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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

人間は宇宙で特権的な地位を占めてなどいない

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(31)

ラマチャンドランは、「自己を特徴づける特性」について、ポスドクの研究生ウィリアム・ハ―スタインと、以下のようなリストを作った。今回は、6.警戒の自己と7.概念の自己と社会的自己である。(前半の話は、あまり面白くない)

  1. 体現化された自己
  2. 感情の自己
  3. 実行の自己
  4. 記憶の自己
  5. 統合された自己-意識に一貫性を強要し、書き込みや作り話をする自己
  6. 警戒の自己
  7. 概念の自己と社会的自己

 

警戒の自己

ラマチャンドランは、クオリアと意識の根底にある神経回路を突き止める重要な手がかりを与えてくれる神経系の障害として、脳脚幻覚症と無動無言症を説明しているが、これがなぜ「警戒の自己」なのかよくわからない。ここで述べていることは、

脳幹と視床の回路が、意識やクオリアにおいて重要な役割を果たしているのは確かだ。しかし単にクオリアを「支えている」だけなのか(支えていると言えば、肝臓や心臓だって支えている)、それともクオリアや意識を組み込んでいる回路の構成部分なのかは、まだわかっていない。

ということにすぎないように思える。

 

概念の自己と社会的自己

自己という概念は、「幸福」とか「愛」とかいった他の観念的な概念と根本的に変わらない。したがって、私たちが普通の会話で「私」という言葉を使うさまざまな使い方をつぶさに調べれば、自己とは何か、どんな働きをしているのかについて何らかの手掛かりが得られそうだ。例えば抽象的な自己概念が、自己に関する様々な事実(体の状態、体の動き等々)に対する責任を認める、あるいは主張するためには、「低次」の部位に連絡しなくてはならない(ヒッチハイクで親指を立てるときの親指はあなたが「コントロール」しているが、ゴム製のハンマーで腱をたたかれたときの膝は違う)。

「抽象的な自己概念が…」の文は、非常に分かりくい。何を言っているのだろうか。私(自己)が、自分の体をコントロールしていると言えるためには、私(自己)と脳の「低次」の部位とが「連絡」していなくてはならない、という意味だろうか。

また自己について考えたり話したりするには、自己概念が自伝的な記憶や身体イメージに関する情報にアクセスする必要がある。正常な脳には、こうしたアクセスを可能にする特殊化された経路があるが、この経路のどれか、あるいは複数が損傷を受けると、自己表象系がそれを何とかしようと試み、その結果として作話が生じる。例えば否認シンドロームでは、左半身に関する情報と患者の自己概念とをつなぐ経路が全くない。しかし自己概念は左半身の情報を自動的に組み入れるようにできている。この最終結果が疾病失認あるいは否認シンドロームとなる。自己は、腕は大丈夫だと「推断」し、腕の動きを「書き込む」。

否認シンドロームについては、「見たくない現実を無視する」のは、病気であるか?(2)参照。否認の話はまた後で出てくる。

自己表象系の特性の一つは、欠陥をカバーしようとして作話をすることだ。この主たる目的は、第7章で見た通り、決断できない状態が続くことを防止し、行動に安定性を与えることだ。しかしもう一つ別の重要な機能が、哲学者のデネットが言う、一種の作り出された自己あるいは物語を語れる自己を支えているのかもしれない――つまり私たちが自分を統一されたものとして前面に出すのは、社会的な目的を達成し、他者から理解される存在になるためかもしれない。また私たちは、自分の過去と未来のアイデンティティを認める存在として自分をあらわす。過去の功績や責任を認めることは、社会が個人をその制度に効率よく取り込むのに役立ち、したがって私たちの遺伝子の生存や継続を高める。

ここはデネットを読まないと理解が難しいかもしれない。(つまり、何を言わんとしているのか分からない)。

 

自己がまったくプライベートなものであるのは自明に近いことなのに、その自己はかなりの程度まで、社会的な構築物――他者のためにつくりあげた物語――なのである。私は否認についての論考のところで、作話や自己欺瞞が、主として安定性や内面の整合性や行動の一貫性を無理にもたせるための副産物として進化してきたのではないかと述べた。しかしある重要な付加的機能が、他者の眼から真実を隠す必要性から出てきた可能性がある。

人間が社会的動物であることは誰でも知っている(暗記的知識として知っているだけで、本当に理解しているとは思えないが…)。これを、自己とは「社会的な構築物」(他者のためにつくりあげた物語)というのは、非常に面白い。ラマチャンドランがいう「安定性や内面の整合性や行動の一貫性」というのも、「社会的な構築物」であるがゆえに要請されるものであろう。他者のことを何も意識せず、ただ生命を維持しているだけなら、人間とは呼ばないだろう。細菌と呼ぶのがふさわしい(ような気がする)。なお、細菌とは「原核細胞を持つ単細胞の微生物。原形質に明瞭な核をもたない生物の一群。主に分裂によって繁殖する。地球上の至る所に存在する」(デジタル大辞泉)。(ここでちょっと言ってみたかったのは、人間の顔をした細菌が増えているのではないか? ということ)

 

進化心理学者のロバート・トリヴァースは、自己欺瞞が進化したのは、主として車のセールスマンのように、確信をもって嘘をつくためだという独創的な説を提唱している。何といっても嘘は、就職の面接や交際中など、数多くの社会的状況で有用である。問題は、辺縁系がしばしば意図をばらし、顔の筋肉がうしろめたさの印を漏らしてしまうことだ。これを防止する一つの方法は、まず自分をだますことだ、トリヴァースは言う。自分が自分の嘘を本当に信じ込めたら、表情から嘘がばれる心配がなくなる。そして嘘をうまくつくという必要性が選択圧となり、自己欺瞞が生まれた。私はトリヴァースの説が自己欺瞞の全般的な理論として納得のいくものだとは思わないのだが、この説はある特定の種類の嘘に対しては特別な説得力がある――自分の能力に関する嘘、あるいは自慢である。自分の長所を自慢すれば、デートの機会が増える見込みが高くなり、したがって遺伝子をより効率よく広められる見込みも高くなる。むろん自己欺瞞の報いとして妄想的になってしまうかもしれない。例えば、ガールフレンドに自分は大金持ちだと言うのと、実際にそう思い込むのは全く別物で、思い込めばありもしない金を浪費し始める。その一方で、(求愛の合図のやりとりなどで)上手に自慢をする利点は、少なくともあるところまでは、妄想の欠点を補ってあまりあると考えられる。進化戦略はつねに妥協なのである。

自己欺瞞(自分がすぐれていると思い込む)はよく見かける。話のタネとしては、面白いかもしれないが、それを遺伝子を広めるとか何とかの話に結びつけるのはどうかと思う。(進化の話はいずれ)

 

では自己欺瞞が社会的な文脈の中で進化したことを証拠立てる実験をすることができるだろうか? 残念ながらこれは(これに限らず、進化の議論はすべてそうだが)、簡単に検証できるようなものではない。しかしここでも、防衛が肥大化した否認シンドロームの患者が助け舟を出してくれる。否認の患者は、医師に聞かれると麻痺があることを否定するが、自分自身に対しても否認をしているのだろうか? 見ている人が誰もいないときでも、否認しているのだろうか。私の実験では、そうしていることを示す結果が出ているが、誰かがいるときのほうが妄想が増幅されるかもしれない。腕相撲が出来ると自信をもって断言するとき、彼の皮膚は電気反応をするだろうか? 「麻痺」という単語を見せたらどうなるだろう。麻痺を否認しているにもかかわらず、麻痺という単語に動揺して強い反応を示すだろうか? 普通の子供が作り話をするとき、皮膚に変化が出るだろうか? もし神経学者が卒中のために疾病失認(否認シンドローム)になったら? 自分が否認をしていることにさっぱり気づかないまま、学生に疾病失認について講義をし続けるだろうか? 実際この私がそうではないと、言い切れるだろうか? 私たちはこうした疑問を提起することによってのみ、科学と哲学の最大の難問、自己の本質に近づいていくことができる

よく分っていないのに、すぐに納得してしまう。問題には、必ず正解があり、それも一つしかないと思っている。権威者のいいなりになる。そんな人は「自己」に対して「問い」を提出することはないだろう。…しかし、ラマチャンドランはいくつもの問いを提出している。私たちが学ぶべきは、こうした問いを提出する能力だろう。

 

この30年間、世界中の神経科学者は、わくわくするような神経系の細部を解明し、精神活動の法則やそれらの法則が脳から生じる仕組みについて、非常に多くの知識を積み上げてきた。その進歩の速度は心をはずませるが、それと同時に、得られた知見が多くの人を落ち着かない気分にさせている自分の人生が、希望も成功の喜びも大望も何もかもが、単に脳のニューロンの活動から生じていると言われるのは、心が乱れることであるらしい。しかしそれは、誇りを傷つけるどころか、人間を高めるものだと私は思う。

「自分の人生が、希望も成功の喜びも大望も何もかもが、単に脳のニューロンの活動から生じている」というのは、多くの神経科学者の結論かもしれないが、科学的事実(真実)と言ってよいのかどうか分からない。特に「生じている」というのは、説明不足であり、すぐには納得できるものではない。

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科学は――宇宙論や進化論、そしてとりわけ脳科学は――私たちに、人間は宇宙で特権的な地位を占めてなどいない「世界を見つめる」非物質的な魂をもっているという観念は幻想にすぎないと告げている(これは東洋の神秘的な伝統であるヒンドゥー教禅宗が、はるか昔から強調してきたことである)。自分は観察者ではなく、実は永遠に盛衰を繰り返す宇宙の事象の一部であるといったん悟れば、大きく解放される。また謙虚さも養われる――これは真の宗教的体験の本質である。簡単に言葉で表現できるような概念ではないが、宇宙論学者のポール・デイヴィスが非常に近いところに迫る表現をしている。

少なくとも、科学に信頼をおく者は、私がいま赤字にした部分は、その通りだと思っているだろう。人間が「宇宙の事象の一部」であると悟ることが「真の宗教的体験の本質」であるとすれば、それは「科学」と矛盾するものではない。(私は、それが「真の宗教的体験の本質」であるとは思わないが…)

この後、ラマチャンドランは、デイヴィスの文章(内容は省略)を引用して、次のように述べている。

そうなのだろうか? 脳科学はこれからも素晴らしい業績をあげるだろうが、私は脳科学だけでこの問題に答えが出せるとは思わない。しかし問題を提起できるということそのものが、私たちの存在のもっとも謎めいた局面だと私は思う。

言い換えれば「意識が、私たちの存在のもっとも謎めいた局面だ」ということになろう。

 

以上で、本書は終了である。

次回は、別の本を読み始めるかどうか未定である。