ただ「大衆的忠誠」(国民的コンセンサスなるもの)を出力するだけの受動的な立場に甘んじている。

「文化の領域で批評の空間が失われている」のかどうかは良くわからないが、「マスメディアが提供する文化の領域」であれば、批評の空間が失われているような気もする。

「政治の領域において議論と批判が空洞化している」かどうかは、何をもってそう言っているのかが明らかでないので何とも言えない。

「経済的影響力が地下の水路を通じて政治の場に流れ込んでいる」というのは、なかなかうまい言い方だ(が、それ以上のものではない。経済が政治に影響を及ぼすことは、誰もが知っている。)

「人びとは多彩に演出される政治的シンボルの前で、ただ「大衆的忠誠」(国民的コンセンサス)なるものを出力するだけの受動的な立場に甘んじている。」…多彩に演出される政治的シンボルと大衆的忠誠(国民的コンセンサス)、これは覚えておきたいフレーズだ。問題となっている事柄についてよくわからない大衆は、政治的シンボル(もっともらしい言説等)に疑問をいだくことなくひれ伏し、コンセンサスを形成していく。

政治的争点は公共の論議の場から巧妙に取り除かれる。正統性は審議会、諮問委員会等の疑似公共的な空間から直接調達され、政治的意思決定は人々の議論の空間から乖離していく。公開性は、公権力の活動を監視する批判から、「合意の工学」による操作へとそのベクトルの向きを転じている。

 「正統性は審議会、諮問委員会等の疑似公共的な空間から直接調達され、政治的意思決定は人々の議論の空間から乖離していく」…日本の政治の現状を述べているのかと思った。「審議会」については、いずれとりあげたいと思う。

「公開性は、公権力の活動を監視する批判から、「合意の工学」による操作へとそのベクトルの向きを転じている」

…この操作的な公開性は、民主主義の否定を意味するのかどうか。「合意の工学」を、民主主義というのだろうか。

 

20世紀前半の支配的な文脈は、「公共性を、人びとの個体性・単独性を威圧するコンフォーミズム[画一主義、順応主義]の力、もしくは公開性と討議がもぬけの殻となった「幻影」と描く」のであるが、ハーバーマスはこれにどう対処しようというのか。

ハーバーマスが選んだのは、18世紀の市民社会が育んだ公共性の潜勢力を再び甦らせるという途であった。それはカントが「啓蒙とは何か」において提起した啓蒙の理念を再構成し、同時代のいわば再魔術化された公共性の実態に対置するという戦略である。

ここで、18世紀の市民社会とは、「近代において,封建的社会体制から解放され自由と平等を獲得した自立的個人である市民によって成り立つ社会。本来は西ヨーロッパにおける市民革命 (ブルジョア革命) によって成立した社会」(ブリタニカ国際大百科事典)と理解しておこう。

では、啓蒙とは何か。

啓蒙専制君主とその官吏たちの悟性[知性]、人民の生存と生活に配慮する福祉行政の悟性[知性]。…そのような他人の悟性[知性]に頼るのをやめなければならない。

啓蒙とは、そうしたパターナリズムの「あんよ紐」を断ち切り、自立的に思考する力を獲得することである。

パターナリズムとは、

本人の意思に関わりなく、本人の利益のために、本人に代わって意思決定をすること(はてなキーワード

権力者,支配者が被支配者,従属者からの権利要求あるいは外部からの強制によることなく,いわば自主的に恩恵的諸財を与え,そうすることで被支配者の不満,反抗を曖昧にして階級的対抗関係 (労使関係あるいは地主=小作関係) を隠蔽しようとするイデオロギー,あるいは支配者の政策のことをいう。(ブリタニカ国際大百科事典)

 

カントは言う。

各個人にとって、ほとんど自分の天性になってしまった未熟状態を脱することは困難である。それどころか彼はその状態を愛着してしまっており、自分自身の悟性を使用することが現在のところ実際にできなくなっているが、これは彼がそのような使用を試みることをいまだかって誰からも促されなかったがためである。さまざまな規約や法式、これは各人の自然的資質を理性的に使用する、あるいはむしろ誤用するための機械的な道具であり、いつまでも存続する未成年状態の足枷である。(カント「啓蒙とは何か」)

あんよ紐(だっこ紐、おんぶ紐)で安全を確保された赤ちゃんは、自分で歩くことができない。職業政治家や官僚が主導する福祉行政などに、「おんぶに抱っこ」の大衆が、その未熟状態を脱することは困難である。そのことを自覚しても、未熟状態を脱することは困難である。

「さまざまな規約」(法)が足枷になっているという指摘は、一側面の強調ではあろうが、そのような視点を持つことは重要である。

カント・ハーバーマス・斉藤は、どうすれば良いと言っているのだろうか。

自立的思考は自由を必要とする。人びとが互いに自らの思考を公然と他者に伝える自由である。啓蒙のプロジェクトは、公共性の空間をそうした自由が実践される場所として位置付ける。

そのような「公共性の空間」をいかにして創るのかはまだ述べられていないが、「人びとが互いに自らの思考を公然と他者に伝える自由が実践される場所」としての「公共性の空間」が要請される。そのような空間なしには、あんよ紐から脱することができない。

「思考する自由」にとって「思考を公共的に伝える自由」は必須の条件である。…他者の思考に触れ、それによって現状の思考習慣が動揺するとき、私たちの思考は始まる

カントは、思考を他者に伝える自由を「自らの理性をあらゆる点で公共的に用いる自由」と呼ぶ。理性を公共的に使用するとは、自らの属する集団の利害や自らの置かれている社会的立場に拘束されず、公衆一般に向けて自らの意見を表明することである

「自己の思考を他者に伝える」とは、「他者の思考に触れる」ということでもある。

カントは「自らの置かれている社会的立場に拘束されず、公衆一般に向けて自らの意見を表明すること」と言っているが、そんなことが可能だろうか。

カントの言う「本来の意味での公衆」は、「世界市民社会」の成員を指している。公開性は徹底的であり、「理性の公共的な使用」は国境にも妨げられない。他方「理性の私的使用」は、自らが属する集団のために理性を使用することである。

世界は「自らが属する集団」だけで成り立っているのではない。「自らが属する集団」のためだけに理性を使用することは「理性の私的使用」である。「日本」のためだけに理性を使用することは、理性の「公共的な使用」にはあたらない。「公衆」(自己も他者も)は「世界」の成員であり、理性の「公共的な使用」は、思考を世界に(世界を視野に入れて)発信することである。コスモポリタンとしてのカント。

啓蒙=公共性のプロジェクトは、自らの共同体(国家を含む)の利害とされているものに反した意見を表明する自由を擁護する。理性を公共的に使用するということは、共同体の他者に向けて発信することであり、カントの言う公共性は共同体を超えて語るこの自由の実践をいかなるときにも支持するのである。

ハーバーマスが「コミュニケーション的自由」という概念を用いて再構成するのは、この「理性を公共的に使用する自由」の理念である。

反対意見を表明する自由を擁護すること…反対意見を圧殺したり、侮蔑したり、嘲笑したりする。反対意見を形式的にのみ保障する(一定時間のみ自由な発言を許し、議論しようとしない)。反対意見の論拠を吟味しようとせず、多数決でおしきり、多数決が民主主義であるかのようにふるまう。操作的な公開性。啓蒙=公共性のプロジェクトは、そのような操作的な公開性を克服しようとする。

ハーバーマスがカントに見いだした公共性のもう一つの重要なモメントは「批判的公開性」の原理である。

公開性は、不正を認識するための批判的尺度を提供する。公開性は正義を推定すべき根拠を直接私たちに与えてくれるわけではないが、公開性の拒絶は、その意思が不正義であることを推定すべき根拠を私たちに与える。公衆の批判的吟味に対する十分な開放を拒むような立法(政治的意思決定)は、何らかの不正の要素を隠していると判断されてしかるべきなのである。

カントにとって、啓蒙とは人類が正義に適った秩序に向かって次第に接近していくプロセスを意味するが、政治的な意志決定過程が公衆の批判的な吟味に開かれていることは、そうした秩序に近づいていくための不可欠の条件なのである。…公開性がもたらす公衆の批判的論議は、無秩序ではなく秩序の原因としてとらえ直されるのである。

正義に適った秩序がいかなるものであるか? 公衆の批判的な吟味・論議が、いかにして可能であるか?