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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

不平等論(2) 効用の個人間比較を考える

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(7)

立岩 今の話で言うと、リソースと呼ぶかはともかくとして、それ[モノ・情報、身体的・精神的能力]は、結局何らかの形で人に使用され利用されるから意味があると考えるわけでしょ。これは要するに手段なわけだ。手段は目的に対する手段なのだから、結局それは目的において計られるのが当然であろうと、素朴に考えればそうなる。そうするとそれを使って、良かったの、良くないのっていう話がでてくる。ならその水準で考えるべきでしょ、それぞれの人の評価を基準とすべきだろうという話に対してどう言うか。これは考えどころです。

リソースについては、先に、稲葉の説明があった。(不平等論(1)「機会の平等」と「結果の平等」参照)

稲葉 ドゥウォーキンは、①人間の外にあるモノとか情報(external resource)とかの所有において格差がある。②人間の性質、素質、いわゆる身体的・精神的能力その他(internal resource)の所有においても格差がある。この外的・内的両方のリソースの平等にコミットする、という。

私は、いろいろなモノや情報を持っている。私は、身体を持っている。知性や心を持っている。私が社会の中で生きていると言うことは、これらを「何らかの目的」のために使っているということである。「究極の目的」は曖昧模糊としてわからないかもしれないが、当面の目的(食事をする、サッカーを観る、船舶を設計する、ケイタイの部品を製造する、ドレスを販売する、……)を達成するために行動している。ではそれら(モノ・情報、身体的・精神的能力)を使って、目的は達成されたのか、満足したか、結果は良かったのか、良くなかったのか。それと意識しなくても、必ずこういう「評価」(反省)は為されるだろう。ここで「どの程度満足したか、どの程度良かったか」を、「主観的満足度=効用」と呼ぶことができる。そしてこの効用=主観的満足度が、社会全体として大きくなるような行動、そのような行動を可能にする制度・政策が望まれる。…この話、これで良いのか?

 

立岩 というのも、それをためらう部分もあり、それももっともなことのように思うからです。ぼくも含めて、人それぞれの良し悪しみたいなものを比べたり量ったりってことが何かよろしくないんじゃないかってどこかで思ってるところがある。それはたぶん大切な気持ちではあると思うんですよ。比べるなんてなんかおこがましいっていうか、大丈夫なのかな、みたいなね。

立岩は「ためらう部分」があるという。それは、効用=主観的満足度を、比べたり、量ったりすることのためらいか。私の効用(主観的満足度)とあなたの効用(主観的満足度)とが、質的に異なることは直観的に認められよう。こういうものを量的に把握し、比較したり、集計したりすることは出来ない。そもそも、そういうふうに計数化しようとする発想自体がおかしいのではないか。

 

立岩 ただ、本当の考えどころは、ここでとどまってよいのかです。ここ数十年、人それぞれ良し悪しはあるから、それを並べたりカウントするのはよしときましょうやっていう話がなされてきました。比べるなんてしていいのか、できるのか――ぼくはしていいことと出来ることっていうのは別のことだと思う――そういう話の中で、人と人との効用みたいなものを比較しないでおこうとなる。で、なにか言えるかとなって、パレート最適って話が出てくる。そうするとその時点で、何か新しいことを言ったつもりが、まったくの近代の主流の話になっている。それでいいのかってことです。

効用=主観的満足度を個人間で比較することは出来ない。だから比較しないでおく。だけれども、ある状態Aが、ある状態Bよりはよいだろう程度のことは言えるようだ。これがパレート最適の話につながるのだろう。ただし、パレート最適の話は難しいので、後で取り上げるとして先に進もう。

 

立岩 ぼくは比較することの危うさと、危なさを知りつつも、自覚しつつも、比較をときに恐れるべきではないと思います。例えば、どれだけかの水があって、それをAさんはお風呂に使う、お風呂に入ると気持ちいいですね。そこには効用が発生している。もう一人のBさんは昨日から水を飲んでなくて、喉が渇いていて、その水を飲む。良し悪しは人それぞれだから、Aさんが風呂入って気持ちいいってことと、Bさんが水飲めて生き延びたと思うのを比べられない、という話に乗れるか乗れないかって話がある。比較できないからしませんって話にはならないだろう。それが前からぼくが思ってることの一つです。

効用=主観的満足度を個人間で比較することは出来ない。「だから比較しないでおく」と片づけてしまわず、もう少し突っ込んでみる姿勢が大切だ。「風呂のための水」の効用と、「生き延びるための水」の効用、これを「比較しないでおく」ということは、何を意味するのか、ということである。…「経済学」のテキストに、こういう話が出てくるかどうか。

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「比較」に関して、立岩は補足の文章を書いている。

<立岩> 比較できるとは…2つのものに何か共通の尺度で見ることのできるものがあり、その多少を量ったり、順番をつけることが出来るということ。人間の満足や幸福の度合いなどについてはどうか。出来るともいえるし、出来ないともいえる。そして、「比べられない」と言うのがこの頃の流行ではある。

人と人とを全体として比較すること。これは多くの場合に不遜で不当なことである。しかし、このことは、常に比較することが良くないことを意味しない。いま挙げた、水を得られないことがもたらす二つの事態のどちらが深刻か、比べることはできるし、比べられるべきである。

例えば、どうしても毎日風呂に入らないと我慢が出来ない人がいたとする。…その人の言うことを聞いていたら、もっと水を必要とする(ように思える)人たちに水が渡らないかもしれない。そこで、主観的な満足度などといったものを分配の基準から外すべきだといった具合に話が進行する。しかし、その「高価な嗜好」を持つ人の言うことをすべて真に受ける必要はないということと、何かが人にどのような意味を有するのかを考慮したり比較しないこととは別のことである真に受ける必要がないという思いを、その人の嗜好・選好が間違って形成されてしまっている、あるいは、他人の嗜好・選好をどのように受け止めるか、自分のそれとの優先関係を考えるか、どう考えるかについて、どこかでその人は間違ってしまっているという言い方によって表現することもできる

私が、アンダーラインを引いたところは、非常に重要なことを言っていると思う。何度も読み返したい。

 

<立岩> ただ、リベラルな人たちは、それは個人への干渉であり、個人的なものを他人が評定することであり、不当であるとして認めないだろう。つまりその人たちは、不可侵な大切なものであるがゆえに、それにさわらない方法を採るべきだというのである。しかし、それはいくつもの意味で奇妙なことだ。例えば、高価な嗜好を主張する人の言い分をすべて認められないと思うとして、それは、嗜好を考慮することが不当だからだろうか。そうではないだろう。その人の嗜好を知った上で、それをどの程度考慮したらよいのかと考えてのことではないだろうか。その人の言い分を聞かないという道筋を採ること自体に、すでに評価、本人の評価についての評価は含みこまれているのである。

個人的なことに干渉するな。趣味・嗜好・思想・信仰に、他人が口出しするな。個人の自由を確保せよ。自由を侵害するような立法や政策には反対する。…というような自由至上主義者の主張は、立岩が適切に説明しているように、強者の論理であろう。弱者の主張に配慮せず、無視すると言うことは、自由の名のもとに民主主義を圧殺することになるだろう。私たちが考えなければならないのは、既存の法や制度がそのような民主主義・対話を拒否するようなものになっていないかという問題である。

 

 立岩 繰り返すと、結果とか効用っていう話は危なく思える部分があって、それにももっともなところはあるけれども、だけど、ではそれをやらないで、パレートの方に話を戻すのかっていったら、そうじゃないだろう機会の平等と言っても、資源の平等と言っても、おかしい。それがぼくに言いたいことの一つ。

それに加えると、一方でぼくらは、人それぞれなんだから比較したりしちゃだめというようなことを言いつつ、もう一方で、医療や福祉の業界ではQOL*1が大切だとか言うでしょ。それは何かって言ったら、自分の生活の状態で、まさに質ですよね。それはよい方がよいと言う話で状況は動いている。その二つの言説が併存していて、両方が言ってることの差異に気が付かないみたいな妙な状況になってるというのは、ぼくはおかしいと思う。

 QOLというのは、興味深い概念である。「より良い暮らし」でもよいのだが、社会保障(福祉)に限定しないほうがよいだろう。QOLと厚生経済学の諸概念は、相容れないものなのかどうか、

 

立岩 そうすると、効用と言うかどうかはわからないけれど、ウェルフェアの平等、平等でなくてもウェルフェアにおいて一定の水準をすべての人に担保するというのはいいじゃないの、どこが悪いのっていう話に、ぼくの場合にはなる。それと、そこに踏み込まず、…とりあえずミニマルって言うのと、ここでやめときましょうっていうのはかなり違うじゃないですか。そういうことを含めて、ぼくの場合は機会の平等も大切だって話には乗れますけれども、いま言ったような意味でウェルフェアの水準において、まっ平らなフラットがいいかというと話は別だけれども、一定の水準がキープされるべきであるそれを目標に社会を立てていく、そこにどうやって国家がからむのか、っていうふうに話の順番を進めていくというのが、ぼくのスタンスで、そうして考えてきて、これからまだしばらく考えていくことになろうかと思います。それとの差異と言うか、あるいはやっぱりお前の話は危ねえっていうのか、そういう感じで返してくれるとよいかなと思うんですが、いかがでしょう。

とりあえずミニマル」というのは、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(憲法25条第1項)」の「健康で文化的な最低限度の生活」であろう。それに対して、立岩が言う「ウェルフェアにおいて一定の水準」というのは、完全平等ではないが「健康で文化的な(相応の)生活」をいうものと考える。そして「ここでやめときましょう」というのは、「機会の平等」ぐらいは(形式的に)認めよう、結果どうなろうと「自己責任」である、というものだろう。

 

さて、立岩の以上の言説に対して、稲葉はどう応答するか。それは次回に。

*1:QOL(Quality of Life)…生活の質。人が人として尊厳を保ち、よりよく生きること。