浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

合理性(2) 消去主義と解釈主義 「欲求や信念は存在しない」のか?

金杉武司『心の哲学入門』(13)

前回は、消去主義と解釈主義の話だった。これは何の話だったのか、復習しておこう。

  • 心脳同一説 各タイプの心の状態は、特定のタイプの脳状態と同一である。
  • 機能主義 各タイプの心の状態は、特定の機能で定義される状態である。
  • 信念や欲求のような心の状態(命題的態度)は、語・文法構造(構文論的構造)を持つ。
  • 脳状態には、独立要素・構成規則構造(構文論的構造)を見出すことができない。
  • 消去主義 信念や欲求のような心の状態(命題的態度)は存在しない。(フロギストンのようなもの)
  • 解釈主義 信念や欲求のような心の状態(命題的態度)の本質は、因果性から自律したものとしての合理性にある。

 

今回は、消去主義と解釈主義について、いささか消化不良なので、再度みていくことにする。

 消去主義によれば、心に関するわれわれの常識的知識の総体である常識心理学は、人々の行為を説明することをその中心的役割とする一つの理論にほかならない。

常識心理学は、行為の原因は、命題的態度[信念や欲求]であるとする

ある信念や欲求があるから、ある行為がなされる。極めて常識的な見解である。

常識心理学という分野があるのかどうかはさておき、心理学が行為を説明しようとする理論であることは間違いないところだろう。

消去主義は、常識心理学が誤った理論であると考えるのであるが、何故かと言うと、

常識心理学が正しい理論であり、命題的態度[信念や欲求]が実在することを認めるためには、命題的態度[信念や欲求]を脳状態として位置づけることができなければならない。しかし、(脳状態には構文論的構造[要素・規則構造]がなく)命題的態度[信念や欲求]を脳状態に個別的に対応づけることはできない。それゆえ、常識的心理学は誤った理論であり、命題的態度[信念や欲求]の実在性は否定されるのである。

この説明を理解しておこう。納得するかどうかは別として。

第1回目(「心」は、物理的な存在か? (1) )でみたように、念力を使わない限り、非物理的なもの[心]が、物理的なもの[物]を動かすことはできない。【心の状態→身体運動】という因果関係は、中間に「脳状態」が入って、【心の状態→脳状態→身体運動】という因果関係になるが、「心の状態が原因で、ある脳状態が生じる」という部分が問題になる。非物理的な心の状態は、いかにして物理的な脳状態に変化を及ぼしうるのか。これまでのところ未だ明確な答えが得られていない。ただし脳状態には、非物理的な心の状態と同じような語・文法構造(=独立要素・構成規則構造=構文論的構造)がなければならない、というのがこれまでの議論であった。そこで上記の説明に続く。

消去主義は、「脳状態には、独立要素・構成規則構造(構文論的構造)がないので、信念や欲求のような心の状態(命題的態度)を、脳状態に個別的に対応づけることはできない」ので、信念や欲求のような心の状態(命題的態度)は存在しないと主張する。

信念や欲求が存在しない?…消去主義は、ホントにそんなことを主張しているのか?

 

消去主義は、命題的態度[信念や欲求]を脳状態に個別的に対応づけることはできないということを理由にして、常識心理学は誤った理論であると結論する。これは、常識心理学を、原因に言及することによって行為を説明する理論、すなわち、行為の「因果的理論」として理解しているからにほかならない。常識心理学が行為の因果的理論として適切であるためには、常識心理学の描く心の状態が、行為の原因である脳状態に個別的に対応づけられなければならない。そうでなければ、常識心理学において言及される心の状態は、行為を生み出す因果関係の中で何の役割も果たさないものとして浮いてしまうからである。

消去主義が常識心理学を因果的理論として理解するのは、命題的態度[信念や欲求]を、行為の原因として認められてはじめてその実在性が認められるものとして理解しているからである。

行為の原因であるとして認められてはじめてその実在性を認められるものとして命題的態度[信念や欲求]を理解しているという点では、機能主義も同様である。機能主義が、命題的態度[信念や欲求]を脳状態に個別的に対応づけられるべきものとして理解するのは、命題的態度[信念や欲求]を実在するものとして理解し、その実在性を以上のように因果性に基づいて理解しているからにほかならない。消去主義と機能主義は、一方は命題的態度[信念や欲求]の実在性を否定し、他方はそれを肯定するという点で正反対の立場であるが、因果性を心の本質と見做し、心の実在性を因果性に基づいて理解しているという点では考え方を共有しているのである。

「常識心理学」の立場から(心理学理論に無知な世間一般の常識的な者からみてという意味だが)、金杉の言う消去主義をどう考えるかであるが、(1) 信念や欲求といった心の状態の実在性を否定するとは、信念や欲求というものは幽霊のようなものだと言うのか。(2) 心因性障害という言葉があるが、このような「心」というものは存在しないというのだろうか。(3) 犯罪(行為)の動機という言葉があるが、量刑を決める際に、動機(心の状態)を考慮する必要はないというのだろうか。(4) 消去主義はそんな意味で、実在性を否定しているのではないと言うなら、どういう意味で実在性を否定しているのか。

 

金杉は、消去主義にも、機能主義にも疑問を呈している。

しかし、心の本質、特に命題的態度[信念や欲求]の本質は因果性にあるのだろうか。そして、命題的態度[信念や欲求]の実在性は因果性に基づいて理解されなければならないものなのだろうか。

命題的態度[信念や欲求]にとって、何が本質的なのか。

解釈主義は、因果性から自律したものとしての合理性に、命題的態度[欲求や信念]の本質を見出す。…解釈主義によれば、命題的態度[欲求や信念]にとって本質的なのは、解釈において認められるような命題的態度[欲求や信念]や行為の間の合理的関係が成立するということであり、そのために命題的態度や行為の間に因果関係が成立する必要はない。

何度読んでも難しい。合理性? 命題的態度や行為の間の合理的関係? 

例えば、ある人が友人にプレゼントを買いたいという欲求を持っているかどうかは、その人の様々な命題的態度や行為を合理的なものとして解釈する際に、その欲求がその人に帰されるかどうかによって決まることであって、その欲求が他の命題的態度や行為と因果関係を成しているかどうかとは関係がない。

 

例え話で、入門者向けにやさしく説明してくれているのだろうが、分からない。

「その人の様々な命題的態度や行為を合理的なものとして解釈する際に」…ある人が欲求を持っているかどうかは、他の人が「解釈」することに依存しているのか。他の人が「解釈」しなければ、ある人が欲求をもっているかどうか決まらないのか。私はいまこのブログには書けない「ある欲求」を持っている。でもそれは他の誰かが「解釈」してくれなければ、私は「ある欲求」を持っているかどうか決まらない! 私は書いてもいないし、話してもいない。どのようにして他の人が「解釈」できるのだろうか。

「その人の様々な命題的態度や行為」…命題的態度とは具体的には何? 行為とは具体的には何? 

「合理的なものとして解釈する」…「合理的」とはどういう意味か? 「解釈」とはどういう意味か?

「解釈」というが、誰が解釈するのか? 分析哲学者が解釈するのか? 認知症患者が解釈するのか? 幼稚園児が解釈するのか? 

「~解釈する際に、その欲求がその人に帰されるかどうか」…ここで言う「その欲求」とは何か? 最初の「ある人が友人にプレゼントを買いたいという欲求を持っているかどうか」というときの「欲求」のことか? 仮にそうだとすると、持っているかどうか分からない欲求をどのように捉えようというのか。そうではないとしたら、ここで言う「その欲求」とは何か?

ある人が「友人にプレゼントを買いたい」と(ウソの)発言したら、その欲求がその人に帰されることになるのか? 「その人の様々な命題的態度や行為」を観察・分析して、その発言がウソかどうか吟味するのか?

要するに、この例え話の一言一句が分からない。

金杉は、信念の例も挙げているが、同じことなので省略する。

f:id:shoyo3:20160214115039j:plain

https://eccentricthinker.files.wordpress.com/2013/10/self-realization.jpg

 

つまり、ある人がある命題的態度[欲求や信念]を持っているということは、解釈においてその命題的態度[欲求や信念]が合理的なものとしてその人に帰されるということにほかならないのである。

このように因果性を命題的態度[欲求や信念]の本質とは考えない解釈主義によれば、命題的態度[欲求や信念]を行為の原因として認めることができないとしても、その実在性を否定する必要はない。解釈主義によれば、因果性から独立した合理性こそが命題的態度[欲求や信念]の本質である。

上述の通り、私には「解釈主義」が何を言わんとしているのか、全く理解できない。

 

金杉は、議論をまとめている。

近年の神経生理学の成果によれば、脳状態に構文論的構造を見出すことは出来ない。それゆえ、心の本質を因果性に見出し、個々の命題的態度を、行為の原因である脳状態によって実現されているものとして理解する機能主義は誤りであることになる。しかし、だからと言って、消去主義の言うように命題的態度の実在性を否定しなければならないわけではない。命題的態度の実在性を否定しなければならないように思われるのは、消去主義が機能主義と同様に、因果性に命題的態度の本質を見出し、因果性に基づいて命題的態度の実在性を理解しているからに過ぎない。我々には、合理性に命題的態度の本質を見出し、合理性に基づいて命題的態度の実在性を理解する解釈主義と言う選択肢が残されている。命題的態度の実在性を否定することほど、心に関する我々の常識に反するものはないように思われる。この点を考慮するならば、機能主義が否定されることによってより強く支持されるのは、機能主義と同様に因果性に心の本質を見出す消去主義の正しさではなく、むしろ、合理性に命題的態度の本質を見出す解釈主義の正しさであると考えるべきではないだろうか。

これまで述べてきた通り、私には何を言わんとしているのか、全く理解できないまとめである。別の本を読んで、金杉の言っていることを理解できるように出直したほうが良いかもしれないが、せめて「合理性」とか「解釈」が何を意味しているのか説明してほしかった。この後に、出てくるのかな。

 

金杉は、Q&Aで、次のように書いている。

Q:解釈主義は、結局のところ、命題的態度をどのような存在として理解する立場なのか? 心を非物理的存在として理解しているのか、それとも機能主義などと同様に、物理的存在として理解しているのか?

A:これは難しい問題である。…それはどのような存在なのだろうか。この点について考察を進めることは、入門書の範囲を超えていると言わざるを得ない。

この答えには、まいった。まさか金杉は「解釈主義」を理解していないわけでもあるまい。まとめで「機能主義が否定されることによってより強く支持されるのは、合理性に命題的態度の本質を見出す解釈主義の正しさであると考えるべき」と言っているのであるから、なぜこの問いに答えないのか。端的に、Aであるから、Bであると理解している。詳細は、○○を参照せよ、と言えば良いのではないか。